深夜二時のサーバー室に魔王は出る
世の中には、どう考えても人間にやらせるべきではない仕事がある。
例えば、上司が送った全員宛メールの誤字に気づいてしまったが、指摘すると角が立つので黙って自分の中だけで処理する仕事。
例えば、飲み会を白けさせた部長の寒い冗談に、最後の砦として笑い声を足してやる係。
例えば、夜中の二時十五分、全館消灯済みのオフィスビル七階で、一人きりサーバー室にしゃがみ込み、「監視落ちです」「VPN不安定です」「至急確認お願いします」という通知を浴びながら、汗ばんだ手でLANケーブルを差し替え続ける仕事である。
最後のやつは、いま現在、まさに俺がやっている。
俺の名は村田耕助。三十八歳。独身。ブラックIT企業勤務。肩書きはインフラ保守担当だが、実態は「何か壊れたらとりあえず呼ばれる人」である。役職はない。展望もない。夜勤明けのコンビニおにぎりに対する、うっすらとした信頼だけで生きている。鮭が一番うまい。これはもう人生で数少ない確定事項だ。
昼間のオフィスにおける俺の存在感は、壁紙に近い。たまに剥がれると困る、それだけの存在である。若手社員は俺を見ると会釈する者としない者が半々で、上司は俺を見ると仕事を思い出す。つまり俺の顔は、人間の顔というより「要対応」と書かれた付箋に近い。
そして呼ばれたら最後、俺は断れない。
美徳ではない。病である。
頼まれる。断れない。引き受ける。疲弊する。なのに次も断れない。三十八年間ずっとそれを繰り返した結果、俺の中の「断る」という機能はとっくに壊れていた。
本日の障害は、そんな壊れた人間にふさわしい、実に陰鬱な顔をしていた。
夕方から続く通信遅延。深夜になって監視画面が次々と赤く染まり、VPNが不安定になり、なぜかバックアップジョブまで失敗した。原因は複合的、状況は劣悪、関係各所は寝ており、起きているのは俺と、サーバーラックの中で意味もなく点滅しているLEDだけである。
俺はラックの前で膝をつき、低く呟いた。
「死ぬほど面倒だな……」
当然ながら、誰にも届かない。
少なくとも、この会社と、設計書を引き継がずに辞めた前任者と、障害が起きるたびに「根本原因の恒久対策もお願い」と涼しい顔で言い放つ黒崎課長については、静かに滅びればいいと思っていた。だが、俺の呪詛に世界を書き換える力はない。だから黙ってログを追い、設定を戻し、死んだ目で缶コーヒーを飲むしかない。
サーバー室は冷えていた。
機械の排熱を打ち消すため、空調は一年中容赦がない。乾いた風が首筋を撫でるたび、俺は自分が生身の人間なのか、それとも倉庫の片隅に置き忘れられた備品なのか分からなくなる。
スマホが震えた。チャット通知だ。
> 黒崎
> まだですか?
> 朝イチで朝比奈さんの資料提出あるので、業務影響だけは避けてください。
> 原因と対策もまとめておいてください。
見た瞬間、俺は無表情のままスマホを伏せた。
原因と対策。便利な言葉である。それを調べて書くのが大変だから俺が午前二時にここにいるのだが、画面の向こうの人間にとっては、朝までに自動生成される魔法の文書らしい。村田耕助という自動生成エンジンが、夜通し稼働して出力する。エラーは許されない。
だが、その通知の中に、ひとつだけ別の温度を持った名前があった。
朝比奈さん。
その五文字だけが、冷えたサーバー室の空気をほんの少し柔らかくした。
朝比奈ひまり。二十五歳。企画部。いつもちゃんとしている人だ。誰に対しても感じがよく、資料は綺麗で、よく働く。そういう人ほど面倒事を押しつけられるのがこの会社の悪い伝統で、彼女もよく残業の谷底に立っている。
俺は別に、彼女と親しいわけではない。会話らしい会話もほとんどない。「お疲れさまです」「ありがとうございます」くらいのものである。ただ、何度か、どう見ても限界の顔でパソコンに向かっているところを見た。そういうとき、俺はたまたま彼女の案件に絡む不具合を先に潰したり、たまたま作業順を変えたり、たまたま「今日は帰ったほうがいいです」と言ったりした。
その程度だ。
スマホがまた震えた。
> 黒崎
> 見てます?
