運命の番が記憶を失くし、私は婚約破棄を申し込まれる
「お前みたいな気の強そうな女は嫌いだ! 俺とは婚約破棄しろ! 俺はお前といると気持ちが悪くなる!」
真っ白なシーツに身を包み、頭に痛々しい包帯を巻いたガレン・ハーヴィス侯爵は、見舞いに訪れた私を睨みつけてそう叫んだ。
彫りの深い顔立ち、鋭い目元、引き結んだ唇。私の愛する婚約者の顔そのものだ。
しかし、その瞳に宿る光は、私が知っている包容力のある穏やかなものではなく、まるで警戒心もあらわな野良猫のように尖っていた。
無理もない。彼は今、私に関するすべての記憶を失っているのだから。
だが、私――クローディア・エヴァンスとて、誇りある伯爵令嬢だ。これくらいで泣いて引き下がるほど、柔な精神は持ち合わせていない。
「お断りします」
私がにこりと微笑んで即答すると、ガレンは間の抜けた声を出した。
「……え?」
「私と結婚しやがれと言ったんです。ガレン様この野郎」
「なっ…………なんだそれはっっ!? 俺はお前が嫌いだと言ったんだぞ! というか、貴様、俺に向かってこの野郎といったか……?」
子供みたいに目を白黒させるガレンが面白くて私はクスクスと笑い、
「ええ、聞こえておりました。ですが、あなたは現在、不慮の事故により記憶を失っておいでです。ご自身の状況も正確に把握できていない状態での発言を、正式な婚約破棄の申し出として受理するわけにはまいりません」
ぐぬぬと唸ってガレンが私に指を突きつける。
「理屈をこねるな! だいたい、俺がお前みたいな年上の女と婚約などするはずがないだろう!」
年上の女。
その響きに、私は内心で小さくため息をついた。
(あなたは私よりも八歳も年上ですよ……)
事の起こりは、昨日の朝に遡る――。
◆
半年前、教会の神殿で『あなたの運命の番は、北の侯爵家に在り』という神託を受けた私は、八つ年上のガレン・ハーヴィス侯爵と婚約関係を結ぶことになった。
二十五歳の彼は、北方の領地を治める厳格で寡黙な人物として知られていた。社交界の令嬢たちは彼の鋭い眼光を恐れて遠巻きにしていたが、私は違った。
不器用な言葉の端々に滲む誠実さ。私を気遣ってくれるときの、耳の先をわずかに赤くする照れ屋な一面。婚約の儀を終えたばかりの昨日の昼も、馬車に乗る際に「足元が悪い」と、本当は平坦な石畳なのにそっと手を差し伸べてくれた。
この人こそが私の運命の人なのだと、深く実感した。
そして、彼が住む辺境へと移り住み、半年ほど共に過ごした後のことだ。
先日、彼を乗せた馬車が落石事故に巻き込まれた。
一命は取り留めたものの、頭を打ったガレンは過去十年分の記憶をすっぽりと失ってしまったのだ。
現在の彼の肉体は二十五歳。だが、精神年齢は十年前の十五歳。
対して私は十七歳である。
記憶の中の自分が十五歳である彼にとって、私は『見知らぬ二つ年上の気の強そうな女』でしかない。彼が戸惑い、警戒し、婚約破棄を叩きつけてくるのも、ある意味では自然な防衛反応と言えた。
けれど、だからといって「はいそうですか」と諦める私ではない。
「……それに」
私はベッドの脇に立ち、彼をまっすぐに見つめ返した。
「もう一度、私のことを好きになっていただけるよう努めます。婚約解消を考えるのは、それがダメだったときに考えましょう」
記憶がないだけで、彼の中に眠る本質が消えてしまったわけではない。あの不器用で優しい彼を取り戻す、あるいはもう一度惚れ直させる。それが私の出した結論だった。
私の迷いのない宣言に、ガレンはしばらく呆然としたように口を半開きにしていたが、やがて盛大に顔をしかめた。
「俺は……俺は、お前みたいな気の強い女、大っ嫌いだ!」
「はい。ありがとうございます」
「褒めてない!」
「そうですか。ですが、ガレン様にどう思われようと、私の心は決まっておりますので」
