二十話目:ナズ君絶体絶命!?
「ぎゃーてーぎゃーてー、はらぎゃーてー」
その日もいつも通り、響子は参道を掃除していた。
結局芳香は見つからなかったが、裏事情など知るはずもない。
またいつか行けば会えるだろうと、その程度にしか受け取っていなかった。
(それにしても──)
ふと手を止め、響子は日の光がまぶしく輝く青空を見た。
(芳香のことは大好きなんだけど、死体と友だちって何だか他の人には言いにくい気もするなぁ)
芳香のことは、白蓮には少しだけ話した気もするが、それ以外には"単なるお墓で会った友だち"としか話していない。
寺に招待して皆を驚かせてやろうという気持ち半分、話しにくいという気持ち半分で、響子はそれ以上は語ろうとしなかった。
第一、あの時はあまり話をすることができなかったので、響子自身、芳香のことはそれほど詳しく分かっていない。
故に芳香のことを誰かに説明しろと言われたら『死体です』としか言えなさそうな気がしてならない。
もっとも、身内に船幽霊を抱えた寺の住民なら、今更死体が歩いたところで何ら動じないかもしれないが。
「……どうしようかな」
そう呟きながら掃除に戻ろうとした、ちょうどその時。
「どいたどいたぁッ、轢き殺されても知らないよッ」
威勢の良い掛け声に響子が振り向くと、立ち上る土煙りのむこう、参道をものすごい勢いで駆けてくる者の姿が見えた。
遠目に見ても、どうも頭頂部に人とは異なる形の耳がうっすら見えるところから、どうも妖獣の可能性が高い。
それもただ走ってくるのではなく、台車のようなものを押しながらこちらへ向かっている。
……と、ここまで冷静に分析していた響子であったが、よくよく見ればその妖獣は"こちらに高速で走って"来ているのである。
本人の言う通り、避けなければ無残な轢死体となる可能性も否定できない。
「ちょ、ちょっと待った!」
大声で呼びかけてはみたものの、むこうは止まる気配なし。
慌てて響子は、集めた塵もそのままに、無我夢中で参道の脇に避難した。
その途端、豪速妖獣with台車、もっと近くから見てみれば赤い髪をなびかせた猫型妖獣、は走る足を止めて踵で立ち、全体重を後ろにかけ始めた。
同時にその靴の、地面と接する踵部分、そして押している台車の車輪からも、目がくらむような眩い火花。加えて鋭いブレーキ音。
目にも耳にも優しくない光景の中、響子は全力で耳を塞ぎながら、ただ彼女の華麗なるブレーキシーンを目に焼き付けていた。
やがて火花が煙に変わり、白煙を上げながら、彼女はちょうど響子のすぐ隣に止まり、
「毎度おなじみ、地獄猫又本舗でございやす! 何か最近おかわりありませんか?」
何事もなかったかのようにそう言ってのけたのであった。
その、お世辞にも爽やかとは言えない登場シーンに、響子はしばし開いた口がふさがらなかったが、
「……あ、あの、すみませんが、どちら様ですか?」
やっとのことで、基本的なその質問をすることができた。
「おぉ? もしや地獄猫又本舗をご存じでない? その様子だとご存じでない。そう。まいったな、こりゃ」
"地獄猫又本舗"を名乗った彼女は、困ったように頭をぽりぽりかいた。
「ま、長話は好きじゃないから手短に説明するか。早い話が死体回収業ね。で、あたいはお燐、地獄猫又本舗の店長兼店員兼平兼下っ端、つまりはソロ活動よ。
本当はもっと長い名があるんだけど、あんまり長い名前を言われて覚えにくいのも嫌でしょ? だからお燐でいいよ、てなわけでよろしくね、おチビちゃん」
流れるような早口で燐はそう語りながら響子に対して手を差し伸べた。
