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二人はスペイン料理を出すこじんまりとしたカフェに入った。赤ワインで乾杯をし、啓吾は娘と二人暮しであることや、その娘は今夜デートに出かけて一人なので、気晴らしに買い物に来たことなどを話した。真由子は優しく相槌を打ちながら聞いていたが、デザートが運ばれてくると真面目な顔で啓吾を見て言った。
「本当は私、ずっと先生に憧れていたんです」
「えっ?」
「先生の、フランス人の奥様とのロマンスは、大学では有名なんですよ。その奥様の忘れ形見のお嬢さんを、再婚もせず、男手一つで育ててこられたのは、奥様のことを心の底から愛しておられたからだって」
――美冬は忘れ形見じゃなくて、エレーヌの置き土産というか、何というか……
「今どきそんな男性はいませんもの。だから、さっきデパートでお会いした時に、もううれしくてうれしくて、つい何も考えずにお名前を呼んでしまったんです」
思いもよらない告白だった。
――この人ならもしかしたら
啓吾の心にぽっと希望の灯がともった。卑しい下心があるわけではない。一度だけ首筋にキスを。真由子ならきっと許してくれるはずだ。
二人はカフェを出て歩いた。外は思ったほど寒くはない。真由子はコートを腕にかけていた。少し歩いてからイルミネーションに美しく彩られた公園で、啓吾はプレゼントしたストールを背後から真由子の肩にかけ、そっと腕を回した。真由子はその腕に体を預けた。
首筋に唇を近づけた時、真由子のペンダントがきらりと光った。十字架の形をしている。
――大丈夫。まがい物のクルスには効力はない
啓吾はそのまま唇を当てた。その啓吾が見たものは。
――なっ、そんな…
意識があったのはそこまでだった。青白いイルミネーションに照らされて、クルスの中心にイエス・キリストの姿がくっきりと浮かびあがっていた。
「パパ、もうパパったら」
意識を取り戻すと、目の前にサタンのような美冬の顔があった。啓吾はあわてて毛布をかぶった。
「だからあれほど忠告したのに」
「す、すまん」
火傷をしたのか唇がふくれあがってひりひりする。
「公園でひっくり返って、そのまま救急車で運ばれたんだって。高橋さんって、大学の女の人、すごく心配してさっきまで付き添っててくれたのよ」
「そうか」
「まあ、何があったのかは大体見当がつくけどね。彼女は何と幼稚園からミッションスクールだったっていう、バリバリのクリスチャンだったのよ。知らなかったの?だからパパの新しい恋はロミオとジュリエットみたいなもの。結ばれる確率はゼロに近いわ。男らしくあきらめて」
美冬の言い方は身もふたもない。
「それにしても…。折角のお前のデートを台無しにして悪かったな」
啓吾は毛布の中からもごもごと言った・
「ああ、そっちはぜんぜん大丈夫よ。今日の埋め合わせに宮内くんとは、お正月にお泊りで温泉に行く約束したから」
「お泊りって…。お前…」啓吾はがばっと半身を起こした。
「大丈夫よ。あたしが宮内くんの次に愛してるのは、パパなんだから。ねっ、信じて」
美冬はそう言いながら優しく父親の髪の毛をかきあげた。その仕草が、あまりにもエレーヌに似ていることに啓吾はふっと涙ぐみそうになって、あわてて窓の外を見た。美しいイルミネーションに飾られたイブの夜は静かに更けていく。
「美冬」
「何?パパ」
「お前のママは、この世でたった一人きりの、それは素晴らしい女性だったんだよ」
美冬は父親の言葉に黙ってうなずきながら、優しく微笑んだ。