優雅にカーテシーを決めてみせると、ガレンは言葉を失い、不満げに口を噤んでぷいと視線を窓へ向けてしまった。
横顔は怒っているように見えるが、シーツを握りしめる手にはどこか戸惑いが滲んでいる。
(やっぱり、根っこの部分は変わっていないわ。不器用で優しいから、意地悪になりきれない)
私は彼を刺激しないよう、その日は静かに病室を後にした。
◆
数日後、屋敷での療養を許されたガレンのもとへ、私は毎日通い詰めた。
もちろん、歓迎されるはずもない。
ガレンは私を見るなり露骨に顔をしかめ、執務室に入れば「うろうろするな」と追い出そうとし、一緒に庭を散歩していれば「邪魔だ」と舌打ちし、食堂で顔を合わせれば「また来たのか」と心底嫌そうな声を出した。
「侯爵様、クローディアお嬢様になんて口の利き方を……!」
「お嬢様、申し訳ございません。旦那様はまだあのように混乱しておいでで……」
侍女のマーガはハラハラと涙ぐみ、執事は胃を痛めたように頭を下げる。
しかし、当の私はといえば、涼しい顔でそのすべてをやり過ごしていた。
「気になさらないで。これもリハビリの一環よ。ガレン様、本日はお天気がよろしいので、中庭でお茶にいたしましょう」
「誰がお前なんかと茶を飲むか!」
「まあ、残念です。今日はガレン様がお好きな、アーモンドと蜂蜜の焼き菓子をご用意しましたのに」
私がカゴから香ばしい匂いのする焼き菓子を取り出すと、背を向けていたガレンの肩がピクリと揺れた。
(ふふ。記憶がなくなっても、味覚の好みは変わっていないはず)
素朴だが噛むほどに風味が深くなるその菓子は、彼の大好物だ。
「……俺は甘いものは苦手だ」
「あら……それは残念ですわ。……マーガ、申し訳ないけれど、ガレン様は召し上がらないそうだから、私だけでいただくことにするわね。少し多すぎるから、後であなたたちも――」
「ま、待て」
ガレンが低い声で私を止めた。
振り返ると、彼はなんとも言えない渋い顔をして、こちらを睨んでいた。
「毒が入っているかもしれない。俺が毒見をしてやる」
「あら、頼もしい。ではお願いしますわ」
ガレンの言い訳は、随分と素直で分かりやすい。
十五歳の頃のガレンは、今とは比べ物にならないくらい子供っぽかったらしい。
とても意外な事だけど、なんだかそんな彼がむしろ愛おしくなってしまった。
それから私は笑いを噛み殺して、彼に焼き菓子と紅茶を勧めた。
ガレンは「仕方なくだからな」と言わんばかりの態度で菓子を口に運び――ふと、その動きを止めた。目が見開かれ、咀嚼する速度がゆっくりになる。
「……どうなさいました?」
「…………いや。なんでもない」
毒見とは思えないほど軽やかな手つきでもう一枚に手を伸ばし、パクリ。
それきり無言になり、彼は出された焼き菓子をあっという間に平らげてしまった。最後の一つを食べ終えたときなど、やたら深刻そうな顔で皿を見つめているのが可愛すぎて我慢できなくなった。
「アハハハハハ!」
はしたなく大笑いする私を見て、ガレンは「お前なんか嫌いだ!」と言って去っていった。
◆
また別の日。
彼が廊下の窓から見える訓練場で剣術の稽古をしていると聞きつけ、私はこっそりと見学に赴いた。記憶がないとはいえ、体に染み付いた剣の腕は健在らしい。騎士たちを相手に、彼は見事な立ち回りを披露していた。
稽古が終わり、汗を拭いながら歩いてきたガレンと鉢合わせる。
「……なぜお前がここにいる」
「素晴らしい剣捌きに見惚れておりました。特にあの、相手の攻撃を躱してからの足捌き。それは珍しい型ですね。どこで学ばれたのですか?」
私が自然なトーンで尋ねると、ガレンは「げっ」という顔をした後、むすっとした表情を作った。
「……王都の騎士団で教わった型を、俺流にアレンジしたものだ。素人のお前に言っても分からんだろうが」
