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魔王軍、最初の業務説明


人間には、どれだけとんでもないことをやらかした翌朝でも、出勤しなければならない瞬間がある。


深夜二時のサーバー室で異界の魔王と契約した三十八歳の社畜にも、等しく朝は来た。


俺は洗面所の鏡の前で、自分の顔を見ていた。


三十八歳、独身、社畜。寝不足の顔色をした、くたびれた男が映っている。目の下には薄く隈があり、髭は剃ったはずなのに、もう夕方みたいな影が浮いていた。どこからどう見ても、昨夜「電脳と異界の狭間を統べる王」と握手した人間の顔ではない。


もっと何かあってもいいだろう、と俺は思った。


目が赤く光るとか、額に紋章が浮かぶとか、そういう分かりやすい異変である。だが現実は厳しい。俺の変化といえば、寝不足のくせに妙に頭が冴えていることと、右の手のひらにかすかな熱が残っていることくらいだった。


その熱は、昨夜から消えていなかった。


じんわりと、しかし確かに、手のひらの奥が温かい。火傷ほど強くはない。低い電流が流れ続けているみたいな感覚だ。


俺は手を握って、開いた。


消えない。


「……夢じゃない、のか」


換気扇がやる気のない音を立てているだけで、返事をする者はいない。


家を出て、駅まで歩き、満員電車に揺られても、昨夜の出来事は薄まらなかった。忘れようとして忘れられる類のものではない。なにしろ、モニターの中から現れた魔王に「お前が要る」と言われ、実際に手を伸ばしてしまったのだ。


右手が熱い。それだけで十分すぎた。


会社に着くと、いつも通りの朝が広がっていた。


コピー機の前で立ち尽くす営業。眠そうな顔でパンをかじる若手。始業前から誰かに仕事を振っている黒崎課長。東京はまだ侵略されていなかった。少なくとも見た目には。


俺が席に着くと、三田村がモニター越しに顔を出した。


「村田さん、おはようございます。昨日、結局泊まりました?」


「いや。朝方帰った」


「マジすか。やば。俺なら死にます」


「死んでないだけで、似たようなもんだよ」


「はは」


三田村は軽く笑って、自分の画面に戻った。こういう軽さは若さの特権である。


モニターを立ち上げる。メール、チャット、障害票。見慣れた地獄が、今日も寸分の隙なく俺を待っていた。昨夜、魔王と契約したからといって、未読メールが消えるわけではない。現実はつねに地続きだ。そこがつらい。


チャットには黒崎課長からのメッセージが増えていた。


> 黒崎

> 復旧ありがとう

> 原因分析、午前中でまとめてもらえる?

> あと朝比奈さんの件、影響出なかったので助かりました


この人は、礼を言うときまで仕事を増やしてくる。


俺は無言でチャットを閉じた。


その瞬間、右の手のひらが熱を持った。


びく、と肩が跳ねる。


モニターの右下が一瞬だけノイズを走らせた。見間違いかと思った次の瞬間、画面の隅に黒いウィンドウが勝手に開いた。


そこに赤い文字が浮かぶ。


`LINK ACTIVE`


「……おい」


低い声が出た。


すると、頭の内側にあの声が響いた。


『朝から冴えぬ顔だな、村田耕助』


俺は反射的にモニターを伏せかけて、意味がないことに気づいて手を止めた。画面は隠せても、頭の中は閉じられない。


『安心しろ。常時姿を見せるつもりはない。今は接続確認だ』


「会社だぞ」


『知っている』


「勤務中だぞ」


『それがどうした』


答えづらい問いだった。たしかに魔王からすれば、人間の勤務時間など知ったことではないだろう。だが俺には知ったことだった。勤務中に頭の中で声がするのは、せいぜい良心の呵責までで十分である。