握手を要求しているのだ、と察した響子は、"おチビちゃん"という呼び名が少し気にいらなかったものの、恐る恐るその手を握った。
「こ、こちらこそよろしくお願いします。あと、私には響子っていいます」
「おぉ、響子か。なかなか洒落た名だね。気にいった、今後も仲良くやろうや、おチビちゃん」
"気にいった"という割には直すつもりはゼロらしい。
それは兎も角、響子は自分の名前の事の他に、その"死体回収業"という彼女の職業(?)が気になっていた。
「あのー、それでご用は?」
「おっといけない、忘れるところだった。つまり、ほら、死体集めは黒猫の甲斐性って言ってね。おチビちゃんの周りに余ってる死体ない? もれなく引き取るよ」
死体と言われて思いだすのは当然芳香のことである。
回収されては困るが、なんとなく死体にはくわしそうなので、死体の生態(!?)を聞いてみるにはちょうど良い相手かもしれない。
「お燐さん、死体には詳しい方ですか?」
「おいおいおチビちゃん、きつい冗談だね。そいつぁ鬼さんに『お酒飲めますか?』って聞いてるようなもんだ」
相当な自信があるらしい。
そこで響子は期待あふれる笑みを浮かべながら、燐に尋ねた。
「じゃあ聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「お、相談かい? よし来た、同じ妖獣のよしみだ、人生の悩みから葬式の相談までなんでも答えてあげようじゃないか」
「やった! あのですね、死体妖怪と仲良くなるコツとかありますか?」
「死ねば?」
「!?」
その燐の爽やかな即答に、響子の表情は凍りついた。
「……はい? いや、えっと、あの……」
「あのね、おチビちゃん、死体と仲良くなる最高の近道は自分が死体になることだよ。死後のことは心配いらないさ、あたいに任せておけば全力でプロデュースしてあげるよ」
「私が死なない方向でお願いします!」
「死なない方向ねぇ、うーん……」
燐は腕を組み、しばし眉を寄せ首をひねりながら小難しい顔で思案に暮れていた。
だが猫の考え事なんて5秒続けば長い方であり、燐もまた答えを出すのに4秒しか要しなかった。
「うん、頑張れ」
「えっ?」
「おチビちゃん。確かに、努力すればなんでもできるとは言わないよ? でもさ、努力で何とかなる事っていうのは努力するのが最善主って昔から決まってるのさ」
「おぉ、なんか説得力ある答えありがとうござ──」
「ま、自慢じゃないけど」
響子の答えを半ば無視するように遮って、燐は話を続けた。熱く。
「あたいだって昔は落ちぶれた一匹黒猫だったもんさ。でもさ、"仕官の口を見つけ、いつかは立派な豪邸の立派な炬燵で丸くなる"って目標の下、努力だけは怠ることはなかったよ。来る日も来る日も死体を探し、死霊を喰らい、足が霜焼けになっても休む間もなく、不吉な化け猫と呼ばれ住処を追われてもめげることなく。今の華々しいあたいがいるのは、きっとそういう惨めで涙ぐましい日々の積み重ねだね、うんうん。ま、自慢じゃないけど」
どう聞いても自慢である。
それにしても、ここまで饒舌な人を響子は今まで見たことがなかった。
根は良い人に違いなさそうだが、『返事する機会を与えない喋り方』というのは"返事を重んじる"山彦と相性が悪そうである。
「で、さてと。そろそろビジネスの話に戻っちゃうけどさ。おチビちゃん、余ってる死体ない? どうせ素人に死体はうまく扱えるはずがないんだ、置き場に困ってるでしょ? もう大丈夫、そんな悩みとはもうさよならだ。このあたいが全部引き取るよ」
「た、たぶん、ないと思います」
その勢いにたじろぎながら響子が答えると、燐はさらに語気を強めた。