「独自のアレンジですか! すごいですわ。どうりで、他の方々とは一線を画す無駄のない動きだと思いました」
「っ、別に、大したことじゃない。当たり前のことをやっているだけだ」
ガレンはそっぽを向いて足早に立ち去ってしまったが、その耳の先は、以前見たときと同じように真っ赤に染まっていた。
記憶を失くして、ツンケンと尖った態度をとってはいるが、素直に褒められると居心地が悪くなってしまうのは昔と同じだ。
(可愛いところがあるじゃないの。これなら、落とすのは時間の問題ね)
私は小さくガッツポーズをした。
彼がどれほど「嫌いだ」「婚約破棄だ」と喚こうが、私は絶対に諦めない。
神様がくれた運命の番。最高の旦那様を、私は必ず取り戻してみせる。
私の反撃——いえ、愛の猛アプローチは、まだ始まったばかりだ。
◆
侯爵邸に通い詰めるようになってから、半月が過ぎた。
相変わらず彼は私を邪険に扱い、「気持ち悪い」「邪魔だ」と悪態をついている。しかし、その言葉に反して、私の用意した焼き菓子はいつの間にか皿から消え、私が視界に入ると無意識にそちらを目で追ってしまう彼を、私は見逃していなかった。
ある雨上がりの朝のことだった。私は中庭の奥にある東屋に出向き、水滴の残る庭園を眺めていた。洗われたような青空が、庇の向こうに広がっている。
すると、背後からサクサクと芝を踏む足音が近づいてきた。
振り向かずにいると、私のすぐ隣にどかりと誰かが腰を下ろす気配がした。ガレン様だ。
「……なぜここにいる」
「雨上がりの空気が好きなので、少し涼みに。ガレン様こそ、いかがなさいました?」
「俺も散歩だ。偶然だな」
(偶然ではないわ。あなたが雨上がりのこの場所を一番好んでいることくらい、私はとっくに知っているもの。でも、それは言わないでおく)
ガレン様は気まずそうに視線を逸らし、しばらく黙って空を眺めていた。水滴を残した葉が、朝の光を受けてきらきらと揺れている。
無言のまま、穏やかな時間が流れた。以前の彼となら、こうして何時間でも一緒にいられた心地よい沈黙だった。
「……なぜお前といると落ち着くんだ」
ふいに、彼がぽつりとこぼした。
「なんだか胸がザワザワして……気持ち悪い」
「またそれですか。他にしっくりくる表現はないのですか?」
「他に言いようがない。俺は記憶を失くしていて、お前のことなんて何一つ知らないはずなのに……気づけば目で追っている。お前が淹れた茶は美味いし、隣に座っていても嫌じゃない。……自分でもどうかしそうになる」
ガレン様は本当に居心地が悪そうに頭を掻いた。しかし、立ち上がってこの場を去ろうとはしない。むしろ少し背もたれに体を預けて、リラックスした様子で空を見上げていた。
そのひどく自然な仕草を見た瞬間、私の胸の奥に小さな違和感が芽生えた。
――あれ? たしかに、彼は今の精神年齢が十五歳に退行しているはずだ。
だが、今の落ち着き払った声のトーン、少し目を細めて空を見る横顔。それは、私がよく知っている『二十五歳のガレン・ハーヴィス』そのものではないだろうか。
そこへ、東屋の屋根からポツリと大きなしずくが滴り落ちてきた。
ガレン様はとっさに手を伸ばし、私の肩を引き寄せると、自らの体を盾にして水滴から私を庇った。
「あっ……」
「悪い、濡れなかったか? 雨上がりは屋根からの水滴に気をつけろと、あれほど……」
ハッとして、ガレン様は言葉を切った。 慌てて私から手を離し、耳の先まで真っ赤にしてそっぽを向く。
「……っ、すまん。つい、体が勝手に動いた」
私は、まばたきを繰り返した。
今、彼は『あれほど』と言いかけた。私にそんな注意をしたのは、記憶を失う前、婚約期間中に一度だけあったことだ。
それに、雨上がりにふと空を見上げるあの表情。記憶がない人には、できない顔だった。
(……ああ。なるほど、そういうことですか)
