十八話目:芳香ちゃんは誰の手に
※前回のあらすじ
自分の部屋をもらえた響子(十六話目参照)。
あまりの嬉しさに、友だちである芳香(十五話目参照)をお寺に招待しようとするが(十七話目参照)。
さて、真夜中。
昼行性の響子が寝静まった頃、すなわち夜行性の妖怪が本格的に動き出す時間帯。
寺とは少し離れた、とある大霊廟の内部。
そのうちの青娥の部屋にて、時に部屋の主である青娥が鏡を見ながら髪を結っていた時のこと。
「青娥娘々!」
名を呼ばれた青娥はであったが、どうせこの霊廟にいるのは自分以外に1人しかいないので、振り向かなくても誰かは分かる。
なので青娥は振り向くこともなく、鏡を通して背後を見ると、部下である芳香が立っていた。
その手に歯ブラシを持って。
「幽霊を食べたら歯に詰まって気になるのだ! 取ってくれ!」
そう言って、芳香は歯ブラシを青娥の方に突き出した。
普通なら『自分で磨け』と言いたくなる光景だが、芳香の場合は話が少々違ってくる。
自由に動かぬ関節に支配された芳香にとって、手に握った歯ブラシを口元に持ってくる事は無理難題なのだ。
そこは青娥が一番よく分かっている。
とは言えこの時、青娥は機嫌があまりよろしくなかった。
「芳香、そろそろそれくらい1人でできるようになりなさい」
青娥がつっけんどんにそう言うと、
「りょーかーい」
と、芳香は気の抜けたような返事をし、腕を曲げようとし始めた。
しかしそこはキョンシー、頑固な関節は一向に曲がる気配を見せない。
そしてその末に、ボキッと鈍い音と同時に、芳香の右肘は本来関節が曲がらない真下へだらりと垂れたのであった。
芳香はしばらくの間、重力にまかせてぶらぶら揺れる自分の右腕を眺めていたが、その後ようやく何が起きたのかを理解したようで、
「うおぉぉぉ、折ーれたー!」
と驚きの声をあげた。
それは、自分の腕が折れたという事実の割にどこか他人事のようであった。
実際、芳香は痛みを感じない。青娥がそのようにカスタムしたのだから当たり前だ。
なので自分の腕が折れても他人の腕が折れても、その事象の重さは大して変わらないのである。
むしろ『部下に歯を磨くよう命令したら腕を折ってしまった』という事実に、青娥の方が呆れる始末であった。
「分かった分かった、磨いてあげるからこっちに来なさい」
とうとう青娥も櫛を置いて、芳香を呼び寄せた。
芳香は嬉しそうに青娥の所に寄ると、口を開けた。折れた右腕など意にも介していないようであった。
放っておいても芳香は虫歯になることはない。風邪をひくこともない。
あらゆる人体を蝕む細菌より芳香の体組織が持つ毒素の方が強いため、そうした外部の侵入者は悉く死滅してしまう。
つまりこうして歯を磨いてやっているのも、芳香本人が気にするかどうかは別とすれば、本来は全く必要ないのだ。
なので放っておいても、食事さえしっかり摂取させれば、芳香が健康被害を被ることはない。青娥がそうカスタムしたから当然である。
唯一の誤算はその毒素が脳機能に与えたダメージが想定していた以上に大きかったことであったが、この点は『与えられた命令に関すること以外について思考しない下僕』という青娥が立てた指針と一致していたため、事実上無視されることとなった。
つまるところ、芳香は青娥にとって理想の下僕だったのである。
ただし、それも"つい先日までは"という注釈つきの代物となってしまったが。
(あれから、目立った異常は起きてないようね)
芳香の身の回りの世話(着替え、歯磨き、入浴、お肌の手入れ、肢体切断や開腹手術を伴うメンテナンス、その他もろもろ)をしてやるのが青娥の日課でもあった。