「本当? 嘘ついちゃいけないよ? 嘘ついたら閻魔様に舌を抜かれるし、その舌だって地獄の焼き肉屋で安く提供されちゃうんだからね。おチビちゃんだって、焼き肉屋に行って『嘘吐きの舌』って名目で自分の舌が出されたら嫌でしょう?」
「ないと思います」
「またまた御冗談を。ここはお寺でしょ? お寺ってことはお葬式の場だ。裏には墓地もある。言わば死体パラダイス、少しくらい余ってるのあるでしょ? そうだ、本業は死体集めだけど亡霊や怨霊も扱ってるよ。怨霊は冬なら床暖房にちょうど良いけど、夏は暑苦しいだけで邪魔な存在でしょ? それならあたいがもらっていくよ」
「ないと思います!」
思わず大声が出てしまったのには理由がある。
死体も怨霊もない寺だが、亡霊の類はいる。しかも困ったことに余っているわけではない。
何を隠そう、船幽霊、水蜜の事だ。幸い今は一輪と一緒に買い物に出かけているため不在だが、持ち帰られるわけにはいかない。
死後、自分の舌が居酒屋で提供されるのに抵抗があるかないかと聞かれれば、おおいにあるが。
(舌は山彦にとって喉と同じくらい大切な商売道具、例え死後とは言えそう簡単に取られるわけにはいかないのだ)
「あーん、もう。あるでしょ? おチビちゃんが忘れてるだけで絶対あるでしょ? 腐りかけでもいいからさ、1つくらいちょうだいよ。可愛い子猫ちゃんに愛の手を」
「そ、そんなこと言われても……」
"愛の手"どころか"相の手"を入れるだけで精一杯である。
響子はすっかり困ってしまった。第一、この寺で死体を見たことなど(芳香を除いて)1度もない。
それなのに『死体をよこせ』と迫られても、どう対応して良いか分からない。無い物は無いのだ。
そうしているうちに、そんな風に困惑してしまった響子の様子から、流石の燐もようやく事情を察したようだ。
「──よし、分かった。ちょいと残念だが、おチビちゃんが知らないって言うんなら仕方ない」
燐がそうため息をついたのを聞いて、ようやく響子は安堵した。
少し失礼な話ではあるが、このまま無理な要求を突き付け続けられるくらいなら帰ってもらった方が双方に優しいはずだ。
なので、このまま燐が諦めてくれると思ったのだ。
「じゃあさ、このお寺の一番偉い人連れてきてよ。その人と交渉することにしたわ」
現実は非情だった。
※ ※ ※ ※ ※
「聖様、聖様」
さてさて、肩から荷が下りたとは言え困ってしまったことには変わりの無い響子。
半ば助けを求めるような心情で白蓮の部屋に直行した。
「あらあら、どうしたの? そんな困った顔して」
「実は表に死体回収業者って人が来ていて──」
そこから響子は事情を簡潔に話した。
燐という名の死体回収業者が来て、死体を要求している事。
とりあえずうちには死体がないことを伝えても帰ってくれない事。
挙句の果てに"一番偉い人を呼んで来い"とさらなる交渉をねだっている事。主にこの3点。
「……ふんふん、なるほど。でも困ったわ、流石に死体はないのよね。そもそもうちってお葬式を執り行ったこともないし」
「そうですよね。そう言えば、うちってお葬式は専門外なんですか?」
「そんなこともないわよ。でもね、お葬式は誰かが亡くなった時にすることでしょ? 妖怪はみんな不老長寿だもの、人間ほど頻繁にあるはずないじゃない。それに、めでたい行事でもないし、ないならない方がいいわ」
「確かに」
白蓮の話に、響子は納得したように大きく頷いた。
余談だが、葬式を"悲しい行事"と捉えるのは生者にとっては大体共通の概念と言ってもいいだろうが、死者側からすればそうでもない。むしろ"新参歓迎会"と称して大喜びする事の方が多いくらいである。
