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神様の庭で

作者:

 泣き声が聞こえた。

 そこは彼の庭で、人間が立ち入ることの滅多にない場所で、そこにひとの気配を感じたのは何年ぶりだろうか。

 記憶を探って、彼は顔をしかめた。

 かつて、この杜に入り込んだ人間が、彼の数少ない同胞のひとりを奪い去った。彼がここでひとの気配を感じるのは、その折以来だ。

 よみがえった記憶は苦く、それは彼に人間との接触を忌避させるに十分だった。──そう、捨て置くつもりだったのだ。最初は。

 けれどその気配は、それから毎日のように杜に現れた。

 夕日が紅く西の空を染める頃。泣き声は密やかで、けれど気づいてしまえば耳につく。

 それでも、数日は無視していた。関わる気になったのは、連日聞こえる泣き声に辟易したのと、少しばかり退屈していたから。

 静かな森の木立の中、木々の影に隠れるようにして泣いていたのは、子供だった。年の頃は十を僅かに過ぎたくらいか。ただでさえ小さな体をさらに縮めるようにして、声を殺して泣いていた。──まるで、この杜を満たす静寂に、遠慮しているかのように。

 その泣き方が、子供らしくない。

 子供ならもっと、あたりを憚ることなく泣きじゃくればいいものを。

「どうした、子供」

 苛立ちからかけた声は、尖る寸前の硬さになった。

 弾かれたように顔を上げた子供はしかし、怯えるでなく恐れるでなく、まじまじと彼を見つめて、

「あなた、神様?」

 そんなことを、聞いてきた。


     * * *


 その杜は、聖域なのだという。

 古くから「神の庭」と称され、神事においてのみ、祭祀家の者のみが立ち入りを許される、不可侵の森。

 その森に抱かれた町で生まれ育ったわけではない少女には、細かい習わしや取り決めの機微は分からないが、立ち入ってはいけない場所だということは理解していた。

 理解したうえで、それでもその杜に踏み入ったのは、確実に独りになれる場所に行きたかったから。そしてそこが、かつて母が語り聞かせてくれた場所だったから。

 ──ママはそこで、神様に会ったの。

 母の故郷である町の、鎮守の森。ひとが立ち入ってはならないそこで、神様に会ったのだと言って、少女の母は笑った。

 母の語った「神様」が比喩であることを、少女は理解していた。それでも、微かな期待を胸に、少女はその杜に踏み入った。母が「神様」に出会ったように、そこに行けば自分も、すばらしい奇跡と出会えるかもしれない、と。

 けれど、杜は静かで。少女を待つ奇跡の気配などなく、ただ葉擦れの音だけが満ちていた。思うまま独りになれるその空間は、多少なりと少女の心を癒したけれど、やはり落胆もした。

 神様なんていない。奇跡なんて起こらない。

 諦めまじりに悟った頃、そのひとと出会った。

「どうした、子供」

 いつものように、神様のいない杜で泣いていた少女にかけられた、不機嫌そうな声。反射的に顔を上げた、そこに立っていた、そのひと。

 古びた着物を着て狐面を被った、男のひと。その出で立ちがあまりにも現実味を欠いていて、だから少女は、思わず訊ねた。

「あなた、神様?」


     * * *


 少女は「コノハ」と名乗った。

 コノハは、彼の被る狐面を見ても奇異な目をせず、その下の素顔を見たがる素振りも見せず、彼の名を訊ねることさえしなかった。近隣の町々では「入らずの森」として有名なこの杜に現れる彼を、恐れるでも気味悪がるでもない。

 ただ、毎日のように杜にやってきて、僅かの時間を過ごし、そうしてなにかを諦めるような表情で帰っていく。その繰り返しだった。

 彼が姿を見せ、短いながらも言葉を交わすようになると、強張っていた表情がしだいに緩み、やがて笑顔を見せるようにもなった。

 彼が初めてコノハの密やかな泣き声を聞いた日から、一月ほどが過ぎていた。

 新緑にけぶっていた森は緑の色を強め、目前の夏に備えるように枝葉の先々にまで瑞々しい力を溜めている。そんな森に呼応するように、しおれていた少女は力を得、子供らしく屈託なく笑うようになった。

 そんなある日、コノハがぽつりと言った。

「お兄さんがコノハの神様なら、よかったのに」

 どういうことかと問うた彼に、少女は遠くを見るような目で、答えた。

「ママがここで、神様に会ったの」


     * * *


 ──ママはね、そこで神様に会ったの。

 ──かみさま?