点と点が繋がり、私の中で一つの確信が生まれた。 私は笑みを深くし、彼の顔を覗き込んだ。
「ありがとうございます、ガレン様。やはりあなたは、とてもお優しいのですね」
「なっ、からかうな! 俺は部屋に戻る!」
逃げるように立ち去る彼の大きな背中を見送りながら、私は確信を深めていた。
彼は、記憶を取り戻している。
ではなぜ、未だに記憶喪失のふりをして、私を遠ざけようとするのか。
(本当に不器用な人。……でも、あなたがそのつもりなら、私も最後までお芝居に付き合って差し上げますわ)
◆ ガレン・ハーヴィス視点
「……っ、くそ。なぜあいつは逃げないんだ」
深夜。執務室で一人になった俺は、頭を抱えて低く唸った。部屋の燭台が静かに揺れ、窓の外では風が木々を鳴らしている。
白状しよう。俺の記憶は、事故から三日後には完全に戻っていた。
あの日、目を覚ました瞬間に十年分の記憶が一気に押し寄せてきた。領地の経営、部下たちとの約束、そして――『運命の番』という神託を受け、晴れて婚約者となったクローディアのこと。
記憶が戻ったと分かったとき、俺は安堵するよりも先に、ある強い思いに囚われた。
『年が離れすぎている』と。
俺は二十五歳。対する彼女は、まだ十七歳だ。花のように美しく、賢く、未来に満ち溢れている。本来なら、同世代の明るく快活な貴族と恋に落ち、幸せな家庭を築くべき女性だ。
そこに、八つも年上のむさ苦しい男が、『神託だから』『運命だから』と乗り込んで、彼女の人生を縛り付けてしまっていいのだろうか。
俺と結婚すれば、北方の厳しい領地で一生を過ごすことになる。そんな未来を、うら若き彼女に強いるのは間違っている。
そう結論づけた俺は、咄嗟に『記憶喪失が続いている』という芝居を打つことにした。
俺が彼女を冷たく突き放せば、あの賢く誇り高いクローディアのことだ。愛想を尽かして、向こうから「婚約破棄してやる」と言い出すに違いない。そうすれば、彼女に傷をつけることなく、自由な未来へ送り出してやれる。
そう思って、「気の強い女は嫌いだ」とわざと嫌われるような暴言を吐いた。
それなのに。 あいつは涼しい顔で「お断りします」と宣言し、俺を惚れ直させると言い放ったのだ。
毎日顔を出して、飄々と笑って。俺がどれだけ邪険にしても、涼しい顔で俺の好物の焼き菓子を用意し、剣術の足捌きを褒め、東屋でひとり空を眺めている。
(東屋で並んで座った今日の朝なんて……俺は危うく、全部白状して抱きしめてしまいそうになった)
記憶を失ったふりをしている間、俺の目は常に彼女を追っていた。怒った顔も、笑いこらえる顔も、すべてが愛おしい。
彼女の隣が、どうしようもなく居心地がいい。体が、心が、彼女の存在を強烈に求めている。
「……これ以上一緒にいたら、俺の決心が鈍る」
彼女を手放したくないという、俺の醜いエゴが暴れ出してしまう。
俺は机に突っ伏し、強く目を閉じた。
もう少しだけ、と思っていた。 もう少しだけ、彼女の隣にいたい。このままでいい。
そうやって彼女の優しさに甘え続けている自分が、心底情けなかった。
早く、彼女を突き放さなければ。彼女の輝かしい未来のために。
俺はギュッと拳を握り締め、自分に言い聞かせるように暗い執務室の中で息を吐き出した。
◆
私が侯爵邸の書庫で、古い帳簿の整理を手伝っていた時のことだった。
バンッ!と勢いよく扉が開き、侍女のマーガが青ざめた顔で駆け込んできた。
「お嬢様……大変です! 重臣のドールトン卿たちが、旦那様を……!」
「落ち着きなさい、マーガ。何があったの?」
私は手元の帳簿をパタンと閉じ、冷静にマーガを促した。
実はここ数日、ガレン様の記憶喪失を良いことに、一部の重臣たちが不穏な動きを見せているという噂を耳にしていた。「記憶のない当主に領地は任せられない。クローディア様を追い出し、自分たちに都合の良い別の令嬢を宛がって、侯爵家を乗っ取ろう」という魂胆らしい。