(日課と言いながら実際は週1だったりするのは、青娥自身が義務感など微塵も感じてなく、ただの暇つぶしと化している現れでもある)
何はともあれ、そうした世話を通じて芳香の思考パターンをほぼ完全に把握していた。
思考パターンと言っても頭が弱い芳香の思考は単純きわまる物であったので、理解するのに時間はたいして必要ではなかった。
芳香にとって人物の識別カテゴリは『自分』、『主』、『主の仲間』、『敵または餌』の4つに分けられる。
前者2つは芳香自身と青娥で固定として、それ以外はまず『敵または餌』に分類される。
その中で青娥が"食べてはいけない"と命令した物のみが『主の仲間』に分類される、そういったシステムを取っているのだ。
簡約すれば、芳香にとっての仲間は青娥にとっても仲間であるはずなのである。
先日起きたエラーはこれを破る酷い物であった。青娥の命令なしに『主の仲間』に分類される者が現れたのだ。
青娥もその人物に会ったことはなく、ただ芳香から"かそだにきょーこ"という名前を伝えられたのみである。
最初はこれを軽視していた青娥であったが、徐々に事を重く見るようになっていった。
これはともすれば『主』に自分以外の誰かが現れ、乗っ取りが発生するかもしれない可能性を秘めたエラーである。
よってそうした認識誤差は徹底的に除去しないと、後に一大事が起きてからではもう遅い。
故に青娥はあの時に芳香の記憶を除去したのは正解だと思っていたものの、それだけでは気が済まずにいた。
気が済まずにいたものの、原因が何か分からない以上何をすれば良いのか根本的な指針を立てることができないのが現状であった。
つい先ほどまで苛立っていたのもそのためである。
(ここでこれ以上考えていても、時間の無駄かもしれないわ)
歯磨きを芳香の口の中に先端を突っ込んで、適当に掻きまわしながら、青娥は考えた。
多少雑ではあるが、芳香は文句を言わないので、別に気にすることはない。
「芳香」
「はひ?」
「今日は墓場に出向かず、ここに残って腕を治していなさい」
「はーひ」
「私以外の誰かが来たら、きちんと八つ裂きにするのよ?」
「はーひ」
とは言ったものの恐らく侵入者など来ないと青娥は読んでいた。彼女の狙いは別にある。
念のため芳香を墓場から遠ざけた上で、その"かそだにきょーこ"とやらがどんな人物か見定めようと考えたのだ。
『チビで弱くて逃げ足ばかり速い』という芳香の評価から、恐らくはその辺の妖精または下級妖怪と言ったところだろう。
しかしながら芳香の頭が異常をきたした原因がそこにないとも限らない。
我が目で見なければ確信は持てない、青娥はそうした現物主義者でもあった。
「はい、おしまい」
青娥はそう言って芳香に歯ブラシを握らせると、再び自身の髪を梳かし始めた。
先ほどまでは単なる時間つぶし的意味合いの強いお洒落であったが、今のは違う。
外に出るためのお洒落、そうした身だしなみには手を抜かないのが彼女の流儀である。
そして、その青くて長い髪を頭上に結いあげると、
「それじゃあ芳香、後はよろしくね」
そう言って化粧用鏡の前から立ち上がり、部屋を出ようとした。
「青娥娘々、どこに行くのだ?」
背後から芳香にそう尋ねられ、青娥は
「私がどこに行こうと関係ないはずよ。芳香、貴方は私から下された命令を遵守していれば良いの」
「そーかぁ、そーだったな。じゃあ、そうする」
「そうそう。流石は我が下僕、物分かりの良い子ね」
と言い残し、今度こそ霊廟を出ていった。
地下に広がる霊廟と地上の間には屈強な地面があるが、見方を変えればそれは"土の壁"である。
壁抜けの術を習得している青娥にとって、大地をすりぬけて地上に出ることなど造作もない事であった。