もし命蓮寺でお葬式を執り行おうものなら、参列者の目前で、寺側のスタッフであるはずの水蜜(故人)が、この上なく清々しい笑みで
『死後の世界へようこそ。人生短しとは言うけれど死後は長くて気楽だからね、まあまあ、まずは川を渡る前にいっぱい呑みに行こうじゃない』
と、葬式の主役たる死霊を連れて居酒屋に行ってしまう光景は、あまり想像に難くない。
ここらで閑話休題。
「兎に角、私が呼ばれているのでしょう? ちょっと話をつけてくるわ、流石に裏のお墓を掘り起こされるのは困っちゃうし」
白蓮は立ちあがり、部屋を出ていった。
燐を待たせている応接室に向かったのだろう。
響子も白蓮の後を追うように部屋を出て、その様子を見に行こうとした。
だが、部屋を出たところで
「話がある」
「えっ、わっ」
不意にグイッと左腕を掴まれ、隣の部屋に引き込まれた。
よく見てみると、自分の腕をつかんでいたのは、いつもに増して仏頂面のナズーリンであった。
「な、ナズーリン? どうしたの、いったい」
「聞いたよ、図々しい悪徳業者が来ているんだってね」
「え? そうだけど、まさか立ち聞きしてたの?」
「立ち聞き? そう思われるのは心外だな、君も聖も声が大きいから、隣の部屋で耳を澄ますだけで聞こえるんだよ」
「それって立ち聞きと何が違うの」
相変わらず悪びれる様子の無いナズーリンだが、その辺りについては響子ももう慣れた。
「まあ、そんな概念的問題はどうでもいいんだよ。それより、聖にそういった交渉業務をやらせるのはいかがなものかと思うんだよ、私は」
「え? どうして?」
「考えてもごらん。人がよすぎる聖のことだ、向こうがお涙頂戴な話を語ったらどんな要求だって同情しながら飲む事くらいすぐ分かるじゃないか」
ナズーリンは腕を組み、『そんなことも分からないのか』と言いたげな趣きで酷く呆れていた。
そう言われてみると、たしかにそういった結末は容易に想像できてしまうので、尚更響子は困ってしまった。
「だ、だって、お燐さんは『寺で一番偉い人を連れてきてくれ』って」
「ああ、君はどこまで馬鹿なんだ。一見の客がこちらの上下関係を把握しているはずないじゃないか。そういう時は適当に一輪あたりを連れていけばいいんだよ」
「でも、一輪さんと船長さん、でかけちゃってるし……」
そう響子が言うと、流石にナズーリンも言葉を詰まらせた。
「……仕方ない。こんなつまらん用事のためにご主人様の力をお借りするのも失礼な話だろう。聖が変な要求を飲まないうちに、私が追い返してきてやるよ」
ナズーリンはため息をつきながら響子を置いて部屋を出ていってしまった。
ただ1人残された響子であったが、
(いや、むしろナズーリンが話に混ざった方がややこしくなるんじゃないかしら)
と思い、その後をついていった。
ナズーリンもそれに気づいたが、
「なんだ、君も来るのか?」
「うん、まあ」
「ふーん。私は別にどっちでも良いが、邪魔だけはしないでくれよ」
響子が来ることにそれほど興味を示していなかった。いつものことだが。
こうして、応接室手前までやってきた2人。中から白蓮と燐の話す声が聞こえる。
そこでナズーリンは、響子の行く先に腕を伸ばし、無言で静止させた。
「……どうかしたの?」
「しっ、静かにしてくれ。中の話が聞こえん」
ナズーリン立ち聞き再び。
そこで、本当はあまり良くないことだと知りながらも、響子も耳を澄ました。
「……いやあ、特に最近は巧く行きませんよ。嵐が吹き荒れる夏の夜も、雪が降り積もる冬の夜も、休まず働けど行く先行く先徒労に終わる事ばかり。死体がないとうちはやっていけないっていうのに、あたいはただ、主からの期待に応えたい一心で働いているのに、誰も協力してくれないんですから」