『契約は成立した。ならば業務説明が必要だ』


「業務説明って言うな」


『貴様にも分かりやすいだろう』


分かりやすいのが腹立たしかった。


俺はさりげなく周囲を見た。誰もこちらを気にしていない。三田村は別の画面を見ているし、黒崎課長は少し離れた席で、いつものように責任を下へ流している。


『昨夜、我は言ったはずだ。東京に門を開く、と』


「聞いた」


『門は一つではない。複数だ。要所に配置し、同期させ、一斉に開く。それにより都市機能は連鎖的に崩れる』


説明の仕方が妙に実務的だった。要所、配置、同期、一斉起動。魔王というより、インフラ案件の打ち合わせである。


『貴様の役目は、その現実側の足場を整えることだ』


「足場」


『通信網。地下構造。ビル管理系統。保守導線。人間どもの都市は脆く複雑だ。ゆえに美しい』


褒めているのか馬鹿にしているのか分からないが、「脆く複雑」は妙にしっくりきた。中を知っている人間ほど、東京がどれだけ綱渡りで動いているか分かってしまう。


『貴様はそれを知っている。どこを押さえれば連鎖が起きるかを、貴様は感覚で理解している』


それは否定しづらかった。


地下の通信経路。商業施設の屋上設備。保守用の裏口。管理会社の死角。誰も気にしないメンテナンススペース。夜間保守と障害対応を十五年もやっていれば、嫌でも都市の裏側が頭に入る。


だが、それは誰にも評価されない知識だった。


ただの裏方の知恵だ。少なくとも、昨日までは。


『第一段階は七つ』


黒いウィンドウの中に、赤い点が七つ浮かんだ。東京の俯瞰図の上で、ゆっくり脈打っている。


俺は反射的に身体を寄せ、画面を少し傾けた。後ろから見えにくい角度にする。会社のデスクで侵略計画を閲覧しているところなど、誰かに見られていいはずがない。


「七つ」


『多すぎるか?』


「少なくはないな……」


『基礎となるノードは、すでに我が側で選定している。貴様は人間側の接続点を用意すればよい』


赤い点の位置を見て、俺は息を呑んだ。


見覚えのある場所ばかりだった。


駅設備の近く。大型商業施設の裏。通信塔の保守導線。ビル管理会社の死角。どれも、仕事で一度は関わったことのある場所だ。


嫌な精度だった。


俺の十五年間が、そのまま侵略の設計図に転用されている。


背筋に冷たいものが走る。だが、それだけではなかった。認めたくないが、胸の奥で別の熱も動いていた。


俺の知識が、こんなふうに必要とされたことは一度もない。


『最初はここだ』


赤い点のひとつが強く光った。都心のオフィス街にある、中規模の複合ビル。その地下に小さな保守用機械室があるのを、俺は知っていた。二年前、通信障害の対応で入ったことがある。管理は緩く、夜間の出入りも保守名目なら通る。


『必要なのは接続だけだ。貴様が触れれば、我が側で定着させる』


「雑だな」


『本質は簡潔だ』


またそれか、と思った。


「待て。俺、普通に会社員なんだが」


『知っている』


「夜しか動けないぞ」


『それでよい』


「不審だろ」


『貴様は夜中にどこへいても不審ではない』


思わず口をつぐんだ。


それは正しかった。悔しいほどに。


障害対応、夜間保守、緊急呼び出し。俺が真夜中に出社しても、この会社の人間は「ああ、また村田さんか」で終わる。疑問すら持たない。


社会的に透明な人間には、こういう使い道があるらしい。


うれしくない発見だった。だが同時に、その透明さが初めて武器になっていることも分かった。


『今夜、最初のノードへ向かえ』


「ずいぶん急だな。もう少し準備とか」


『侵略に稟議は要らん』


「……そこだけは、うちの会社より話が早いな」


『当然だ。効率のよさは王の美徳だ』


魔王が効率を語る時代である。


「ひとつ聞いておきたい」


『何だ』


「門を開いて、それからどうするつもりだ」


ゼルヴェクトは一拍の間を置いた。間を置いたのは、考えたからではなく、語るに値するか品定めしたのだろう。


『門から我が配下を送り込む。最初は少数だ。偵察と定着を兼ねた先遣だ』


「魔物を東京に流すってことか」


『そうだ。門が同期した時点で本隊が動く。通信を断ち、電力を揺らし、交通を止める。人間どもの都市は、インフラが三つ止まれば機能しなくなる。そこに恐怖を流し込めば、支配の土台は整う』