※ ※ ※ ※ ※
翌朝。
結局、青娥は"かそだにきょーこ"を探しているうちに夜明けを迎えてしまった。
墓場に常駐している妖怪と見ていたが、どうやらそうではなさそうだ。
もしかしたら各地徘徊型の妖怪がたまたま芳香とタイミング良く(悪く、かもしれない)出会っただけなのかもしれない。
(万が一そうなら厄介ね)
久々に見る朝日を眺めながら、青娥は途方に暮れていた。
よくよく考えてみれば、下級妖怪など幻想郷に溢れかえっている。
つまり今自分がやろうとしているのは、広大な砂漠に落とした砂金1粒を探すような非効率的所業なのではないかと、そう疑い始めた。
そもそも、仮に砂漠に落とした砂金を見つけられたとして、それは見つける価値のある物なのだあろうか。
まだ確証は無いが、そいつは恐らく『芳香にバグを起こさせた』という1点を除いては何の特筆事項もない弱小妖怪だろう。
見つけた末に話を聞きだし(場合によっては解剖し)、『ああやっぱり問題は芳香側にあったのか』と落胆する光景が今から目に浮かんで仕方がない。
少なくとも徘徊型妖怪であれば、今後しばらく芳香と遭遇する確率は低いはずである。
そう考えると、この問題は少なくとも今即急に解決すべき物ではないように思え、青娥の士気も駄々下がりの一方であった。
(もう、帰ろうかしら)
帰ってもかまわない、どうせ芳香には外出する理由は何も話していない。
そういう誤魔化しを不思議がらず『そーかぁ』『りょーかーい』で済ませてくれる点だけ見れば、実に良い部下である。
兎も角、記憶の除去といった措置をとった以上、これ以上何かをするのもさほど効果を上げないいように青娥には思えた。
「よし、今日のところはこれくらいにして帰りましょうか」
1人ごとを呟きながら、周囲に誰もいない事を確認した青娥。
霊廟に帰る方法は、行くときと同じく"大地という広大な壁"をすり抜ける仙術を用いようとしていた。
だが、いざ術を行おうとしていたその時、
「芳香ー? 芳香ー、寝てるのー?」
墓場に元気な声が響いた。
まだ声の主との距離はありそうだが、青娥は反射的に術を止めた。
何より、声の主が芳香の名前を知っているという事から、推察できる事は1つであった。
「まさか向こうから引きとめてくれるとは思ってもいなかったわ」
墓石の間を縫うように、青娥は声の主へ迫った。
その声の主は勿論、響子であった。当然、青娥側の事情など知るはずもない。
響子は今、『自分の部屋を貰えた』という喜びの真っ盛りであり、友だちである芳香をそこへ招待しようと考えていただけであった。
しかし響子が青娥の事情を知らぬように、青娥もまたそういった響子の事情を知るはずもなかった。
(恐らく、あいつが"かそだにきょーこ"ね。確かに、見た感じパッとしないけど……)
ただ芳香の名前を呼び続ける響子を、墓石の影から青娥は眺めていた。
恐らく、これ以上眺めていても有用な情報は得られないだろう。
どういった経緯で芳香のことを知ったのか興味はあるが、それを聞きだすには自分が姿を現す必要がある。
(ま、とりあえず最初くらいはうわべだけでも友好的に取り繕っておいた方がよさそうね)
いきなりとっ捕まえて霊廟に持ち帰り、全てを白状させることも不可能ではない。むしろ手早く事が済み、同時に始末もできて一石二鳥のようにすら思える。
しかし荒っぽい手段は時に思わぬ弊害を招く。相手の事を知りつくすまでは慎重に動いた方が得策である。
青娥は冷静に状況を見極めた末に、青娥はまず和やかな"営業スマイル"を浮かべると、片手で結った髪をほどき、すぐ傍の墓に供えてあった菊の花を別な方の手で引っ掴み
