第58話 「友とコーヒーと64と風呂敷袋」
家に帰る途中、とある珈琲屋に寄ることにした。 最近、過酷な日々を送ってきた俺は一杯の珈琲で癒されたいと思っていたのだ。 その珈琲屋は俺の家から少しばかり離れた、人目につきにくい脇道にひっそりと佇む様に在り、知る人ぞ知るといった言わば隠れ家的な場所だ。 そこの店主であるヒゲのマスターが淹れてくれる珈琲がとてつもなく美味い。 一口飲めば、身体の芯から疲労感がじんわりと流れ出ていくかのような気分になれるのだ。 この珈琲屋の存在は、未だに文麿や阿南には教えていない。 今後も教えないつもりだ。 周りでは俺だけが知っている、そんな自分だけの秘密の空間を俺は大事にしていきたいと思っているのだ。
今から一年半くらい前に、俺は同じクラスの田上君の家に忍び込んだ。 確か俺が仮病で学校を休んだ昼下がりのことだ。 田上君が学校へ行っていることをいいことに、俺は田上君の部屋へ窓から侵入し、NINTENDO64を風呂敷に丁寧に包んで逃亡した。 誰かが追いかけてくるかわからなかったため、俺は風呂敷を背負い、緑色のほっかぶりをかぶって必死に走った。 今から考えると、その見た目は誰が見ても泥棒そのものであったに違いなく、昼の明るい時間帯には逆に目立つ姿だったのではないかと反省しているが、幸い誰にも見つからないまま事なきを得た。 その逃走中に見つけたのが、先ほど触れた珈琲屋である。 走りすぎて疲れていたため、迷わず扉を開いた。
扉を押した時の重厚感、そしてその後に現れた夢のような広がりを見せる空間。 全体的に薄暗く、間接照明で大人な雰囲気が演出され、ジャズが耳当たりの良い音量でかかっている。 いかにも珈琲を楽しむべき場所という表現がぴったりであった。 マスターと思われる初老の男性が奥から出てきて、「いらっしゃいませ」と一言。 その男性は口ひげをたくわえており、その毛色は銀色に染まっていた。 俺はブレンドを注文すると、男性はそそくさとペーパードリップで黒い液体を抽出し、カップに移して、カウンター席に腰掛けている俺の元へ静かに置いた。 やはりこの男性がマスターだったのだなと思いながら一口、二口と黒い液体を口内に含んでいく。 その瞬間に身体が溶けるのうな快感を味わったことは今でも忘れない。 ヒゲのマスターとは話も合い、頻繁に足を運ぶようにもなり、この珈琲屋は俺にとって特別な場所となっていったのだ。
そして今日。 また来ましたといった具合で俺は珈琲屋の扉を慣れた手つきで開けると、扉に付けられたべルがチリリンと鳴り、ヒゲのマスターがこちらを見て「いらっしゃいませ」と一言。 その一言にハモるかのように、もう一人の青年も「いらっしゃいませ」と一言。 よく見ると、そのカウンター席に座っている青年は文麿その人であった。
「おい、何故お前がここにいるんだよ」
俺は文麿に問い詰めるように言い放った。 文麿は何もなかったかのように珈琲カップに口をつけ、一口すすった後、
「ここの珈琲は絶品だね。こんな良いお店があるのは恥ずかしながら知らなかったよ。しかし、口の軽い君が僕にも教えないなんて、本当に特別な場所だったんだね。まあ君も隣に座りたまえよ」
と言いながら、口をナプキンで拭いた。 俺は文麿の隣の席に腰をかけ、
「口が軽いことで有名なお前なんかに言われたくない。ところで、どうやってこの店を見つけたんだ」
と問いかけると、
「いやいや、君が教えてくれたんじゃないか」
と笑いながら話した。
「俺はお前なんかに教えた覚えはないぞ」
俺は語気を強めて言ったが、 その確信を文麿が壊すがごとく話し始めた。
「君、くちゃきのことを覚えてるかい?志村という村に住んでる女の子。君が少し好きになりかけてたけど失敗に終わった女の子だよ。あの子との共通の話題欲しさに君が図書館で数冊借りてきた志村の歴史に関する書籍があっただろう? 君が途中から興味をなくしてたから僕がその書籍を君から先日借りたじゃないか。その書籍類の中に薄っぺらいノートが一冊挟まっててね。これはいったい何だろうと確認してみたら、君がつけた日記だったのだよ。字が汚くて解読するのにすこぶる時間がかかったんだけどさ」
俺はその話を聞き、背筋が凍る感触を味わった。 あの日記には、一日に屁をこいた回数や、そのうち臭かった回数、個人的に納得のいく音が鳴った回数、連続放屁回数の記録など、俺の生活のすべてと言っても良い内容が記されていたはずだ。 硬直している俺には構わず、文麿は話しを続ける。
「それでね、君の日記を読んでいたらこの珈琲屋さんについても触れられていてね。今日はちょっと試しに行ってやろうと思って来てみたら、偶然にも君と鉢合わせしたわけだよ。 まったく君にはいつも驚かされる。きっと何かを感知したんだろうね。 で、話は変わるけど、田上君から盗んだ64。あれを僕によこしなさい。あれは僕が田上君に借りパクされたものなのだよ。まさか、君の家にあった64が僕の64だったとは思わなかったよ。 ただ、盗んだは良いけどソフトを盗み損ねて結局何もプレイできなかったことも日記に書いてあったから、おおいに笑わせてもらった。ソフトは僕が持ってるから、今度我が家でやろうじゃないか」
俺は癒されるために入ったはずの珈琲屋でぐったりうな垂れる他なかった。 ヒゲのマスターはいつもどおり、そんな俺たちを見ながら機嫌よくハンドピックしていた。