> 既読つけてください
俺は見ていたが、見ていないことにした。人生には、見ないほうが円滑に進むものがある。黒崎課長のチャットは、その代表格である。
代わりに、コンソール画面を見た。
ルート経路の一部で妙な遅延が出ている。通常の障害なら、機器設定か回線の瞬断を疑う。しかし今夜のログは、どうにも気味が悪かった。
タイムスタンプが飛ぶ。
存在しないノード名が一瞬だけ混ざる。
監視システムが、見たことのない文字列を吐いて消す。
`GATE_SYNC_PENDING`
`NODE 03 AWAKE`
`CALL ACCEPTED`
「……は?」
思わず声が出た。
こんな命名規則は社内にない。不正アクセスかと思ってログを引き直す。さっきまであった文字列がきれいに消えている。別のターミナルを開き、パケットキャプチャを仕掛ける。物理接続も確認する。リンクランプは正常。論理的にも物理的にも、異常はどこにもない。
ないはずなのに、画面の端が砂嵐みたいに揺れた。
液晶モニターがこんな壊れ方をするのは聞いたことがない。
サーバー室の空気が、少しだけ変わった。
温度が下がったのか、気圧が動いたのか分からない。ただ、さっきまで均一だった冷気の中に、異質な何かが混じった。ファン音の奥に、別の低い響きが潜り込んでいる。
ラックのガラス扉に映った自分の顔が、一瞬だけ別の誰かに見えた。
蛍光灯が、ふっと明滅する。
いやだな、と俺は思った。
障害対応で一番嫌なのは、原因不明の現象である。こういうものはたいてい、最後に人間を馬鹿にしたみたいな顔をする。
そのとき、室内の照明がまとめて落ちた。
真っ暗ではない。ラックのLEDだけが闇に浮かんでいる。赤、緑、橙。無数の小さな光点が、暗い海の底で開いた目みたいに見えた。空調だけは元気に動いている。
俺は反射的に立ち上がり、頭をラックの縁にぶつけた。
「っ、い……!」
痛い。非常に痛い。しかし痛みがあるということは、少なくとも俺はまだ正気だ。たぶん。
頭を押さえながら顔を上げた、その瞬間だった。
正面のモニターが、つう、と黒く染まった。
電源は入っている。だが画面表示だけが消え、その代わり、真ん中に細い赤い線が一本だけ走る。
その線が脈打った。
ゆっくり、確実に広がっていく。画面全体に赤い筋が走り、やがてその奥に、空間が生まれた。
そこに、影があった。
人の形をしている。しかし人というには大きすぎる。黒い装束はローブにもスーツにも見え、その境目がノイズで揺らいでいる。画面の解像度に収まりきっていないみたいだった。
顔にあたる部分に、赤い光がふたつ。
目だった。
そいつは、モニターの向こう側から俺を見下ろしていた。
「――ようやく繋がったか」
声がした。
スピーカーから聞こえたのか、頭の内側で鳴ったのか分からない。低く、よく通る声だった。偉そうで、妙に落ち着いていて、そして腹が立つくらい余裕がある。
俺はとりあえず、一番現実的な質問をした。
「……誰だよ」
黒い影は、わずかに笑ったようだった。
「問う順が違う。だがよい。答えてやろう」
画面のノイズが揺れ、サーバー室の温度がさらに一段下がる。ラックのLEDが一斉に明滅した。
「我が名はゼルヴェクト」
そいつは言った。
「電脳と異界の狭間を統べる王。人間どもの世界に、門を開く者だ」
沈黙が落ちた。
深夜二時のサーバー室に、魔王が出た。
障害報告書にそう書いたら、黒崎課長はどんな顔をするだろう。「村田くん、ふざけてるの?」と言われるに決まっている。ふざけたいのはこっちだ。
「……はあ」
と俺は言った。
「それで、その王様が、なんでうちのサーバー室に」
「貴様が呼んだ」
「呼んでない」
「呼んだも同然だ」
ゼルヴェクトは断言した。
「鬱屈、憤怒、諦観、自己の価値を認めぬ世界への失望――貴様の内には、門を開くに足る暗さが満ちていた」
一語一語が、重い石みたいに胸に落ちた。
否定できないのが一番つらい。
「加えて、都市の網を知り、回路を読み、障害の中で最短経路を見つける才覚。見事だ、村田耕助」
フルネームで呼ばれて、背筋が薄く寒くなった。
「やめろよ。気持ち悪いな」
「フハハ。気持ち悪い、か。人間らしい感想だ」
ゼルヴェクトは笑った。
嫌な笑い方ではあったが、不思議と、黒崎課長の作り笑いよりはましだった。
「村田耕助。お前はこの世界で、あまりにも不当に使い潰されている」
その言葉は、防御を全部すり抜けて胸に刺さった。
使い潰されている。
分かっている。ずっと前から分かっていた。だが、それを他人に言われるのは、思っていたよりずっと痛い。
「……別に」
いつもの防御壁が勝手に口から出る。
「別に、ではない」
赤い目がこちらを射抜いた。
「お前の力は、夜毎、他者の尻拭いに費やされるべきものではない。誰にも顧みられず、功績も名もなく、ただ壊れたものを直し続ける――実にもったいない」
もったいない。
その一言に、俺は思いのほか揺れた。
誰かにそんなことを言われた記憶が、俺にはなかったからだ。せいぜい「村田さんしか分からないんで」と、便利な工具扱いをされたくらいである。
道具に「もったいない」と言う人間はいない。
「我に手を貸せ」
モニターの向こうから、黒い手が差し出されたように見えた。実際に何かが突き出てきたわけではない。だが確かに、そこにはこちら側へ向けられた意志があった。
「東京に門を開く。人間どもの世界は脆い。網を断ち、塔を押さえ、都市の要所に門を立てれば、あとは雪崩のように崩れる。そのために、お前の知識と技術が要る」
俺は喉を鳴らした。
「……世界征服の勧誘ってことか」
「そうだ」
「ずいぶん雑だな」
「本質はいつも簡潔だ」
ゼルヴェクトの声は、妙に誠実だった。少なくとも、「やりがいのある職場です」と求人票に書く会社よりは、よほど話が早い。
「協力すれば力を与える。お前を幹部にしてやろう。命じられる側ではなく、支配する側へ立たせてやる」
支配する側。
その言葉は、俺の人生でもっとも縁遠い場所にあった。
俺はいつだって、言われる側だった。呼ばれる側だった。誰かが空けた穴に後から駆けつけ、黙って埋める側だった。
伏せたままのスマホが、また震えた。
> 黒崎
> まだですか?