 ──そう、ママだけの神様。コノハのパパよ。

 かつて母は、コノハにそう語った。幸せそうに微笑みながら。

 父との結婚を反対されて、母は家を捨てたのだと言う。すべてを捨てても父との未来を望み、故郷から遠く離れた街へと逃げ、コノハはそこで生まれた。

 母が語った、父と母の恋物語。その背景にあるものを理解するには当時のコノハは幼くて、けれど、母が本当に幸せそうに笑っていたから、コノハも幸せな気持ちになった。

 父と母とコノハと。家族三人の暮らしは、今思えば決して楽ではなかったのだろう。父の死後、身を寄せた母の生家での暮らしはあの頃よりもずっと豊かで、けれどコノハは、あの頃の方が幸せだったと思う。

 父がいて母がいて、いつだって笑っていられた、あの頃の方が。

 けれど、どれほど願い、望んでも、あの日々には戻れない。時間が巻き戻ることはなく、過去は無情に断絶している。そのことを、コノハは理解していた。

 穏やかに笑っていた父。抱き上げてくれる大きな手。優しい声。それらのすべてを鮮明に覚えていても。失われたものは、戻らない。

 どれほど願おうとも父の死は覆らず、どれほど祈ろうとも、もう二度と会えない。

 死者はよみがえらず、過去には戻れない。

 あの頃、確かにあった幸福は、父の死とともに砕けてしまった。修復しようもなく、粉々に。


     * * *


 コノハの語る、彼女の母親の過去は、彼に苦い記憶を呼び起させた。不意に襲った鈍い胸の痛みに顔をしかめつつ、彼は表情を隠す狐面をコノハに向けた。

 語った内容にそぐわず淡々とした表情のコノハに、疑問を向ける。

「過去にあった幸福が失われたとしても、それですべてがなくなるわけではないだろう。父親の死は悲しいことだろうが、お前と母親は、生きているのだから」

 死者を悼みつつも喪失の悲しみを乗り越え、未来に新たな幸せを築いていく。どれほど愛しい者を失おうとも。

 人間は、そうやって生きていくものだ。

 彼の言葉に、コノハは子供らしくない淋しげな顔で、首を振った。

「それは、無理なの。パパと一緒に、ママの心も死んじゃったから」

 少女の告白は、彼に衝撃を与えた。

「──お前がいるのに、か?」

 娘が残されているというのに、コノハの母は自分の悲しみに溺れているというのか。

「パパは、ママの神様だったから」

 諦念を含んだ声で、呟くようにコノハは言った。

「神様をなくしたら、誰だって、絶望するでしょう?」

 ──あなた、神様?

 不意に、かつてコノハが彼に向けた言葉を思い出した。

 あの時コノハは、母親の新たな〝神様〟を求めていたのだろうか。

「──だから、この杜にきたのか?」

 問うと、しかしコノハは首を振った。

「ママの神様は、パパだけだから。他の誰も、パパの代わりにはなれないもの」

 静かに返された言葉の裏に、悲痛な声を聞いた気がした。

 誰も代わりにはなれない。──コノハでさえも。

 娘でありながら、自分の母親を救えない。小さなコノハの中に、そんな悲嘆が沈んでいる。

 かける言葉を失った青年の横で、不意にコノハは顔を上げた。枝葉の広がる頭上を仰ぎ、射し込む木漏れ日に目を細める。

 季節はすでに夏を迎え、しかし杜に射す陽射しは、幾重にも重ねられた枝葉に遮られて、優しく柔らかい。

「ここにきたのは、ひとりになりたかったから。神様なんていないって、分かってた。ただ、誰もいないところに行きたかったの。コノハが泣いても誰も怒らない場所に。ここなら誰もいないと思って──なのにお兄さんがいて、だから、お兄さんは本物の神様なのかなって、思ったの」

 コノハが語ったのは、二人が初めて顔を合わせた時のことだろう。あの時コノハは彼のことを、この杜に伝えられる神だと思ったのか。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 その前に何気ないふうに言われた言葉が、彼の心をざわめかせた。まるでざらついた手で撫でられたような不快感が、時間とともに増していく。

「──子供が泣いて、誰が怒る」

 コノハはむしろ、その歳の子供としてはずいぶんと気丈で我慢強いと思われる。人間の子供を多く知るわけではないが、それでも分かる。この少女は痛々しいほどに強い。──強くあろうとしている。