「そうなの? どういったわけかと思っていたけど、貴方も苦労しているのね」
中から、熱く語る燐と、それに同情する白蓮の話が聞こえてきた。
「ほら見ろ。あんな安っぽい与太話で既に陥落寸前じゃないか」
ナズーリンは呆れながらため息をついた。
「でも、そこが聖様の良いところだと思うよ、私は」
「どうだかね」
響子が必死にフォローを入れても、ナズーリンは依然として不機嫌そうであった。
思い起こせば、響子も初めてこの寺に来た時、大体こんな感じで白蓮に自分の悩みを打ち明けた覚えがある。
はっきり言って今の自分がこうして寺で働いているのも、あの時白蓮に優しく受け入れてもらえたからだと、今なら思えるのだ。
だが、どうもナズーリンにとってはそんな白蓮の態度が気にいらないらしい。
響子にはナズーリンが何を考えているのか常日頃から分からないが、今の彼女については特にさっぱり分からなかった。
「兎も角、このままだと話がとんでもない方向に流れていきそうだし、まずはその死体屋というのが何者なのか拝見させてもらおうじゃないか」
そう言って、ナズーリンは応接室の中に踏み入り──
「あら、ナズーリンじゃない。どうかしたの?」
「おぉ、妖怪鼠! いいねぇ、こんな立派で食べ応えのありそうな鼠は久々だよ」
白蓮のことは兎も角、燐の顔を見るや否や、即座に顔が青ざめた。
あれだけ"追い出す"と言っていた割には、あっというまにやる気消沈。ただ、その蒼白な顔でその場に立ちつくすだけの存在と化してしまった。
「ナズーリン?」
白蓮に語りかけられ、ようやく我に返ったかのようにナズーリンは話し出した。だが足は震えている。
「……い、いや、失礼。ちょ、ちょっと様子を見に来ただけなんだが、ま、まあ、今唐突に急用を思い出してね、す、すぐ戻るとするよ。いや、誤解しないでほしいが、ね、ね、ね、猫なんか怖くもなんともないからね、うん、こわくないさ、ちっともこわくない、そ、それじゃあ失礼するよ」
もはや"平常"という言葉とは程遠い態度で、ナズーリンは響子を押しのけるように部屋から出ると、目にもとまらぬ速度で奥に消えていった。
「ちょ、ナズーリン!? 待ってよ、どこ行くの!?」
慌てて響子もその後を追った。
そんな様子を目の当たりにした白蓮と燐。
「ナズーリン、まだ猫が苦手なのね。ああ、お燐、ゴメンなさいね、ナズーリンは種族的にどうしても猫が苦手なのよ。気を落とさないで」
「気を落とす? とんでもない! 今時の鼠は皆ませてきてましてね、あたいら猫を見ても怖がる素振りも見せないもんだから、つまらないのなんのって。それに比べてどうです、なかなか良い鼠がいるじゃありませんか、ここは! いいねぇ、可愛いねぇ、是非とも友だちになりたいくらいですよ!」
そう答えた燐の目は、偉く輝いていた。
※ ※ ※ ※ ※
「なんで猫だって言ってくれなかったんだよ! 馬鹿か君は! 不親切にも程がある!」
全速力で逃げ出したナズーリン、響子の部屋に駆けこむや否や押し入れの中に立てこもってしまった。
「ナズーリン、出ておいでよ。私が付いていてあげるから」
「君なんか信用できるか! 」
押し入れの襖越しに響子が呼び掛けても返事は冷たい。
「ねぇ、ナズーリン、きっと大丈夫だよ。お燐さんも話が分かる人だと思うよ、たぶん」
「その"きっと"とか"たぶん"とかはなんだ! 信用できないのが見え見えじゃないか!」
「……そんなに猫が怖い?」
「当たり前の事を聞くな! あんな野蛮で獰猛で気まぐれで愛敬の欠片もない飢えた下等生物と、君は本当に手を取り合えるとでも思っているのか!?」