> 朝までに必ず復旧で。
> あと明日の定例資料、朝比奈さん困るのでお願いします。
俺はその通知を見た。
怒りは湧かなかった。もう、そんな元気はなかった。ただひどく疲れていた。明日も、明後日も、その先も、同じようにここへ来て、同じように壊れたものを直すのだと思うと、骨の奥まで冷えた。
俺がいなくなったところで、世界はたぶん普通に回る。
会社だって、誰かが代わりに夜中のサーバー室へ押し込まれるだけだ。
ずっとそうだった。
――だが。
目の前の魔王だけは、俺に言ったのだ。
貴様以外に誰ができる、と。
たった一言だった。
だがその一言は、三十八年間で誰にも言われたことのない種類の言葉だった。
「……俺でも」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「俺でも、そっち側に行けるのか」
ゼルヴェクトの赤い目が、ゆっくり細まった。
笑ったのだと思う。
「行けるとも」
その声は甘く、深く、逃げ道を塞ぐように響いた。
「お前はそのために繋がったのだ、村田耕助」
俺は一度だけ深く息を吐いた。
それから、震える手を持ち上げた。
寒さのせいか、疲労のせいか、それとも別の何かか、自分でも分からない。分からないまま、俺はモニターの黒い闇へ手を伸ばした。
あとから思えば、この瞬間に俺の人生はだいぶおかしな方向へ舵を切ったのである。普通、三十八歳の社畜が深夜のサーバー室でやるべきことは、障害票を更新して復旧報告を書くことであって、異界の魔王と握手することではない。
俺の指先が、画面に触れた。
ぞっとするほど冷たい感触が、確かにあった。
同時に、室内の全モニターが白く点滅した。ラックの扉が震え、床を這うケーブルが脈打つように跳ねる。見たことのない文字列が、すべての画面に一斉に流れた。
`GATE PROJECT : ACCEPTED`
`ADMIN LINK ESTABLISHED`
`WELCOME, KOSUKE MURATA`
サーバー室の闇の中で、ゼルヴェクトは満足そうに告げた。
「契約成立だ。……明日から忙しくなるぞ、村田耕助」
やがてモニターのノイズは静まり、ゼルヴェクトの姿は闇に溶けた。
後に残ったのは、正常に復帰したコンソール画面と、何事もなかったかのように点滅するラックのLEDと、三十八歳の社畜が一人、サーバー室の真ん中で呆然と立っている光景だけだった。
手のひらを見る。
さっきまで震えていたはずの手が、嘘みたいに静かだった。指先にだけ、かすかな熱が残っている。
スマホが震えた。今度は黒崎課長ではなく、監視システムからの自動通知だった。見ると、さっきまで赤かったアラートが全部消えている。通信遅延も、VPNの不安定も、バックアップジョブの失敗も、すべて。
正常。
まるで、今夜の障害の原因が、最初から別のところにあったみたいに。
「……冗談だろ」
冗談であってほしかったが、手のひらの温もりだけが冗談ではなかった。障害が起きるより、原因なく治るほうが怖い。
俺は椅子に座り直し、ぬるくなった缶コーヒーを一口飲んだ。それから障害票を開き、復旧報告を書き始める。
「原因:複合要因による一時的な通信異常。対策:経過観察。」
人類史上もっとも不正確な障害報告を書きながら、俺は妙に冷静な頭の片隅で、ひとつだけ考えていた。
――これ、明日の勤怠、どうなるんだろうな。
村田耕助。三十八歳。社畜。独身。
肩書きがひとつ増えた。魔王軍幹部候補。
人生で初めて出世した先が、人類の敵である。
我ながら、どうかしている。