 それが強がりなのだとしても、父を亡くし母までが心を病んでいる状況で、十やそこらの子供が平静でいられるわけがない。泣くなと言って泣かずにいられるはずがなかろうし、誰がそれを咎められるだろうか。

 なのに、コノハが泣くことで怒りを示す者がいるという。

「ママのパパとママは、怒るの」

 彼の憤りに答えたコノハのその返答に、彼はなおさら憤りを募らせた。

 コノハの涙を咎める者としてコノハが挙げたのは、彼女の祖父母だった。父親を亡くし母親まで失くそうとしている哀れな孫を、慈しむこともなく邪険に扱う。それが血縁のすることか。

 狐面に隠しきれず零れた彼の怒りに、コノハは淋しげに目を伏せた。

「しかたないよ。コノハはパパの子供だから。──ママをさらっていって、不幸にした、パパの子供だから」

 諦めたようにそう言ったコノハにかける言葉もないまま、彼はその日、苦行に戻る小さな背を見送った。


     * * *


 ──あの男さえ、いなければ。

 祖父が、祖母が、苦々しく吐き捨てるのを、何度聞いただろう。

 ──あの男と出会わなければ。あの男に唆されて、あんな男と一緒になったばっかりに。

 呪のように繰り返される言葉。コノハがそんな憎悪に晒されることを、はたして父は予想していただろうか。

 自分が死んだら、母の生家に戻るように。己の死期を悟っていたかのような、それが父の遺言だった。

 そして、父が死んだ直後、母の両親が母を迎えに来た。

 居場所を知らせたのは、父だという。

 もしかしたら父は、自分の死とともに母がなにもできなくなることを、予感していたのかもしれない。自分が死んだ後、母とコノハが困らないように、すべてを自ら手配した。それは父の、最後の優しさだったのだろう。

 けれど現実は、父が望んだほど優しくはなかった。

 コノハが初めて見る祖父母は、夫を亡くし呆然としていた母を抱きしめ、苦労を労い、不運を慰め、母とコノハを彼らの家に連れ帰った。──最初から最後まで、コノハには一言の言葉もかけることなく。

 生家に戻ってからも母は茫洋としたままで、祖父母はそんな母を哀れみ、コノハに対してはいっそう冷淡に振る舞った。

 心を失くしたかのような母の世話の一切がコノハに任されたが、それは彼らがコノハを母の娘と認めたからではなかった。彼らのコノハに対する態度はまるっきり使用人に対するそれで、コノハを母の娘だとは──まして自分たちの孫だなどとは、欠片も思っていないことがありありと窺えた。

 彼らにとってコノハは使用人で、コノハにとって彼らは主人で。その関係性は、母の生家で暮らし始めた数日の間に、コノハに教え込まれた。

 まずコノハに求められたのは、彼らの言葉に逆らわないこと。恭順すること。どんな言葉を投げつけられても口答えせず、承諾を返す以外、口をきくことすら禁じられた。

 父の死という悲しみの中、追い打ちのような祖父母のその仕打ちに、しかしコノハは逆らわなかった。不満も悲嘆も表すことなく、ただただ従順に振る舞った。彼らがコノハを快く思っていないことは分かっていたから、せめてこれ以上、嫌われないように、不興を買わないように、少しでも印象が良くなるように。

 そうすれば、事あるごとに彼らが悪く言う父の心象も、変わるかもしれないと思って。

 母を愛し、母が愛した父を、もういない父を悪く言われるのは悲しくて悔しくて、でも反論することも許されないから、せめてコノハが彼らの望むとおりの子供であることで、父の印象が変わることを願った。

 そして、そんなコノハの悲しい努力は、ことごとく打ち砕かれた。

 コノハがどれほど従順に従おうと、彼らがコノハを認めることはなかった。それどころか、コノハの至らぬ部分、気に入らない部分を見つけては叱責し、「お前はやっぱりあの男の子供だ」と吐き捨てる。その後に続くのは、決まって父への罵倒の言葉。

 この日もまた、焦点を結ばない母の瞳を見やり、痛ましげに祖父が言った。

「かわいそうに。あんな男と一緒になったばっかりに、こんなふうになってしまって。あんな男に騙されずに、ワシらの元にいれば、幸せになれただろうに」

 あんな、どこの馬の骨とも知れない男ではなく、お前にふさわしい男に嫁いでいれば、と続く祖父の言葉を、コノハは遮った。

「そんなことない! ママはちゃんと幸せだった!」

 常にはないコノハの反駁に、祖父は一瞬、沈黙して少女を見やった。その沈黙の後、パシッと軽い音とともに、コノハの頬に痛みが走った。

 祖父が平手でコノハの頬を張ったのだ。

「幸せだっただと? お前はこの娘が──こんなふうになったこの娘が、幸せだったと言うのか!?」

 違う、そうじゃない。

 父を亡くした母は、確かに不幸かもしれない。父と一緒にその心を殺してしまった、今の母は、幸せではないだろう。

 けれどそれは、母が心から父を愛していたからに他ならない。父がいなければ生きていけないほどに父を愛していたからで、それほど愛した父と一緒に過ごした時間は、間違いなく母にとって幸せなものだったはずなのだ。