「ドールトン卿が、旦那様を『領内の視察』と称して危険な魔の森へ連れ出そうとしているのです! 護衛もろくにつけずに……っ、もしや、事故に見せかけて旦那様を……!」
「なんですって?」
私はすっと立ち上がった。
(馬鹿な真似を。ガレン様が記憶を失っている、あるいは『失っているふりをしている』状況に付け込んで、彼を排除しようというのね)
ドールトン卿の企みは明白だ。記憶喪失で本来の勘を取り戻していないガレン様なら、森での『不慮の事故』に見せかけて始末できると考えたのだろう。
本来のガレン様であれば、あのような小悪党の浅知恵などすぐに見抜き、一刀両断にしているはずだ。だが、今は私を遠ざけるための『十五歳の記憶しかない侯爵』という不自由な芝居の最中。不用意に立ち回れば、彼自身の身に危険が及ぶ。
「マーガ。すぐに騎士団長を呼びなさい。私の名で、即座にガレン様の後を追うようにと伝えて」
「は、はいっ!」
私はドレスの裾を翻し、足早に書庫を後にした。
胸の奥で、冷たい怒りが静かに燃え上がるのを感じる。
私の大切なガレン様に手を出そうとするなど、万死に値する。彼に怪我一つでも負わせてみろ、ただでは済まさない。
玄関ホールに急ぐと、まさにガレン様が数名の怪しげな側近たちに囲まれ、馬に跨ろうとしているところだった。
彼の横顔は険しく、明らかに警戒している様子だったが、ドールトン卿たちの言葉巧みな誘導に、あえて乗ろうとしているように見えた。
(駄目よ、ガレン様。あなたがいくら剣が立とうと、相手は最初から罠を張っているのだから)
私は彼らの前に立ちはだかった。
「お待ちください、ガレン様」
「クローディア? 何をしている、どけ。俺はこれから視察だ」
ガレン様はあからさまに嫌そうな顔を作り、私を追い払おうとする。
だが、そんな芝居はもう通用しない。
「視察でしたら、私も同行いたします」
「はあ!? 馬鹿なことを言うな。女の足手まといを連れて行けるか!」
「婚約者として、領地の現状を把握するのは当然の務めです。それに……」
私はガレン様に一歩近づき、誰にも聞こえないような小声で囁いた。
「ドールトン卿が仕掛けた罠に、わざと飛び込むおつもりですか?」
「……っ!」
ガレン様の目が大きく見開かれ、息を呑む気配がした。
図星だった。彼はドールトン卿の企みに気づきながら、あえてそれに乗り、相手の尻尾を掴もうとしていたのだ。自分一人で、すべての泥を被って。
(本当に、どこまでも一人で抱え込もうとする人)
私は小さくため息をつき、彼を真っ直ぐに見上げた。
「ガレン様。あなたは私が嫌いなのかもしれませんが、私はあなたの婚約者です。危険な真似を黙って見過ごすことはできません」
「お前には……関係ないだろう」
ガレン様は視線を逸らし、苦しげに絞り出した。
「お前が俺を好きになる必要はないんだ。……だから、すっこんでいろ」
それは、彼の精一杯の突き放す言葉だったのだろう。
記憶喪失のふりをしてまで私を遠ざけようとし、危険な陰謀すらも一人で解決して、綺麗なまま私を解放しようとしている。
その不器用で真っ直ぐな愛情が、どうしようもなく愛おしくて、腹立たしかった。
「いいえ、関係大ありです」
私はガレン様の腕をきつく掴み、後ろに控えるドールトン卿たちを鋭く睨みつけた。
「ドールトン卿。この視察は直ちに中止とします。ガレン様はまだお加減が優れません」
「なっ……クローディア様、出過ぎた真似を! これは当主様の御決定ですぞ!」
「当主の決定を覆すのが、次期女主人の務めです。不服があるなら、私が相手になりますが?」
私が冷ややかに言い放つと、ドールトン卿は額に汗を浮かべ、ギリッと歯ぎしりをした。
