あの頃、果ての見えぬ群青の下で私たちは
戦争・原爆を思わせる回想があります。会話は西の方の方言です。合わないなと思われた方はプラウザを閉じてください。
あの頃、果ての見えぬ群青の下で私たちは懸命に生を駆け抜けました。
だから、かけがえのない今があるのです。
大地を踏みしめて、今を生きていけるのです。
たとえ、あなたたちはいなくとも――。
*****
「バァバ! バァバ! ここぉおるんーっ?!」
幼いながらも力強く甲高い声が開け放たれた玄関の方から聞こえた。
バリバリとサンダルのマジックテープをはがす音がしたと思ったら、きしむ木の床をどたどたと踏み鳴らしてかけてくる音が近づいてくる。
ここやと声を上げようとしたが、その前にブスリというイヤな音がした。
「え?」
しもうたと思ったが既に遅かった。ありえない位置に手を差し込まれて破れた障子の戸が眼の端に入り、スパーンと勢いよく開く。やっぱここかと叫びながら。
「バァバ、見ぃっけ!」
宝物を見つけたような元気のいい声で入ってきたのは、まだ小さい孫だった。坊主頭と額に汗の玉をいっぱいこさえ、片手に蓋がない茶筒を持っていた。
(茶筒?)
なぜ茶筒と思っているそばから、ふわっと茶葉のいい香りがした。
だが呑気に香りを楽しんでいる場合ではない。なぜそんなものを持っているのか、蓋はどうしたと問おうとしたが、それよりもっと重要なことを言うことにした。まずこのやんちゃな孫の悪い癖である、障子破りを注意せねばなるまい。
「コラ! 障子を破らず静かに開けろといつも言うとるやろ? ジィジが張り替えたばかりの障子やぞ。まーた張り替えなあかんやろが」
「そのジィジがエライことしてもうたんや! これみてぇな!」
興奮のためか、鼻息を荒くしながらぐっと蓋が空いている茶筒を差し出した。そういえばなぜ蓋がないのか。よく茶葉がこぼれんかったなと思って中を覗けば、その理由がわかった。中の葉が湿って固まっていたのだ。
「ハァ?! どないしたん、これ!」
思わず大声をあげ、いたずら好きな孫に向って暗にお前の仕業かと目線で問えば、孫は目を見開き弾かれたようにブルルルと勢いよく頭を横に振った。
「ちゃうちゃう、ちゃうって! オレのせいやない! ジィジ! ジィジのせいや! おわんにはっぱいれんで、これにジャーっといれたんや!」
まだ幼いのでところどころ要領の得ない説明ではあったが、大体の意味はわかった。ようするに急須に葉っぱを入れないで、この茶筒に直接お湯をいれてしまったらしい。
「…………そうか」
あまりにアホな出来事に怒る気にもなれず、暑さもあって力が抜けてしまった。
脱力しながらため息を吐いた後、得意げに報告した孫の頭を疑った侘びも含め撫でてやった。だが当の本人はなんでぇと少し拍子抜けした感じだ。それもそうだろう。普段なら目を吊り上げジィジに一言注意せねばと立ち上がるところだが、バァバは半笑いのまま茶筒を受け取り、中で固まっている湿った茶葉を見ているだけ。物足りなく感じたのだろう。
チェーッと不服そうな孫にジィジはどうしたと聞けば、再び目を輝かせて身振り手振りで説明を始めた。
「しもうたしもうたゆうてはっぱとりにぴゅーっとでてったで! かさかさなはっぱみつからなぁかってん」
なるほど。いつものところにストックしてある新しい茶葉がなかったから、こりゃイカンと慌てて自分の家に取りに行ったのだろう。そして自分の失態を既にこの小さないたずら小僧に暴露されてるとも知らず、知らん顔して自分のところにある茶葉を入れるつもりなのだろう。
一連の動作が想像できてしまい、おかしいような、あきれたような、少しショッパイ気持ちになった。
苦笑いのままぼんやりと壁の上の方を見れば、孫はやっぱり反応を示さないバァバが気に入らないのか、腕を組みながらタコみたいにむぅっと唇を尖らせた。
「なぁー。ジィジ、ボケたんちゃうかー?」
年齢に合わない辛辣な言動に、あやうくズッコケそうになった。一体どこで覚えてくるのか。保育園だろうか。ただでさえ暑いのに頭が痛くなってくる。
「……ボケた言うな。まだボケる年でもないわ。年金ももろうてないんやぞ。なに、人間誰しも失敗はある。タケだってあるやろ?」
「せやかてなー……って、ねんきんってなに?」
「そんなもんまだ知らんでええがな。それよりええか、ボケたなんてジィジに言うたらアカンよ? ショック受けるで。……それに仕方ないんや。8月は――」