「ママは、不幸なんかじゃなかった。パパが生きてた頃のママは、幸せだったもん。パパが死んじゃって、こんなふうになっちゃったけど、でも、パパが生きてた頃は──」

 必死に言い募るコノハの頬に、また掌が飛んできた。先程よりも強い衝撃で、体が傾ぐ。

「ふざけたことを言うんじゃない! お前が──娘を不幸にした男の子供が!」

 激したように叫ばれた言葉に、心が冷えた。

 知っている。分かっている。このひとたちがどれほど自分を憎み、疎んじているか。この家に来てから今日まで、嫌というほど思い知らされた。

 彼らにとって父は、娘を不幸にした憎いだけの男で、コノハはそんな男の子供で。彼らの中では、母は不幸なばかりの娘なのだと。

 そして自分には、そんな彼らに対して、その認識を覆すどころか、意見や言葉を向けることさえ許されないのだと。

「本当に、お前はあの男の子供だよ。どこまでワシらを不愉快にすれば気が済むのか」

 吐き捨てるように投げつけられる言葉と、その奥に滲む憎悪。それに、ただ黙って耐えること。それだけが自分に許されたことだと理解していても、今日のコノハにはそれができなかった。

 どうしてだろう。昨日まではできていたのに。どんな言葉も、どんな悪意も、黙って唇を噛んで、耳を塞ぎたい気持ちを堪えて、やり過ごしていた。その後で、優しい青年のいる杜に逃げ込んで泣くとしても。

 ただ一時、この時を耐えることが、その時のコノハにはできなかった。

「ママは本当に、パパのことが好きだったの。パパと一緒にいたママは、笑ってたもの。幸せそうに笑ってたもの!」

 分かっている。祖父母がどれほど母を愛し、父を憎み、父を思い出させるコノハを厭っているか、分かっている。それでも。

 母は笑っていたのだ。父と結婚して、コノハを産んで、幸せだと。笑ってそう、言っていた。

 それを嘘にされることは、許せない。

 自分のことならいい。いまさら、孫と思ってほしいなんで、愛してほしいなんて、望まない。父のことも、認めてほしいとも許してほしいとも、言わないから。

 だから。

 母が不幸だったなんて、言わないで。決めつけないで。

 そんなことはなかったんだから。

「ママは、不幸なんかじゃなかったもん!」

 三度、頬に衝撃が走った。それまでの二度の比ではない痛みが、熱を伴って頭を揺らす。

「ふざけるな! お前の父親は、この娘を不幸にしたんだ! 今のこの娘を見れば分かるだろう! あの男がいなければ、この娘はこんなふうにはならなかった。お前の父親さえいなければ。その子供を養う義理などワシらにはないものを、情けをかけてやった恩も感じんとは、本当にどうしようもない子供だよ、お前は!」

 手加減なく殴られた頬が、熱をもって痛みを訴える。その痛みすら上回る悔しさに、涙が零れた。

 そこにさらに、祖父の罵声が飛ぶ。

「泣けば許されると思ってるのか! 泣いて済まされると思ってるのか! お前がどれだけ泣こうが、ワシの娘が受けた仕打ちは変わらんのだ!」

 祖父は言葉の限り、コノハを罵倒する。その存在ごと否定するように。

 そして、そんな祖父の背後、コノハの母は、細波も映さない瞳を虚空に向けたまま、ただ椅子にその身を預けている。自らの娘を罵倒する自らの父を止めるでなく、娘を庇うでもなく。