そこへ、マーガの報せを受けた騎士団長が、武装した部下たちを引き連れて駆けつけてきた。重武装の騎士たちに取り囲まれ、ドールトン卿たちの顔からスッと血の気が引くのが分かった。
「ガレン様、騎士団はただ今よりクローディア様のご命令に従い、侯爵様を護衛いたします」
騎士団長が深々と頭を下げた。これで、森での暗殺計画は完全に頓挫した。
ガレン様は私と騎士団長を交互に見つめ、やがて観念したように深くため息をついた。
「……お前は、本当に気の強い女だ」
「ええ、存じております。ですが、その気の強さが今はあなたをお守りできたのではありませんか?」
私がにっこりと微笑みかけると、ガレン様は小さく舌打ちをして、それ以上は何も言わなかった。
耳の先が、また少しだけ赤くなっていた。
(さあ、これで陰謀の火種は消し止めました。あとは、あなたから素直な言葉を引き出すだけですわ、ガレン様)
私は彼の腕をしっかりと掴んだまま、絶対に逃がさないとばかりに微笑みを深めた。
◆
ドールトン卿の陰謀を未然に防いだ数日後。
私はガレン様の執務室に乗り込んだ。
机に向かって難しい顔で書類を処理していた彼は、私を見るなり露骨に顔をしかめた。
「またお前か。……今日は何の用だ」
「ご報告です。ドールトン卿とその一派は、領地の資金を横領していた証拠を突きつけられ、王都の監察官に連行されました。私が書庫の帳簿を調べて証拠を揃えましたので、もう彼らがガレン様の命を狙うことはありません」
私が事もなげに報告すると、ガレン様は手元の羽根ペンをポトリと落とし、呆然と私を見つめた。
「……は? 一人でやったのか?」
「他に誰がいますか。マーガが夜食を運んでくれたおかげで、三日徹夜しただけで済みましたけれど」
「お前、何て無茶を……!」
ガレン様は弾かれたように立ち上がり、私の元へ歩み寄ると、その両肩をガシッと掴んだ。
至近距離で見つめ合う形になる。彼の瞳には、明らかな焦燥と、隠しきれない心配の色が浮かんでいた。
「なぜ、そんな真似をした。お前に散々冷たくしてきた俺に……」
「まだそんなことを仰るのですか」
私は静かに、けれどはっきりと告げた。
「そろそろ、お芝居は終わりにしませんか。ガレン様」
ピタリ、とガレン様の動きが止まった。
「……何のことだ」
「あなたが記憶を取り戻していることなど、とっくに気づいておりましたわ。二週間前の、雨上がりの東屋で」
ガレン様の呼吸が止まったのが分かった。
私は言葉を続ける。
「水滴から私を庇ってくれたとき、あなたは『雨上がりは気をつけろと、あれほど言ったのに』と言いかけましたね。記憶がないはずのあなたが、どうしてそんな注意ができるのですか」
「……っ」
「それに、あなたのその優しい目。不器用で、私のことばかり心配しているその瞳は、私が愛したガレン様のものです」
私が真っ直ぐに見つめると、ガレン様は耐えきれないように視線を逸らし、私から手を離そうとした。
しかし、私はその大きな手を両手でしっかりと握りしめ、逃げ道を塞いだ。
「どうして、嘘をついたのですか。私のことが嫌いになったからではないのでしょう?」
長い、長い沈黙が落ちた。
執務室の窓から差し込む午後の光が、彼の横顔を優しく照らしている。
やがて、彼は観念したように深く、深くため息をつき——ぽつりと言った。
「……年の差だ」
「え?」
「お前は若く、美しい。これから先、どんな輝かしい未来だって選べる。それなのに、八つも年上の俺が『運命だから』と縛り付けるのは、お前の人生を奪うことだと思った」
ガレン様は苦しげに顔を歪め、自嘲するように笑った。
「俺に愛想を尽かして、お前から婚約破棄を叩きつけてくれれば……お前は自由になれる。そう思って、わざと嫌われるような真似をした。なのに、お前はちっとも逃げないから……」
(ああ、やっぱり)
私の予想は当たっていた。