声は淡々としていたが、内容は淡々としているようなものではなかった。


通信、電力、交通。どれも俺が十五年間、裏側から支えてきたものだ。それを同時に止めたらどうなるかは、誰よりも俺が分かっている。携帯が繋がらない。電車が動かない。信号が消える。病院のバックアップ電源がいつまで持つか。冷蔵・冷凍の物流が何時間で崩壊するか。


想像したくなかったが、想像できてしまう。


『決行は日曜正午。人が最も多く、かつ警戒が最も薄い時間だ』


「……正午か」


『その日、七つの門が一斉に開く。貴様はそれまでに、すべての接続点を用意しろ』


俺は黙った。


規模が、思っていたより大きかった。



そこで、不意に柔らかな声が頭上から落ちてきた。


「村田さん、おはようございます」


俺は椅子から飛び上がりかけた。


右手が反射的にモニターを隠し、左手で別ウィンドウを前に出す。我ながら見事な初動対応である。振り向くと、朝比奈ひまりが立っていた。


薄いベージュのカーディガンに、いつもの穏やかな笑顔。手には資料の束。正しい世界の住人だった。少なくとも、魔王よりはずっと。


「……お、おはようございます」


声が少し危なかった。


朝比奈さんは小さく首を傾げた。


「大丈夫ですか? ちょっと顔色悪いです」


『ほう』


頭の中でゼルヴェクトが妙に楽しそうな声を出した。黙れ。


「いや、まあ、いつも通りです」


「それ、いつも悪いってことでは……?」


「……そうとも言います」


朝比奈さんはふっと笑った。


笑うと目元が柔らかくなる。その変化は毎回、心臓に悪い。


「昨日、ありがとうございました」


「え?」


「資料用のデータ、朝にはちゃんと取れてました。たぶん村田さんが見てくださったんですよね」


俺は一瞬、言葉に詰まった。


昨夜の障害対応の途中、たしかに朝比奈さんの案件で使う共有領域の不整合を先に片づけた。理由は業務影響を見た結果である。たぶん。きっと。少なくとも、そういうことにしている。


「……たまたまです」


「村田さんの“たまたま”、前にも聞いた気がします」


『フハハ』


黙れと言っている。


朝比奈さんは資料を抱え直し、少しだけ声を落とした。


「でも、助かりました。ありがとうございます」


その一言が、右手の熱とは別の場所を静かに温めた。


困る。非常に困る。


「いえ。仕事なんで」


「そういうところです」


「え?」


「村田さんって、そういうところありますよね」


そう言って、朝比奈さんは「じゃあ、またあとで」と小さく手を振り、人の流れの中へ戻っていった。


俺はしばらく動けなかった。


そういうところ、とはどういうところだ。


聞けなかった。聞く勇気がなかった。


『あれか』


頭の中でゼルヴェクトが言った。


「何がだよ」


『貴様の温度が上がった原因だ』


「違う」


『人間の雌か』


「いい加減にしてくれ」


『元気ではないか』


こっちは全然楽しくない。


だが、そのやり取りの最中にも、モニターの端には黒い小窓が残っていた。赤い点が七つ、東京の上で脈打っている。


それは消えてくれない現実だった。


昼休みを過ぎ、午後になっても、仕事はいつも通り減らなかった。問い合わせ、設定変更依頼、復旧後の影響確認、黒崎課長からの「これもついでに」。人間社会は、魔王の侵略が始まる直前でも平然と雑務を積んでくる。