 祖父の罵声にも、コノハの主張にも、母の心は戻らない。

 そのことが、コノハななにより悲しかった。


     * * *


 夕暮れの迫る杜で、彼は昔のことを思い出していた。

 十年と少し前。親友だった同胞と、最後に交わした言葉を。

 ──お別れだ。ボクはこの杜を出るよ。

 唐突に別れを告げた友に、彼は詰め寄った。杜を出て、どこに行くのかと。

 それに応えて友は言った。すでに決意を固めた顔で。

 ──人間の街へ。彼女と一緒に、生きていこうと思ってる。

 その返答に、真っ先に覚えたのは、困惑だった。

 その少し前から、杜をおとなう少女があり、友がその少女と接触していることは知っていた。おそらくは友が、少女に好意を抱いていることも。

 けれど、まさか杜を出て、少女と生きることを選択するなど、考えもしなかった。

 何故ならば、自分たちはヒトではないのだから。

 大いなる存在の宿る神聖なる神の庭──その庭の番人としてこの杜に生を受けた神の使い。神域に属するとはいえ、その実像はヒトならざる異形にすぎない。そもそもヒトと交われるはずもなく、ヒトとともに、ヒトに寄り添って生きることなど、できるはずがないのだ。

 なのに、友はそれを望んだ。

 無茶だと、彼は言った。自分たちがこの杜を出て、ヒトとともに暮らすことなど、無理な話だと。

 自分たちを支配する理は、ヒトのそれとは違う。その違いを埋めることはできないし、できない以上、自分たちとヒトとは、隔てられているのだと。

 必死に友を諭そうとした彼の言葉を、友は聞き入れなかった。

 ──分かっているよ。僕と彼女との間には、埋められない隔たりがある。それでも僕は、彼女と生きたいと思ってしまったんだ。……僕たちが外界で生きられる時間は、ヒトの一生に比べればずっと短い。この杜でなら永遠に近い時を、生きられるのにね。でも僕は、彼女と同じ時間を、生きたいんだ。たとえどんなに短くても。そのことで彼女になにを遺せるかは、分からないけれど。

 彼女を、愛しているから。

 そう言って穏やかに笑った友に、彼は折れた。

 杜の外へと出ること、そこで生きること。その先に待つ遠くない別れを理解してなお、愛した少女と生きたいと願った友を引き留める言葉を、彼は持たなかった。

 これが今生の別れと知りながら、友の背を見送った。友が命をかけて望み願ったその先に、彼らの幸福があることを願って。


     * * *


 夕暮れの杜は、急速に闇を濃くしていく。その薄闇の中、コノハは膝を抱えて泣いていた。

 この杜で、こんなふうに泣くのは久しぶりだ。

 この杜に来るようになった初めの頃は、葉擦れの音だけが満ちる静寂の中で、いつも泣いていた。でも、この杜で不思議な青年と知り合ってからは、彼との会話が悲しみや寂しさや悔しさを紛らわせてくれて、いつの間にか、笑えるようにさえなっていたのに。

 そんなことを考えながら膝を抱いていたら、草を踏む音が聞こえた。足音に顔を上げると、腫れて熱を持った頬に、ひんやりとした指が触れる。青年の手が、コノハの頬を冷やすように包んだ。

「誰に、やられた?」

 コノハの前に片膝をついて、青年は狐面の奥から硬い声音で訊いてきた。

「ママの、パパ」

 問われるままに、事情を話した。

 父が母を不幸にしたのだと言った祖父の言葉が許せなくて、我慢できなくて、言い返したこと。母は父のことを愛していた。だから、父が生きていた頃の母は絶対に幸せだったのだと、祖父にそう言ったら──

