こだまでしょうか
2011年3月11日、日本は一変してしまいました。
東北で起きた大震災で、亡くなられた方とそのご遺族の方々に心からお悔やみ申し上げますとともに、被害に遭われた方々にはお見舞い申し上げます。
誠実にただ懸命に生きておられた方々の生活を、一瞬で津波が奪って行ったというニュースを聞くと、神さまなんて本当はいないのかもしれないと思ったり、でも一方で地震から何日も経って奇跡的に助かったというニュースを聞くと、やっぱりいるのかもとも思ったり。これから神さまの描く日本のシナリオはどうなっていくのでしょうか。一日も早い復興を、ただ祈るばかりです。
その震災の報道で、テレビの放送も大きく変わりました。中でも変わったのがCMです。地震が起きてからしばらくの間、民間の企業のCMが流れなくなり、代わってACジャパンのCMが流れるようになりました。
そのCMの中で、金子みすゞの「こだまでしょうか」という詩が話題になっているらしいよという話を旦那としていました。 私が、「あの『こだまでしょうか いいえ、誰でも』っていうあの一文に、深い感動があるよね」と言うと、旦那に「え、俺わからんから説明してよ」と言われました。
詩というのはそれぞれが読んで感じるものだと思うし、これが正解!ということはないと思うので、以下は私なりの感想です。
あの詩の中で、やっぱり一番最後の「こだまでしょうか いいえ、誰でも」という一文が深い感動を呼ぶものだと思います。
それまでの「遊ぼうっていうと 遊ぼうっていう」から始まる、自分の言葉をそのまま返す、まるで“こだま”のような文。
それを「こだまかな?」と思ったら、「いいえ、誰でも(そうだよ)」という最後の文につながっていく。
対人関係は鏡だと言います。自分が笑顔で接すれば、相手も笑顔になる。
それは大人でも子どもでも変わらない。誰でもそうだよ。
とみすゞの詩は平易な言葉で教えてくれます。
さらにここで、金子みすゞの生涯を合わせて考えてみると。
みすゞは1903年(明治36年)生まれ。
女性が活躍することは珍しかった時代に、詩の才能を称賛された女性詩人の一人です。
けれど私生活では23歳で結婚して娘が生まれたものの、夫は放蕩を繰り返し、みすゞに詩の投稿や詩人仲間との交流を禁じたり、淋病に感染させたりしたため離婚。
その後娘の親権を夫から奪われそうになり、自分の母に娘を育ててほしいという遺書を残して26歳で服毒自殺します(Wikipediaより)。
そんな恵まれなかったみすゞの生涯を思ってこの詩を読むと、この最後の一文がより深く響いて、じーんとしてしまいます。
みすゞは一体どんな思いでこの詩を書いたんだろう。
自分が優しく接すれば、本当は相手もきっと優しくなってくれるはずなのに、夫はどうだろう。
夫には通じなかった自分の思い。
こだまのような人間関係を誰よりも望んでいたのは、実はみすゞ本人ではなかったか。
そう考えると、最後の一文にみすゞのささやかな願いが込められているような気がして、泣けてきます。
CMの朗読はUAさんだそうですが、淡々と、でも詩の意味をよくわかって読まれているなあと感心します。
私だったら、最後で泣いてたぶん読めないだろうな、と。
そんな説明を旦那にしたら。
「ふうん、『誰でも』って、『誰でもそうだよ』って意味だったんだ。俺は『誰でもないよ』ってことかと思った」と言ってましたが 。
まあ、感想は人それぞれとは思うけど… たぶん国語のテストとかだったら、私の解釈がいわゆる「正解」ということになるんだろうなという気がします。
みなさんはこの詩をどんなふうに読んでいるのでしょうか。