私の死体
この作品は人の死をテーマにした作品です。
グロ表現は出てきませんが重い話なので読む方は自己責任でよろしくお願いします。
君はカレー麺のカレーの粉をこぼしてしまって、そのまま湯を注いで食べたことはあるか。
いつもと違って水っぽさが増して薄味のカレー麺になっているのだが、なぜかこれが悪くないのである。
もちろん、本来の味ではない。
けれど、人間というものは案外、何かが欠けていても、その欠けたものごと受け入れてしまう生き物なのかもしれない。
私はいつも小説を書いていた。
と言っても、世間が想像するような華やかな生活ではない。締切に追われ、机の上には飲みかけのコーヒーが並び、原稿用紙よりもレシートのほうが増えていく。
「今日もカレー麺?」
台所から彼女が顔を出す。
「安かったから。」
「昨日もそれ。」
「昨日も安かった。」
彼女は呆れたように笑う。
「売れたら毎日ステーキね。」
「売れたら毎日カレー麺でもいい。」
「夢がない。」
そう言って彼女は笑った。
私はその笑い声が好きだった。
文章が一文字も書けない日でも、その声だけで何とか今日を終えられる気がした。
春が終わるころ、ようやく一本の短編を書き上げた。
彼女は読み終えると、「あなたらしいね」とだけ言った。
「褒めてる?」
「もちろん。」
「どこが?」
「説明しないところ。」
彼女は私の作品を説明しようとはしなかった。
分からないものを分からないまま好きでいてくれる人だった。
その日の帰り道だった。
信号は青だった。
ブレーキの音がして、誰かが叫んで、それから私は世界から少し離れた。
痛みは、思ったより短かった。
次に見えたのは病院だった。
正確には、病院に運ばれた私だった。
白い布が胸まで掛けられ、私は静かに横たわっていた。
私は立っている。
私は寝ている。
その矛盾だけが妙にはっきりしていた。
医者が何かを説明している。
彼女は何度も首を振っていた。
「違います。」
そう聞こえた。
「違います。」
何が違うのだろう。
そこにいるのは、間違いなく私なのに。
霊安室は静かだった。
時計だけが律儀に時間を進めていた。
彼女は椅子に座り、何も言わずに私を見つめている。
泣き疲れた目だった。
どれくらい経っただろう。
彼女は立ち上がり、私の頬に触れた。
「冷たい。」
小さく呟く。
そして、唇を重ねた。
昨日まで何度も交わしたキスだった。
なのに、何一つ返ってこない。
照れ笑いも。
息づかいも。
少しだけ震える唇も。
何も。
身体はここにある。
顔も、髪も、手も、私のままだ。
それでも私は、もうどこにもいない。
彼女は唇を離すと、声を殺して泣いた。
「もう、あなたじゃない……。」
その言葉だけが、私にも痛かった。
そのときだった。
彼女は涙を拭いながら、小さく笑った。
「そういえば。」
私は顔を上げる。
「粉をこぼしたカレー麺、美味しいって言ってたよね。」
私は何も答えられない。
「あれ、不思議だった。」
彼女は私の手を握る。
「ちゃんとカレー麺なのに、何か一番大事なものだけなくなってて。」
涙がまた落ちる。
「それでも食べられるんだよね。」
私は叫びたかった。
違う。
私はここにいる。
聞こえないだけだ。
触れられないだけだ。
生きている頃と何も変わっていない。
そう言いたかった。
けれど、何一つ届かなかった。
彼女は私の胸に額を預ける。
「あなたもそうなんだね。」
長い沈黙が流れた。
「身体はあるのに。」
私はそこにいた。
けれど、彼女の言うとおりだった。
身体だけが残っていた。
一番大切なものだけが、どこかへこぼれてしまっていた。
私はようやく理解した。
人は死ぬと消えるのではない。
残されるのだ。
形だけが。
昨日までと同じ顔をして。
昨日までと同じ手をして。
昨日までと同じ唇をして。
ただ、その中身だけを失って。
君はカレー麺のカレーの粉をこぼしてしまって、そのまま湯を注いで食べたことはあるか。
いつもと違って水っぽさが増して薄味のカレー麺になっているのだが、なぜかこれが悪くないのである。
けれど。
本当に失ってから知る。
一番大事なものは、いつも粉みたいに目立たなくて、なくなって初めて、その味を思い知るのだ。