この人は、どこまでも不器用で、どうしようもないほどに優しい人だ。
私の幸せを願うあまり、自分が悪者になってまで私を手放そうとしていたのだ。
「馬鹿な人」
私は気づけば、ふわりと微笑んでいた。
そして、握りしめていた彼の手を引き寄せ、その大きな手のひらに自分の頬をすり寄せた。
「……っ!? ク、クローディア!?」
「ガレン様。あなたが私の未来を心配してくださるのは嬉しいですが、一つだけ勘違いなさっています」
私は彼を真っ直ぐに見上げた。
「私の幸せは、私が決めます。そして私の幸せは、あなたのお隣にしかありません」
「だが、俺はお前よりも八つも年上で、こんな辺境の領主だぞ……!」
「ええ。不器用で、言葉足らずで、素直じゃなくて、すぐ一人で抱え込もうとするダメダメな人です」
「それはちょっと言い過ぎだろ!?」
わかりやすくショックを受けた顔になるガレンが面白いくて、思わず笑ってしまった。
それから、眉間に皺を寄せて私を見る彼へ、私は目を見てしっかりと自分の気持ちを伝えた。
「でも、誠実で、優しくて、雨上がりの空が好きで……私のことを誰よりも大切に思ってくれる。あなたは、私にとって世界で一番素敵な方ですわ」
ガレン様の目が大きく見開かれ、そして、ゆっくりと潤んでいくのが分かった。
「私を自由にしてくださるというお気遣いは無用に願います。私は、あなたという運命に縛られることを望んでいるのですから」
そう言ってにっこり笑うと、ガレン様はしばらく呆然としていたが……やがて、短く「くっ」と苦しそうに息を漏らし手で顔を隠した。けれど、耳まで赤くなったいるのが丸わかりだ。
次いで、低く、腹の底から本当におかしそうに笑い始めた。彼がこんなに声を出して笑うのを、私は初めて見た。
「……っ、ははっ。お前は……」
ひとしきり笑った後、ガレン様は私を強く、けれど壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「お前は、本当に気の強い女だな」
「存じております。そして、あなたはその気の強い女に一生敵わないのです」
「……ああ、降参だ。俺の負けだ。どうやら俺は、記憶を失う前も、失ったふりをしている間も、お前に惚れっぱなしだったらしい」
耳元で囁かれたその言葉に、私の顔が一気に熱くなる。
「記憶がないふりをしていたときから……いや、それ以前から、お前のことが愛しくてたまらなかった。遠ざけようとすればするほど、体が勝手にお前を求めていたよ」
「……っ、そんなこと、今更言われても困ります」
急に素直になった甘い言葉の連続に、私の余裕はどこかへ吹き飛んでしまった。
抱きしめられたまま彼の胸に顔を埋めると、ガレン様は私の背中を優しく撫でながら、そっと私の髪にキスを落とした。
◆ ◆ ◆
翌月。
私たちは、二度目の婚約式を挙げた。
招いたのは身内と数名の証人だけという、ごく小さな式だったが、神殿の中は温かな祝福の空気に満ちていた。
神官の前に並んだ際、ガレン様がこっそり私の方へ手を差し出しているのに気づいた。
視線は祭壇に向けたままだが、その耳の先はやはり少し赤い。
(足元は別に悪くないけれど……これが、この人なりの精一杯の愛情表現なのよね)
私は笑みを噛み殺し、その大きな手をしっかりと握り返した。
ギュッと、彼の手に力がこもる。
教会の鐘が鳴り響いた。
ステンドグラスから差し込む光が、私たちの重なった手を優しく照らしている。
これからはもう、すれ違うことも、記憶を失くして遠ざけられることもない。
「神託というのは、当たるものなのだな」
「どうしたんです、藪から棒に?」
「たしかに俺にとってお前は、運命の人だった、と。ただ、そう思っただけなんだ」
その後、不器用で優しすぎる私の運命の番との日常は、甘く、刺激的なものになった。
(了)