「あら、おはよう、妖怪のお嬢さん」
墓石の影から響子の前に姿を現した。
「あ、おはようございます。お墓参りですか?」
「ええ、昔の友だちのね。寂しがりな子だったから、たまには来てあげないとね」
勿論全部、即興で作った出まかせである。
とは言え、墓に花を持ってきた(正確にはこの上なく罰当たりな現地調達)青娥を、響子が"墓参りに来た人"と見るのも無理は無い話だろう。
ここまでは全て青娥の読み通りである。駆け引き上手な彼女が簡単に自分の素性を明かすはずがない。
素直な性格である上に嘘をつかれる覚えもない響子が、初対面である青娥の言う事をどうして疑うだろうか。
「ところで貴方、さっきから誰かを探しているようだけど、お友達と待ち合せ?」
青娥がそう尋ねると、響子はちょっと困った顔つきで答えた。
「はい。芳香っていう友だちがこのお墓に住んでいるんですけど、どこ行っちゃったんだか分からなくて」
「あらあら、大変ね」
皮肉にも、その芳香の居場所は青娥がよく知っている。勿論教えるつもりはない。
今回青娥はあくまでも"教えてもらう"立場であり、有用な情報を何1つ言わずに済ます予定なのだ。
「それにしても、お墓に住んでいる妖怪なんてちょっと変わっているわね。その子、亡霊か何かなの?」
「いいえ、死体のお化けです」
「死体のお化け? へぇ、ゾンビかキョンシーか、その辺りかしら」
「たぶん」
「私、死体が動くところなんて見た事ないわ。是非1度会ってみたいわね」
青娥はわざと驚いて見せた。言うまでもなく今のも大嘘、動く死体とは毎日のように顔を合わせている。
それどころか、その日の気分で開腹手術を行っているくらいの仲だ。
「……でも、貴方は死体の妖怪じゃないんでしょ? 見た所、妖獣の類みたいだけど」
「山彦です」
「ふーん、山彦ってそんな姿しているんだ。初めて見たわ。山彦ってことは山に住んでいるのよね、友だちに会うためにわざわざ山から下りてきたということかしら? 友だち思いなのね」
初めて見たのは事実であった。
だが、山彦の別称が"幽谷響"と呼ばれることを考えると、"かそだにきょーこ"という名前は確かに山彦らしい。
表向きは"響子が友だち思いである"ことに感心しながら、青娥は目の前の小娘が幽谷 響子であることに確信を強めた。
一方、響子は『友だち思い』と褒められた事に対する嬉しさで満面の照れ笑いを浮かべながら、
「いいえ、前までは山に住んでいましたが、今はそこの命蓮寺でお世話になっています」
そう答えた。
この瞬間、青娥は落雷を受けたかのような衝撃を受けた。
心臓の鼓動が跳ねあがり、何とか表情は崩さないよう努力したが、湧きあがる冷や汗を留めることはできなかった。
この事実は、いくら青娥であろうとも隠しきれぬ動揺を与えるに充分であった。
(この小娘、ただの野良妖怪どころか、寄りによって寺の……!)
もしも響子がただの野良妖怪であったなら、ここまで動揺することは無かっただろう。
もしも響子がただの野良妖怪であったなら、深刻な事態とはならなかっただろう。
もしも響子がただの野良妖怪であったなら、どんなに救われたことだろう。
しかし、現実はそうした青娥の願いを空しくも一蹴した。
響子が嘘をついていないことは、これまでのやりとりで青娥も既に分かっていた。
事実、紛れもなく響子は命蓮寺の一員であった。新参であれ、もはや他のメンバーとは切っても切れぬ絆を築いていた。
だが問題はそこではない。
『"寺の一員"である響子を、芳香が仲間と誤解した事』こそ最も悩ましき問題である。
(芳香も芳香よ、何を血迷って、よりによってこんな奴と……!)