いっぱしの口をきく孫に注意をしながらも、普段はこんなうっかりなことをしそうでしないジィジの胸中を思い、自然と声色が弱くなった。
「それよかバァバ、これなんや!」
「ん? ……それは、」
おもろい展開になりそうもないと悟ったせいか、孫の興味はすっかり茶葉事件から逸れ、今の今まで土用干ししていた目の前の古い荷物達に興味が移っていた。
畳の上に広げられた古い思い出たちをベタベタ触りまくる孫に、「ばぁちゃんの思い出や」と返すと、好奇心旺盛の孫は中でもわかりやすいシミのついているアルバムに食いついた。色がついてへぇんともの珍しそうにセピア色の写真をめくっていく。
「なんやー、むっちゃむかしのん?」
「そりゃそうや。バァバの子供のころやもん」
「なんでいろついてへんの?」
「バァバの小さいころはまだ色のついている写真はなかったんよ」
「あっ! これあんしゃしんとおんなじひとか? こっちも!」
絵合わせゲームのように、嬉々とした声で手元のアルバムと、先ほどぼんやり見ていた廻縁にかけてある数個の額縁に収まる写真たちを交互に見ながら指をさした。
「……そうや。バァバの家族や」
写真に夢中な孫に指先に写る人たちを説明すると、孫は首をかしげた。
「かぞく? なんで~? バァバのかぞくはおるやろぉ? ジィジやー、おかんやー、オレやー、ミィコにー」
どうやら本人を含めこの敷地に住んでいる自分たちが家族だと言いたいらしい。指を折って数えながら子供らしい意見を言う孫を膝に乗せ、頭をなでながら確かにと頷いた。
「そうやな。けど、これはバァバのおかんとおとん、そんで兄弟姉妹に親戚や。バァバにだって、タケちゃんと同じように親兄弟がおったんやでぇ」
「へーそっか。 あっ! これ、バァバやろ! ……って、あれ? バァバとおんなじかお、もうひとりおる? なんで? ぶんしんのじゅつか?!」
わが孫のユニークな発言に、思わず吹き出してしまった。
「分身ちゃうわ。それは、」
孫の小さい指先には、自分とそっくりの、皺もシミもない、これからたくさんの幸せな未来があると信じていた、同じ顔をした二人の女の子がいた。
――――……マコちゃん、あたしね、あの人と一緒になる、ごめんな?
どんなときも、唯一私たちを見分けることのできた「あの人」のお嫁さんになった姉は――
――――……マコちゃん、どうか、あの子を、あの人の忘れ形見を、
視力を奪われ、赤黒い血を吐き、しみだらけの手で、自分の息子の手を握り返す力も残ってなかった姉は――
「バーちゃん?!」
ハッとした。
目の前には、もう瞼すら開けることもできなくなった姉ではなく、孫の潤んでいる大きな瞳があった。
瞳の造形は、この子の母親とは似ていない。父親の面影の方が濃い。だがその色は、近くによらなければわからぬほど、限りなく黒い群青色だ。
この子の姉の、母親の、そして己と同じ瞳の色。
あの夏の日に灼熱の閃光を浴びて死んでいった、片割れである姉の、
海面から無数の銃弾を受け、悠久の空で散っていった「あの人」の、
そして、二人の忘れ形見である、若くして亡くなった――
「それは、バーちゃんのネーちゃんや」
死んだ姉の手を縋り、眠ってないで目をさましてと強請った、もういない甥っ子と同じ瞳の色の孫に応えてやった。
「え? ネーちゃん? でも、おんなじかおやで? オレとミィコはにとらんのになぁ?」
「そりゃ似とりゃせん――」
思わず余計なことを零しそうになり、口を噤んだ。急に黙ったバァバを変に思ったのか、続きはなんやという顔で見上げた孫に慌てて取り繕った笑みを返した。
「あー、タケはおとん似やさかい。それにミィコ姉ちゃんは年が離れてるうえに女やからね」
「えぇっ! お~と~ん~?」
ビックリした後の、孫のうへぇ顔があまりにもおかしくて、ブブっと吹き出した。
「コラコラ、そんな顔するもんやない。それよりな、バァバとこの似ているネーちゃんは双子。同じ日に一緒に生まれた双子なんや。わかるか?」
話を戻し、種明かしをしてやると、小さな孫はふたごかと叫びながらパァッと顔を綻ばせた。
「しっとる! そーいや、だいちゃんとこのしたにふたりいてな? おんなじかおやねん! ふたごゆーてた! ほいくえんでも、いっつもおんなじかおでなきよるん。つぎつぎないて、まるでカエルのがっしょうや。やかましゅうてかなわん」
「……やかましい言うな。赤ん坊は泣くのが仕事や。タケも負けずにやかましかったで」
ポンポンと出てくる孫のマシンガントークを諌めながら、一体このシャベリは誰に似たんやろかと頭を抱えていたら、孫が目玉をくりくりさせながら聞いてきた。