しかし妙なことに、今日は頭が異常に回った。


必要な情報が、画面を見た瞬間に整理される。障害の切り分けが早い。設定の整合性も一発で見える。普段なら三十分かかる確認が、十分で終わった。


『リンクの初期補正だ』


ゼルヴェクトが言う。


『貴様の認識精度を少し上げている』


「少しの範囲がおかしいだろ……」


だが、否定の言葉とは裏腹に、内側では別の感覚が広がっていた。


分かる。見える。速い。


ずっと曇っていたフロントガラスが、一枚剥がれたみたいだった。


そして、次に来たのは喜びではなかった。


怒りだった。


もし今の状態が本来の俺に近いのだとしたら、この十五年間は何だったのか。夜間保守と雑務と尻拭いに削られて、俺はずっと曇ったまま働いていたのか。


昨夜、ゼルヴェクトは言った。もったいない、と。


その言葉が、今になってまた重く落ちてきた。


危険だと思った。


ゼルヴェクトの言葉に、自分の中の何かがうなずいている。


『有能な部下は初期教育が楽でよい』


部下という言い方にはひっかかったが、反論は出てこなかった。


夕方、退勤時刻を少し過ぎたころ。


黒崎課長が、いかにも当然という顔で俺の席に来た。


「村田くん、悪いんだけど、昨日の件の補足資料もう一枚お願いできる? 先方に説明しやすいやつ」


できる? と聞いておいて、断る選択肢のない声だった。


俺はいつも通り「はい」と言いかけた。


だが、その自動応答より一瞬早く、頭の中でゼルヴェクトが囁いた。


『断れ』


心臓が一拍、抜けた気がした。


『今夜は我が計画の初動だ。些事で遅れるな』


些事。


黒崎課長の依頼を、魔王はそう言った。


この会社で十五年間、誰もそんなふうに言ってくれなかった。くだらない。後回しでいい。お前の時間はそんなことに使うものではない。たったそれだけの意味の言葉が、妙に強く刺さった。


黒崎課長が怪訝そうに眉を寄せる。


「村田くん?」


俺は口を開いた。喉が渇いていた。


「……今日は、定時後に別件があるんで」


言ってから、自分で驚いた。


断った。


完全にではないにせよ、少なくとも即答では引き受けなかった。


黒崎課長も少し驚いた顔をした。三田村が遠くからちらっとこちらを見る。フロアの空気が一瞬だけ静まった。


「別件?」


「保守確認です。外、出ます」


嘘ではない。たぶん。


黒崎課長は不満そうな顔をしたが、やがて「……じゃあ明日朝イチで」と言った。完全勝利ではない。借りが明日に回っただけだ。


それでも、俺の中では何かが確かに変わっていた。


『見ろ。たった一言で済む』


「うるさい」


だが、否定しきれなかった。


会社を出ると、東京はすでに夜へ傾いていた。


三月の夕暮れは短い。高層ビルの窓に残業の明かりが点々と浮かび、道路には仕事帰りの人間が流れている。誰も、自分たちの頭上で魔王の侵略計画が静かに進んでいるとは思っていない顔だった。


俺も昨日までは、そういう顔の側だった。


右の手のひらが、また熱を持つ。


視界の端に赤い線が走った。


地下へ降りる非常階段の位置。監視カメラの死角。保守用扉の電子錠。全部、やけに鮮明に見えた。


『行くぞ、村田耕助』


ゼルヴェクトの声が深く響く。


『最初の門を開く』


俺は夜風の中で一度だけ立ち止まり、それから歩き出した。


昨夜までは、ただの社畜だった。


今夜からは、それに加えて、魔王軍の現地担当らしい。


ひどい昇進である。


目的地のビルはここから歩いて十五分。保守用入口は裏手の非常階段を降りた先。電子錠の番号は、二年前に一度使ったきりだが、まだ覚えていた。


俺は人の流れに逆らって、夜の東京を歩き始めた。


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