第3話 「罪と罰」
ようやくトイレにたどり着いた俺はいの一番に自糞で描いたと思われるアルタミラやラスコーもびっくり仰天の壁画を見に行ったのだが、 思った以上にカピカピになっており、相当時間をかけないと除去できないだろうという見栄えであった。俺は呆然としたが、それよりも早く除去作業に取り掛からなくてはならない。とりあえず便器の中に捨てた衣類等を引っ張りだし、それを左手に掴んで壁をゴシゴシと擦り始めた。利き手である右手は骨が折れているので何の役にも立たず、俺は声には出さなかったが相当怒っていた。
壁についた汚れ、というか俺のうんこのことなのだが、結果から言わせてもらうと全然落ちません。「全然」という言葉が一番相応しいぐらいのこの落ちなささ。俺は怒りを通り越してアヘアヘ笑いながら壁を擦らざるをえなかったのだが、時間がたつにつれその笑いもなくなり怒りのみが俺を支配していた。
「くそったれ、まったく落ちん!」
白いTシャツが真っ黒になっていくというのに壁は一向に綺麗にならない。それどころか先ほどから汚れが更に広がっているように思える。いや、これは思えるというより確実にそうだ。
「一体どうなってんだ!!」
俺はTシャツを地面に叩き付け、怒鳴らずにはいられなかった。胸高ぶる俺は真っ黒になったTシャツを指さし、
「真面目にやれ!」
と叫んだが、この怒りは収まらず俺は
「うおおおおおお!!!」
と叫びながら、使い物にならない右腕を壁に押し当ててゴシゴシと擦り出した。腕からはドス黒い血液がほとばしり、壁は更に汚くなった。
俺はゆっくり地面に崩れ落ちた。頭の中で敗北の文字が揺れている。
「落ちてくれよぉ…」
悲痛な叫びではあるが、その声には力がなかった。今思えば何故けつを壁に擦る必要があったのか。紙がなかったから?だが、それがけつを壁に向かわせる根拠となり得るのか?けつを壁に擦り付けたとしても、うんこが全部取れるわけではないじゃないか。しかし、取れると思ってやってしまったのだろ。全くせっかちな野郎だぜ。せっかちではあるが、実はいい所もある。
先日、公園を通りかかかった。ちょうど夕暮れ時で、山の隙間に沈んでいく夕日がとても綺麗だった。この時ばかりは空や雲や街や緑までもが紅くなる。その不思議というか素敵というか何ともいえない状態が合図なのか、子供たちが一斉に公園から姿を消していく。
ふと、公園の足洗い場の方に目をやると、水道の蛇口から水が出っぱなしになっていた。しかし、俺は水が出っぱなしになっているのを止めはしなかった。これは後から聞いた話なんだけど、その流れ出る水からは大きな虹が作り上げられ、水色の天使が現れたらしいんだよ。これには感動したね。
俺はもう一度頑張ってみることにした。俺が出した火だ。俺以外の誰に消すことができるのか。
へたりこんでいた俺は立ち上がり、黒くなってしまったTシャツで精一杯汚れた壁を擦り始めた。先ほどよりも豪快ではあるが、その姿はアングルの名作「ヴィーナスの誕生」を思わせるかの様に、しなやかで清らかで、そして何よりも美しい。怒りまかせに擦るのとはやはり違う。何をするにしても気持ちが大事なのであり、真っ直ぐ立ち向かうことが成功へ繋がるのだと確信した。
しかし、汚れはまったく落ちなかったので、
「もう、ええわ!」
と言ってトイレを出て行った。