「で、もうひとりのバァバはいまどこおるん?」
あまりにも自然で無邪気な問いに、一瞬グッと返答に詰まった。純粋無垢な瞳でこちらを見つめる孫に、弱弱しい笑みを見せたあと、目の前の写真をなぞった。
「……バァバの姉ちゃんはなぁ、遠いお空におるんや。もう何十年も前にいってしもおたねぇ」
「おそら?」
「そぅや。みぃんな、遠くに行ってしもうたなぁ」
「え? おかんやおとんも? にーちゃんやおとうとも?」
「そう。バァバにはジィジとタケ達だけやな」
「……そぉか。さみしいなぁ」
小さいながらもいっぱしの気遣いをする孫に感心しつつ、もう一度手元のアルバムを見た後に額縁に収まっている写真を見上げた。
そこだけが、時が止まったままだった。
白黒の写真たちは永遠に語らず、あの頃のまま。
「なぁなぁ。バァバ、おなかすいたー!」
孫は飽きたのか、いつのまにか持ってきた茶筒をシャカシャカ振りながら、母屋にもどろと腕を引っ張った。
「さよか。なら昼ごはんにしよか。ジィジ、呼んできてくれるか?」
「ラジャー! オレ、パンがえぇ! はちみつぎょーさんのフレンチトースト!」
「はぁ? そんなシャレたもんどこで覚えた。それよかバァバ特製のそうめんでどうや」
「え~またそうめん?! そうめんいややっ!」
「また、じゃない。まだ、や。あと一週間はイケるでぇ」
「ぜったいいやや! そうめん、あきたぁ! なぁ、ミィコどこぉおるん? ミィコにつくってもらうわ」
「残念ながらミィコ姉ちゃんはバイト。なぁに、ただのそうめんじゃないでぇ。豪華三色そうめんや。つゆにうずらの卵入れてやろ」
三色でもウズラ入れてもいややパンがええと、ぶつくさ文句を垂れる孫を立ちあがらせ部屋の外へ出す。ご機嫌をとるために、孫が昼寝をしている間に一人で堪能しようと思っていた、とっておきのアイスを出してやることにした。有名ブランドのアイスの名に、孫は現金なものでたちまち機嫌を直し、ジィジ呼びに行ってくるとぴゅーっとすっ飛んで行った。
おおなんと素早いことよのと笑いながら、よっこらせと立ち上がった時、
『ふふ、マコちゃんは、あいかわらずアイスクリィムが好きやなぁ』
不意に聞こえた懐かしい声にハッとなり、後ろを振り返った。
そんなはずはないと、ジッと写真を凝視した。
決して語るはずのない、もう一人の自分を。
だが気付けば、しわがれた声でしゃべっていた。
「……上のミィコが、『アイス好きなおあばちゃんに』って、バイト代で買うてくれたアイスなんよ。しかも大きいカップ3つも。バニラ、チョコレート、いちご。洒落とるやろ? でも……あん時の味にはかなわん。覚えとる? あのカフェーで食べたバニラアイス。美味しかったぁ。味なんて、小豆かバニラしかなかったけどな」
『よかったなぁ、マコちゃん。また、一緒に食べに行こうね』
「何言うてんの。あのカフェーは空襲で木端微塵や。オジサンやオバサンも……」
『なんや、マコは食いしん坊やなぁ』
「ちゃうねん! ハイカラ……そうや、ハイカラなだけ……」
『アイス、食うとるときは、ほぉんま嬉しげな顔ぉするのう。ほんならわしの分もやるけぇ』
「そんなに食べたら腹壊します……」
写真は語らない。
決して語らないはずなのに。
まるで語っているように感じるのは、気のせいなだけ。
自分が、あの頃を思い出しているだけ。
姉のゆったりとした言葉を、あきれ顔で言った「あの人」の言葉を、眩しそうに目を細めて言った夫の言葉を、思い出しただけだ。
写真がぼやけた。
だから、姉が、「あの人」が、両親や兄や弟が、そして夫が優しく笑ったように見えたのも、気のせいなのだろう。
彼らにはない、皺が目立った目尻を指で拭う。
時代が変わり、平和が訪れ、過去や彼らの存在が忘れ去られようとも。
己だけは、決して忘れない。
彼らと共にあの過酷な時代を、美しくも残酷な日々を駆けぬけたことを。
常に生と死が背中合わせの中を懸命に生き抜いた、あの日々のことを。
だから、命あるものは精一杯生きねばならないのだ。
己が生きている限り、思い出すたびに、彼らは心に生き続けるのだから。
そうでなければ……
写真に背を向け、部屋を出た。
玄関を開ければ、耳一杯に飛び込んでくる蝉の声。
眩しい日の光を手で遮って空を見上げれば――そこにはあの夏と同じ、果ての見えない澄み切った群青が頭上に広がっていた。
お読みくださりありがとうございました。