「殴られた、のか?」

 項垂れるように頷くと、大きな胸に抱き寄せられた。コノハを包んだ温かな感触は、とても懐かしくて、だからこそ、どうしようもなく悲しくなった。

 かつては両親から、当たり前のように与えられていたその温もりは、今ではもう、手の届かないものだったから。

 じわりと、涙が滲む。

「そうだな。お前の母親は、幸せだったに違いない」

 淡白な声が、それでも温かみのある声音で告げる。これまで祖父母に否定され続けたコノハの想いを、肯定する。

「……そう、かな」

「愛した男と一緒になって、愛した男の子供を産んで、幸せでなかったはずがないだろう。──それに」

 肩を抱いていた腕が緩み、大きな手がコノハの頭を撫でた。

「お前は、幸せだったのだろう? ならば、お前の母も幸せだったさ」

 青年の言葉が心に沁みこむ。溢れそうになる涙を唇を噛んで堪えようとするコノハに、青年は言った。

「我慢しなくていい。ここには、お前が泣くことを咎める者は、いないから」

 優しく諭すように言われ、あやすように背中を叩かれて、それ以上堪えることができなかった。

 青年の胸にすがって、コノハは泣いた。父が死んでから、胸の内に溜めるしかなかった感情を、吐き出すように。

「──くやしかった、な」

 胸にすがって慟哭するコノハに、ぽつりと青年が呟いた。その言葉は、なにより的確にコノハの心中を言い当てていた。

 くやしかった。

 母が不幸だったと言われるたびに。そんなことはなかったと、彼らに認めさせられない自分が悔しくて。

 同時に、不安だった。

 父が生きていた頃、母は幸せだった。それは間違いない。でも、今は? 父を失って、母の心も死んでしまった。それはなにを示唆しているだろう。

 ずっと考えないようにしてきたけれど、本当はずっと、不安だった。

 今日の、祖父とのやり取りを思い出す。母の目の前で繰り広げられた、あのやり取りを。

 コノハが祖父に殴られても、母はなんの反応も示さなかった。目の前で娘が殴られても、泣いても、罵られても、なにひとつ反応しなかったのだ。

 それは、コノハの心に絶望を植えつけた。

「……でも、ママにとって大切だったのは、パパだけだったの。ママが愛してたのは、きっと、パパだけで……」

 きっと、コノハは母にとって、父ほど大切な存在ではなかったのだ。

 母が愛していたのは、その心のすべてを傾けて愛していたのは、父だけで。

 だからコノハでは、母の心を引き留められなかった。コノハは、父の代わりにはなれなかった。母の神様はずっと、最初から、父だけだった。

「だからママは……コノハのことなんて、いらないんだ……」

 嗚咽の合間に吐き出されたコノハの絶望を、

「それは違う」

 青年は強い声で、きっぱりと否定した。


     * * *


「お前の母親があいつを愛していたのなら、お前のことを愛さないはずがない」

 愛していないと言うのなら、あいつのことも愛してなどいなかったのだ。彼女が見ているのは、自分だけ。「愛するひとを失った自分」を哀れんでいるだけ。

 ──そんな身勝手な感情で、あの娘はあいつを、この杜から連れ出したのか。

 ならば、不幸なのはあの娘ではなく、哀れなのは残されたコノハだ。

 腕の中、涙に濡れた瞳で彼を見上げるコノハを、見つめる。誰もいないところに行きたかったと、この杜へやってきた少女。あいつの血を引く娘。

 子供らしいふっくらとした頬には涙の跡が残る。その片頬が、赤く腫れている。

 あいつの娘が、ためらいなく子供を殴るような人間のもとに囚われている。そう考えた瞬間、焦燥が彼の胸を焼いた。

「コノハ」

 少女の名を呼ぶ。

 応えるように瞬いたコノハの目から、最後の涙の一粒が零れ落ちた。

「コノハ。──オレと一緒に来るか?」

「どこへ?」

「この杜の、奥。誰もコノハを責めない場所」

 コノハを責めようとする者たちが、入れない場所。

 ここは神の庭にして聖域。人間にとっては異境。そこにあるけれど、どこにもない場所。

 ここはまだ入り口。定められた時節、許された者にしか立ち入れない、けれど、許された者になら立ち入れる場所。──かつて、コノハの母が入り込んだように。

 十数年前、あの娘はこの杜に現れた。越えられないはずの境界を越えて。

 それは、この杜を統べる大いなる存在に、認められたということ。許されたということ。だからこそ、あの娘を選んだ友の選択を、決断を、彼は否定できなかった。その先に幸福があることを願い、友の背を見送ることしかできず、

 その結果が、今ここで泣いているコノハなら。

 ──ここはまだ入り口。けれどここより奥は。許しを得ようとも人間には決して入り込めない、聖域となる。

 人間には越えられない境界も、コノハであれば越えられるだろう。この少女はあいつの血を引いている。ならば、青年の同胞だ。

 この杜の奥。神の庭にして聖域。そこに招けば、この子供は二度と、誰の手にも脅かされずに済む。

 そうして彼は。一度は失った同胞を、取り戻すことができるのだ。


     * * *


「勝手だな」

 心を閉ざし、己の殻に閉じこもる女に向けて、彼は思念を放った。

 十年と少し前、彼らの杜に入り込み、彼の友に恋したかつての少女──コノハの母に。

「お前はあいつを連れて行った。オレたちの杜から人間の街へ、連れ去った」

 夢は異境。彼らの杜と同じく。杜をおとなえた彼女となら、夢を手繰って邂逅もできる。

 その言葉が、彼女の心に届くかは、分からずとも。

「知っていただろう? オレたちは杜の外では長く生きられないと。知ってなお、お前はあいつと生きることを望み、あいつを杜から連れ出した」

 その時から、結末は定められていた。

「あいつがお前より先に逝くことは、最初から分かっていたことだ。それでもあいつはお前の望みどおり、最後までお前の傍で、お前のために生きた。それなのに、お前にはその想いに報いる覚悟もなかったのか」