何もそこまで言わなくても、と響子が思ったちょうどその時。
「野蛮? 獰猛? 愛敬の欠片もない? 飢えた下等生物? ほう、好き放題言ってくれるねぇ」
と、聞き覚えのあるあの声がしたかと思うと
「じゃじゃーん。地獄猫又本舗、お燐ちゃん参上でーす」
なんと、どう嗅ぎつけたのかは知らないが、陽気な声と一緒に燐が飛び込んできた。
「うわぁぁぁぁッ、なんで来てるんだ! なんてついて来てるんだよ! ふざけるなッ、帰れ! 帰ってくれ、頼むから!」
押し入れの中で絶叫をあげるナズーリン。
姿は見えないが、もうどんなポーズでいるのかなどすらも容易に想像がつく。
恐らく、押し入れの隅で頭を抱えて体育座りしているに違いない。
「いやいや、あたいを誘ったのはあんたの方じゃないか、鼠ちゃん」
「誰が誘うものか! 戯言並べる暇があったら今すぐこの部屋を出て行け! 出て行かないと後で酷いぞ!」
「いっのかなー、そんなこと言っちゃっていっのかなー、押し入れ開けちゃうぞー」
「分かった分かった、謝る! 謝るからもう勘弁してくれよ! 私が何をしたって言うんだ!」
調子に乗ってはしゃぐ燐に、もう死にそうな声であれこれ叫ぶナズーリン。
これには、傍から見ていた響子も思わずナズーリンに同情してしまった。ここまで追い詰められては、あまりに可哀想過ぎる。
「あのー、お燐さん? その辺で止めて向こうに戻りませんか?」
「ああ、おチビちゃん先戻っていいよ。あたいもすぐ行くから」
この時、響子は思った。『燐とナズーリンを2人きりにしてはいけない』と。
とは言え、燐というこの猛者は一筋縄ではいかない相手である。正直なところ、良い策が浮かばない。
最善手は白蓮か星を呼ぶことなのだろうが、白蓮はまだ応接室にいるだろうし、星の部屋(つまり廊下を挟んだ向こう側)を見ても誰もいないことから、星の所在は不明。
そして一輪や水蜜は外出中。残りはぬえだが、彼女を呼ぶのは恐らく悪手。この事態を面白がって燐側に加勢するのが自然と予想される。
早くしないとナズーリンがショック死してしまう可能性も見えてきたところで、どのようにして説き伏せようかと頭をひねっていると
「あらら、どこに行ったのかと思ったらここにいたのね」
響子にとっては嬉しい事に、望んでいた頼もしい味方、白蓮がやって来た。
「おぉっと、大将さん、ご無沙汰してます」
燐はちらりと白蓮の方をむいたが、すぐさまナズーリンの立て籠る押し入れに視線を戻した。
「あのね、お燐。貴方の友情を築こうとする態度は素晴らしいと思うのだけれど、今はとりあえず向こうに戻らない? このまま両者の溝を埋めないまま仲良くなろうと言うのも難しいと思うの。だから、まずは文通とかその辺りから──」
「いやいや大将さん、今日のあたいは攻めますよ。思う存分攻めるが吉と見ましたよ」
白蓮は燐の『友だちになりたい』発言を真に受けているのだ。それは完全に偽りとは言わないが、実際に燐の行っている事とは到底近いとも言えないだろう。
何せ、今にも押し入れに飛びつきそうな燐を響子が必死に抑えている状況である。
「うーん、困ったわねぇ」
白蓮は首をかしげ
「困っているのはこっちだよ! もう聖でも響子でもいいから誰か何とかしてくれ!」
ナズーリンが金切り声をあげる。
そうしている間にも、響子の努力も実らず燐と押し入れの距離はじりじり縮まっていく。
あまり腕力を必要としない山彦である響子と日々死体を求めて駆け巡る燐では、物理的な力量差は明白な物だった。
そして、
「もらったぁ!」
「やぅっ」
押し入れまであと一歩というところで、燐は最後のワンステップを大きく踏み出した。
もうその勢いは響子にどうにかできるレベルではない。