ここまで青娥が殺気立つのもわけがある。
実は彼女の拠点である大霊廟は、命蓮寺のちょうど真下にある。
いや、正しく言えば大霊廟のちょうど真上に命蓮寺が建てられたのだ。
全ては、大霊廟に眠る聖人の復活を妨げるために。
ではこの霊廟の中に住む青娥はと言うと、言うまでもなくこの聖人の復活を何より望んでいた。
芳香に墓場を警備させたのも、自身がずっと霊廟の中に住みこんでいるのも、全ては眠れる聖人を守るためだ。
そしてこの聖人の復活を願う青娥にとってみれば、命蓮寺ほど邪魔な存在はなかった。
もし寺の住民がそろって弱者であれば、まず建設初日に焼き払っていただろう。
だが現実には甘くなく、その首領たる白蓮は"妖怪の英雄"と謳われる程の実力者。
加えてその部下に位置する幹部達も、曲者揃いと来たものだ。
うかつに手を出せば、こちらが完膚無きまでに叩きつぶされるかもしれない。
結局青娥は、この現実を甘受することしかできず、せめて寺側の侵入を防ぐために芳香を墓場に配置した。
だがその芳香が、あろうことか寺側の妖怪を仲間と誤認したのだ。
霊廟を守るのに欠かせない戦力を持つのは青娥自身と芳香しかいないというのに、その芳香が一時的とは言え事実上無抵抗で陥落したのだ。
もしまた芳香がバグを起こすことがあれば、もしその混乱を寺側に突かれたら、間違いなく大霊廟は陥落する。
千四百年もの間守り続けた眠れる聖人は、二度と目を覚ます事の無い黄泉の眠りについてしまう。
そんなことが、この千四百年の努力が水泡に帰されるなどという惨劇が、許されて良いはずがない。
(こいつが、こいつさえいなければ、事はもっと巧く運んでいたというのに……!)
表情こそ微笑んではいたが、青娥は実に腸の煮えくりかえる思いであった。
「あの、大丈夫ですか? 顔色があまり良くないですよ?」
そんな青娥の内なる激怒に気づくこともなく、響子は冷や汗を浮かべる青娥のことを気遣った。
「あ、ええ、大丈夫よ。ちょっと夏風邪をひいていてね。今朝も風邪薬を飲んできたからじきに良くなるわ」
「もしよければ、そこのお寺で休んでいきますか?」
言うまでもなく、その言葉を言った響子には悪意など欠片もなかった。
ただ単に、青娥の体調が悪そうに見えたからそう言っただけの、言わば善意に基づいた提案であった。
しかしこれが青娥の怒りを鎮めるどころか、火に油を注ぐ結果となったのは想像に難くないだろう。
(冗談じゃない……ッ、いや待て、いっそのことここで始末するか)
始末、即ち抹殺である。
二度と幽谷 響子という妖怪がこの世を闊歩することは無くなるであろう、強硬手段である。
見た所、今この墓地には自分と響子以外誰もいなそうである。凶行に及ぶなら今がチャンスだ。
それでも目撃者の存在を念入りに危惧するならば、とりあえず響子を霊廟に拉致した上で抹殺すれば良い。
どの道、そうした外部要因さえ考慮しなければ、響子を抹殺すること自体は酷く簡単であろうと青娥は読んでいた。
どう見ても非力な妖怪である上に、この墓場が山から離れている以上、同族の仲間が助けに来ることもない。
唯一の難点は寺側に助けを呼ばれることだが、呼ばれる前にとどめを刺せばどうということはなかろう。
いずれにしても、抹殺は簡単だ。
(……いや、駄目よ。あまりに簡単すぎるわ)
だが犯行が簡単すぎるという事実は時に枷となる。
たとえば金庫の中の財宝が盗まれたとして、容疑者の中に金庫破りの前科者がいれば、まずその者が疑われる。
誰かが殺害されたとして、容疑者の中に1人だけアリバイのない者がいれば、まずその者が疑われる。
得てして、犯行時に最初に疑われるのは"その犯罪を最も容易に成し遂げられたであろう者"なのだ。
その点からいれば、今この墓場で最も響子を手にかけることが容易なのは、恐らく大霊廟の住人である。