 数少ない同胞を、友を奪われた時以上の憤りが、胸を塞ぐ。息苦しいほどに。相手の命を縮めると分かっていてなお、ともに生きることを望み、彼らの神聖なる杜から友を奪っていった彼女が、友との間にもうけた娘を放り出し、夫を失った悲しみに浸っている。

 身勝手に。

 コノハが自分の両親にどんな扱いを受けているか、その瞳に映しながら。見えないフリで、心を閉ざし続けている。

 そんな身勝手が許されるのなら、

 こちらも、勝手にさせてもらう。

「夫を亡くしたのが、それほど辛いか? そうして悲しみに浸っているのは、楽だろうな。──なぁ、父親を亡くしたコノハが、お前に忘れられたコノハが、辛くないと思うのか? 平気だと、思っているのか?」

 彼の怒りに、しかし女の夢は僅かの細波さえ立てない。失望とともに、最後の思念を放った。

「お前があの子をいらないと言うのなら、オレが貰おう。コノハはあいつの血を引く、オレたちの仲間だ」

 人間の側よりも、こちら側の方が、生きやすいだろう。

「文句はないよな。お前はコノハを、捨てたのだから」


     * * *


 ──お前はコノハを、捨てたのだから。

 どこからか響いた言葉が、女の胸に僅かな波紋を刻んだ。

 コノハを、捨てたのだから。

 その言葉が、ぐるぐると渦を巻く。

 彼女にとって世界のすべてだったひとを失った時から凍りついていた心に、僅かに亀裂が入った。ひび割れていく。硬く凍りついていたものが、溶けていく。

 思い出す。

 コノハ。その名前。大切な、その名前。

「……コノハ」

 あのひとが遺してくれた、愛しい娘の名前。


     * * *


 神の庭と人間が呼ぶ、この杜に神などいない。ここにいたのは、人間の娘と恋に落ちた愚かな異形であり、友の娘を哀れむ無力な異形にすぎない。

 己がヒトではないことを告げられず、告げぬままにコノハをこちら側に引き込もうとしている。──それがコノハの望みと異なることを、知りながら。

 なんて、浅ましい。

 自己嫌悪を覚えながらも、それでもコノハを──友の忘れ形見を、彼女にとって辛いばかりの現状から救い出してやりたい。

 愚かでも、浅ましくても。

 ──かつてコノハの母は、この杜で神様に会ったのだと娘に語った。

 けれど、この杜にコノハが求める神様などいない。コノハの母を救ってくれる神も、コノハ自身を救ってくれる神も、いはしない。コノハが彼にその役割を求めようとも、そんな期待は異形でしかないこの身に余る。

 そう思っていたけれど。

 コノハが、それを望んでくれるなら。

 神ならざるこの身で、彼女の神様になろう。


     * * *


 少女の手を引いて、青年が歩き去る。深い森の奥へと。

 かつて夫と出会った杜が、娘を飲み込もうとしているように思えた。このまま見送れば、二度と会えない。直感が、心臓を蹴り上げた。

「──コノハ!」

 焦燥のままに叫んだ。声の限りに、娘の名を。

 コノハが弾かれたように振り返った。彼女を認め、その双眸が見開かれる。

 青年と繋いでいた手を解いて、コノハは迷いなく、彼女の元へと駆けてきた。下草の茂る地面に膝をつき、両腕を広げて、駆けてくる娘を抱きとめる。

 愛しい温もりをもうずいぶん長い間感じていなかったことを自覚して、視界が滲んだ。

「ごめん……ごめんね、コノハ」

 辛い思いをさせて。淋しい思いをさせて。

 危うく失うところだった娘の体を強く抱きしめて、まず口をついたのは謝罪の言葉。どれだけ謝っても足りないだろうが、謝らずにはいられなかった。それだけのことを、自分はこの子にしてしまった。