燐が押し入れの襖の金具に手をかけ、ナズーリン絶体絶命となったその時、
「にゃうっ!?」
ぐいっと燐は後ろに引っ張られた。
見れば響子に白蓮が加勢していたのだ。
「まあまあまあ、まずは戻りましょう? そしてゆっくり作戦を立てなおしましょう? ね?」
「あーん、そんなそんなそんなぁ。ここまで来て戻るなんざ嫌ですよ」
「まあまあまあ」
「にゃぁーん」
燐がじたばたしても、情勢は白蓮に利があった。
いくら燐が妖獣、パワーに自信があったとしても、魔法を用いて容易かつ半無限的に身体強化を行える白蓮が相手では分が悪い。
今度は燐と押し入れとの距離がじわじわ広がっていく。
すると、そこへ
「あの、先ほどから何やら騒がしいようですが、いったい何かあったのですか?」
ようやく星が来た。
恐らく彼女の到来を誰よりも待ち望んでいたのはナズーリンであろう。
「ご主人様! そ、そこの横暴な猫を、すぐ追っ払ってください! ほんとに、さっきから、生きた心地がしないんです!」
必死に主張するナズーリンであったが、一方で燐はと言うと、何か思う節があったのか、星をしばしジッと見ていた。
そして少し経ってから
「……もしや虎の妖獣さん?」
と、尋ねたのであった。
「ええ、はい。そうですが」
「おー! 虎!」
一気にテンション急上昇させ、燐は星の方に駆けだすと彼女の右手を両手で握った。
その転身ぶりの速い事と言ったら。これには響子は勿論、流石の白蓮も唖然としてしまった
まして今やってきたばかりな上に急に握手を求められて、星が一番困惑気味。
「虎と言えばネコ科の大将! 猫業界の頂点を豹と二分する帝王! こんなところでお会いできるだなんて『驚き桃の木あの世行き』とはまさにこのこと! いやー、猫冥利につきますよ、本当に」
「は、はあ。よく分かりませんが、ありがとうございます」
どう考えても驚いたのは星の方であるが、それはこの際置いておくとして。
「……で、何やらナズーリンが相当困っているようですが、あれは貴方の仕業ですか?」
「ナズーリン? はて。ああ、あの鼠ちゃんか! いや、実はですね、あの押し入れの中に弄り甲斐のありそうな妖怪鼠がいてですね、ちょっとガードは堅めですが虎の旦那ならこのくらい──」
「その妖怪鼠は私の部下です。あまり苛めないでもらえませんか?」
「──え?」
星の返事に、燐は思わず言葉を詰まらせた。
ここまでその饒舌ぶりをこれでもかと言うくらい発揮してきた燐が、ここで初めて台詞に困ったのだ。
それほどに意外、言わば想定の範疇外、まさに青天の霹靂とでも言うべきか、そんな感じだったのだろう。
『虎が鼠を部下として抱え持っている』という事実が。
『"ネコ科の頂点"が、"ネコにとっての玩具"を、部下として大切がっている』という事実が。
「部下? あの鼠ちゃんが? 虎の旦那の? いやいや、冗談言っちゃいけませ──」
必死に事実を否定したがる燐の、その手を、今度は星が両手で握り返す番だった。
「ですから、ナズーリンは私の大切な部下なんです。あまり苛めないでもらえませんかねぇ」
握手という手段を、燐はおそらく友好の証、コミュニケーションの一種として用いただろう。
その時の星は未だ事情を呑みこめていなかったため、とりあえずは同じく同じ意味で握手を返した。
だが今の星がした握手は、それとは意味合いが異なる。
例えば虎が鹿を捕らえる時、まずいきなり噛みつくことはしないだろう。まずは前足で相手を抑えつけ、転倒させ、そして噛みつくのだ。
ここでの握手はまさにその第一ステップ、"前足で相手を抑えつけ"に最も近い。