いくら痕跡なく響子を消し去っても、彼女が帰らないことに寺側は疑いをかけるはずだ。
そしてその疑いは、恐らく真っ先に大霊廟に向けられる。
これまで睨みあいで止まっていた戦いの火ぶたが切られれば、戦力不足の霊廟側が負けるのは必至。
当然、聖人の復活という野望はついえるだろう。
それでは何のために響子を消したのか分からない。
無意味どころか逆効果につながりかねないとあれば、『"今は我慢"こそ最善の選択肢』という、寺の建設時と同じ結末に帰着せざるを得ないのだ。
「いえ、大丈夫。帰ったら休むことにするから問題ないわ」
「そうですか、なら良いんですが」
「残念ね。山彦のお嬢さんともっとお話したかったけれど、もう行くとするわ。また会ったら、今度はゆっくりお話しましょうね」
「はい、いつでも来てくださいね」
「それじゃあね、山彦のお嬢さん。とても楽しい時間をありがとう、次に会える日が楽しみだわ」
そう言うと、青娥は響子に背をむけ、その場を立ち去った。
(3度目の会える日は来ないでしょうけどね)
と、内心で独り言を呟きながら。
ところが、2人以外だれもいないと思われた墓場であったが、実際は響子と青娥が会話をしていた場所から墓石2つほど離れた草葉の陰に"彼女"はいた。
青娥は、響子とのやり取りに集中していたためか、とうとう最後まで、最初に彼女が響子に対してそういたように、墓石の影から一連のやり取りを見ていた人物がいた事には気づけなかった。
「……なるほどね」
"彼女"は一連の動向を見届けると、そう言いながら墓場を去っていった。
※ ※ ※ ※ ※
大霊廟に帰った青娥は、ようやく一息ついた。
平静を保ち続けるという重労働のせいで、疲労感が背中からのしかかってくるような感覚に囚われていた。
それでも念のため、今度は芳香を墓場から霊廟内部の警護に当てるように言うのは今やっておくことにした。
最悪の事態を想定し、もう芳香と響子が顔を合わせる可能性をゼロにしたかったのだ。
「今帰ったわよ、芳香」
そう芳香を呼ぶと、芳香はすぐにやってきた。
折れた右腕は直ったようで、威勢良くピンと両腕を伸ばしていたが、その右手にはなんと、また歯ブラシが握られていた。
「青娥娘々、腕を治すのに霊を食べたら、また歯に詰まって取れんのだ。取ってくれ」
その無垢な笑顔に、青娥は酷い頭痛を覚えて、思わず頭を抱えた。
「ああ、私も貴方みたいに、何も考えずに楽しく生きられたらどんなに素晴らしいことか」
「お? よく分からんが、私は生きてないぞ、死んでるぞ? それとも青娥娘々も仲間となるかー?」
「……ごめんなさい、今のは聞かなかったことにしてくれるかしら」
「りょーかーい」
青娥は芳香の能天気な態度を見てため息をつくと、芳香の手から歯ブラシを取り、出かける前と同じように歯磨きを始めたのであった。
※誰だよおまえぇ
はい、どうも。作者の兎です。
なんとかどうにか週1ペース投稿を確立しつつあります。
ようやく神霊廟ストーリーに突入しましたが、今回はにゃんにゃん度全開でお送りしました。
なんか冷戦オーラをかなり強めた配色となりましたね。
この前は最後にちょっぴり出て話の全てを持っていった邪仙様が、今回はメインを張りました。
邪仙様怖いです。彼女がいるだけで地の文が膨れ上がります。邪仙様怖いです。
それにしても、響子がいるシーンで響子以外の誰かにフォーカスを当てながら話を書いたのはたぶん初めてだと思います。
改めて気づきましたが、素直な子って良いですね、作者に優しいですよ、本当に。
ところで。
十五話、十六話、十七話、十八話と一輪さんと船長さんを書いてません。
そろそろ中毒症状が出始めました。次こそ出てもらいます。
絶対。