 そして、もうひとつ。愛しい娘になにより伝えたい言葉、伝えなければならない想いは、

「ごめんね、コノハ。──愛してるわ」


     * * *


 数日ぶりに杜を訪れたコノハは、彼に別れを告げた。母とともにこの町を離れるのだと語る少女の表情には人知れず杜で泣いていた頃の影はなく、子供らしい笑顔だった。

「そうか。もうここには来ないんだな」

 静かに応えた彼に、コノハは僅かに表情をくもらせた。

「……ごめんなさい」

「なぜ、謝る」

「だって……せっかくお兄さんが、一緒に行こうって、言ってくれたのに」

「オレと行くより、母親と生きることを、選んだのだろう?」

「そう、だけど」

「なら、謝ることなどない。コノハにとって、オレよりも母親のほうが大事だったというだけのことだ」

 自分を見ない母親に背を向けて彼の手を取ることはできても、自分を愛する母親を捨てて彼を選ぶことは、コノハにはできなかった。

 それはそれだけのことであって、同時に予想できたことでもあった。

 コノハが母親より自分を選ぶことなどありえないと、彼には分かっていた。そのうえでコノハの母を揺さぶったことを、後悔もしていない。

 母親が彼の言葉に応えなければ。あくまでも己の悲しみに浸り続けるならば。その時はコノハを攫って行こうと決めていたけれど。

 そんなことにならなくて良かったのだ。コノハにとっては、この結末が最良なのだから。

 二度とコノハに会えなくなるだろう淋しさよりも、コノハの無邪気な笑顔に安堵する。

 狐面の下で穏やかに笑む彼に、しかしコノハは言ったのだ。

「だけどコノハは──お兄さんがコノハの神様ならいいのにって、本当にそう思ってたのよ?」

 その告白に、不覚にも彼は、一瞬言葉を失った。

 コノハが彼に向けた感情、それは、かつて彼が憎んだものだ。コノハの母が彼の友に向け、友にこの杜を捨てさせた、感情。

 けれどコノハのそれは、憎むにはあまりに純粋で。コノハ自身、その感情の名をまだ知らないのだろう。それはあまりに幼い、告白だった。

「──別れのときに、言うことじゃないな」

 幼い瞳に見つめられて、彼は狐面の下で口の端に苦笑を乗せた。いまさらそんな告白をされたところで、二人の別離は揺るがないというのに。

 いまさらなにを言おうと、コノハが彼を選ぶことはない。やがて少女は、彼以外の誰かに恋をして、彼以外の誰かを伴侶とするだろう。彼と過ごした時間は彼女の中に温もりだけを残して、この杜のことも彼のことも、忘れられる。

 それでいい。この少女が幸福に生きられるなら、それだけでいい。

「さあ、コノハ。もう行くんだ。お前は、そちら側で生きるべきなのだから」

「……うん。──ねぇ、お兄さん。名前を、教えて」

 名残惜しげに聞いてきたコノハを見返して、もう一度苦笑する。問われて改めて、名乗っていなかったことを思い出した。

 コノハがこの杜に現れたのは、春だった。言葉を交わすようになったのが夏の初め。そして今、秋の気配に森は色づき始めている。それだけの時を、その中の限られた時間とはいえ近しく過ごしてきたというのに、彼は自分の名も名乗っていなかった。

 そして、この最後のときに、コノハは彼の名を知りたがった。

 一度も外さなかった狐面の下の素顔でも、神の庭と称されるこの杜に現れる彼の立場でもなく、ただ、名前を。そのことを、嬉しく思ったけれど。

 けれど、いまさら名乗るつもりはなかった。名を教えれば、コノハの中に彼の記憶を残してしまう。

「いつか──そうだな、五年後。五年経っても、オレがコノハの神様のままだったら、もう一度この杜においで。そうしたら、名前を教えよう」

 言って、彼はコノハの背を押し出した。精一杯の優しさをこめて。杜の外──彼女がこれからを生きていく世界へ向けて。


     * * *


 それが、コノハが彼に会った、最後。

 狐面の下に笑みの気配を隠し、名前も教えてくれなかった青年が何者か、コノハは知らないままだ。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 青年が何者であろうと、彼がコノハにくれた優しさは真実で、孤独に震えていたコノハの心を掬い上げてくれた、あの青年は確かに、コノハの神様だったのだから。


     * * *


 そして、五年後。

 時を忘れたように変化のない森の中、〝その日〟などやって来ないと自分に言い聞かせながら、それでも時を数える自分に苦笑する青年がいた。

 古風な着物に、表情を隠す狐面。五年の歳月を感じさせない彼に、懐かしい声が向けられた。

「お兄さん」

 五年分だけ大人びた、けれど五年前の響きを残す声が、彼を呼ぶ。

 視線を向けると、五年前の面影を残した少女が、眩しいほどの笑みを浮かべて、彼を見ていた。

「約束よ。名前を教えて、わたしの神様」


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