無論自然界で言えばここで被食側の敗北は確定したもの同然だが、今は交渉、まだ数ステップある。
トドのつまり、今の星の対応を誰にでも分かるよう直訳すると『四の五の言うと喰うぞ』の一言で事足りる。(実際に喰うかどうかは別として)
獣界の掟、自然の摂理は厳しいのだ。
さて、とうとう困る側に立たされた燐。
ランチをとるつもりがランチになる寸前となってしまった。
死体獲りが死体になっては笑い話にもなりやしない。
「へへー、おそれいりやした」
町奉行の裁きを受けた町人の如く、深々と頭を下げる最善手をやむなく採用したのであった。
それを聞いて、ナズーリンは
(ああ、やっぱり最初からご主人様に任せておけばよかった)
と此処に逃げ込んだことを悔やみ、響子は
(そうか、立派な妖怪になるとこういう問題も簡単にぱぱっと解決できるのか)
と自身の苦労を振り返りながらしみじみ感心したが、当の星はと言うと、
(ああ、こんな手荒で獣臭さが抜けない方法に頼ってしまうだなんて、私もまだまだ未熟ですね。聖のように聡明かつ理知的な対応を心がけようと決めていたはずなのに)
と早くも自身の行いを反省中、そして目標に掲げられている白蓮はと言えば
(……応接室に残してきたお茶、冷めてないかしら。やっぱり入れ直した方がいいわよね)
もう次段階に思考が移っていた。
※ ※ ※ ※ ※
その頃、命蓮寺の表では、というと。
「ねえ、一輪。なんかうちの前に、やたら見覚えのある猫車が止めてあるんだけどさ、私の見間違えか記憶違いだよね? きっとそうだよね?」
「村紗、現実を見なさい。見間違えでも記憶違いでもない」
「……なぜここがバレた」
「別に隠れ住んでいるわけでもないでしょう。まあ、ある意味面倒な相手が来たという事に対しては同感だけどね」
たった今買い物から帰ってきた一輪と水蜜はまだ知る由もなかった、既に面倒な事が手に余るレベルで起きていると言う事を。
※なんだこのアニマル濃度は!
はい、どうも。猫大好き、作者の兎です。
週1ペース確立とか言っておきながら、いきなり3回書きなおしで遅れました。
なんかアニマルな話になりましたね。
「鼠と猫と虎」という種族面が大いに効いてくる話にしたかったのですが、蓋をあければサファリパーク。
それと、前々から何度か言わせてもらってますが、ボクには寅丸と聖のカリスマベクトルは90度違うという絶対正義があり、今回はそれによって書かせてもらいました。
言わば妖獣と妖怪の差でしょうかね。
実を言うと、命蓮寺をテーマに掲げた時から"妖怪"と"妖獣"の違いは大切にしようと思っています。
きっと種族的に見て、仲間意識は妖獣の方が強いのでしょうね。たぶんそんな気がします。
だから星様にはもう少し獣臭さを残していて欲しい。あにまるとらまる。ナズ君もしかり。
"獣臭い"というと野蛮で粗暴な気がしますが、"ワイルド"と言いかえれば……、いや流石にこれは意味が違うか。
あと悩むのは、響子は"妖怪"なのか"妖獣"なのかというところ。
そして何と言っても今回は燐さん登場です。
前回に続き、どんどん増える新登場人物。早くもお寺で大暴れ。
かなり喋らせました。ブラックジョークも結構入れました。何だか喋るイメージがあるんですよね。かなり。
『猫はお気楽者』という固定概念がボクの中にあるのかもしれません。
まあ喋らないキャラよりはよほど動かしやすいですが。
少し短絡的かつ感情的な感じが出ていたらなぁ、と。つまり若さです。若さ。
さーて、一輪さんと船長さんが帰ってきました。
見覚えがあるようです、さあここからどうなるのでしょうか。
それは次回のお楽しみと言う事で(次回予告風味
たぶん。
あにまるー!




