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第6話 『初めての病棟』


 九月、1年次の初めての実習、基礎看護学実習Ⅰが始まる。

 看護学校の駐車場に集まった実習チームの五人は、どこか戦地へ赴く志願兵のような、悲壮な高揚感に包まれていた。紺色のリクルートスーツとは違う、まだ折り目の硬い真っ白な実習服。それを身に纏うだけで、自分たちが何者か特別な役割を与えられたような、幼稚で残酷な万能感に浸ることができた。


「……よし、行こう。みんな、絶対に乗り切ろうね」


 チームリーダーの渡辺美穂が、自分に言い聞かせるように拳を握った。彼女は、常に陽の当たる場所を歩いてきたような屈託のない笑顔が印象的な娘だったが、今はその頬が緊張で強張り、塗り固めたファンデーションが朝の光の中で白浮きしている。一浪してこの場所へ流れ着いた私にとって、彼女たちの瑞々しいまでの結束力は、眩しさを通り越して、どこか薄気味悪い「劇」の一部のように映る。


 そして、この清潔な白一色の集団の中で、男は朔一人だった。

 この病棟が、女子学生たちの間で「離職率が異常に高い」「指導が苛烈で、メンタルを病む学生が後を絶たない」という噂の巣窟であることは、耳にタコができるほど聞かされていた。しかし、その「地獄」の正体が、単なる忙しさなのか、それとももっと根深い人間の膿によるものなのか、当時の朔はまだ、想像力の端にすら捉えていなかった。


「山島くん、顔色悪いよ? 大丈夫?」


 声をかけてきたのは、同じチームの松本だった。彼女は小柄で、リスのように落ち着きのない目が特徴的な娘だ。いつもは誰にでも愛想良く振る舞う彼女だが、今はその丸い肩が強張り、手にした実習ノートの端を指先で執拗に弄んでいた。


「……ああ。少し、寝不足なだけだ」

 嘘だった。


 胸の奥で、心臓が不規則な拍動を刻んでいる。

 これから踏み込む場所は、教科書に描かれた清潔な図解の世界ではない。

 人間の排泄物と、膿と、剥き出しの絶望が、消毒液の匂いで塗り固められた密室だ。

 朔達は、示し合わせたように深く息を吸い込み、病院の重い自動ドアをくぐった。


 三階西病棟。


 ナースステーションの入り口で、足を止めた。

 そこには、外部の人間を拒絶する、完成された「秩序」が渦巻いていた。

 ナースシューズが床を擦る「キュッ、キュッ」という乾いた音。

 電子カルテのキーボードを叩く、銃声のような連打音。

 そして、それらを支配する、感情を排した看護師たちの「声」。


 喉が、引き攣るように鳴った。


 周囲の女子学生たちが一塊になってステーションの隅へ縮こまる中、一回り大きな体躯を持つ朔だけが、行き交う看護師たちの導線を塞ぐ巨大な異物として浮き上がっていた。自らの内側にある醜悪な空虚さを隠すために、「従順な学生」という仮面を、顔の筋肉が強張るほど深く被り直した。


「……おはようございます。本日より実習させていただきます、よろしくお願いいたします。」


 絞り出した挨拶は、忙しなく行き交う看護師たちの背中に当たり、無惨に跳ね返った。


 誰も振り向かない。


 そこにあるのは悪意ですらなかった。ただの、徹底した「不在」の扱い。

 噂に聞いていた「厳しさ」の片鱗を、まずこの「無視」という名の静かな暴力によって洗礼された。


 指導看護師である灰谷が、ようやく現れたのは、それから三十分も経ってからだった。

 彼女は、銀縁の眼鏡の奥にある細い目を、検体を見るような冷徹さでこちらへ向けた。唇は薄く、一文字に結ばれている。その肌は、病棟の蛍光灯を反射して、陶器のように血色を失っていた。


「計画の発表? あとで。今、そんな時間ないから。山島くんは、佐藤さんの清拭。手順、わかってるわね?」


「はい。……あの、計画書の確認をお願いできますか。根拠も含めてまとめてきたのですが」


「言ったでしょ、あと。さっさと準備して。十時には終わらせてよ」


 時計の針は九時十五分を指していた。

 根拠。目的。留意点。

 昨夜、自らの存在意義を証明するかのように徹夜で書き上げたレポートが、ただの「白い紙の束」に成り下がった瞬間だった。

 洗面器に湯を張る。

 四十五度。

 湯気が、視界を白く濁らせた。

 タオルの繊維が、熱湯を吸い込んで重くなる。

 カーテンを閉める。

 そこは、世界から切り離された、一坪の密室だった。

 ベッドに横たわる佐藤さんは、脳梗塞の後遺症で、もはや意思を疎通させる術を持たない。彼女の肉体は、長い年月をかけて「生」という冷酷な彫刻家によって削り取られ、今やベッドの上に置かれた、壊れやすい標本のようだった。

 寝衣を脱がせる。

 そこにあったのは、もはや女性という性を超越した、剥き出しの「生存」そのものだった。

 若さという虚飾をすべて剥ぎ取られた肉体。それだけだった。そして別の、圧倒的な「真実」が横たわっていた。

 皮膚は濡れた薄紙のように透け、紫色の血管が、まるで枯れ果てた大地の亀裂のように走り回っている。

 朔は、熱いタオルを手に取り、彼女の腕に触れようとして、止まった。

 

 ――皮膚剥離。

 

 実習前の演習で、耳にタコができるほど繰り返された警告が、脳内で警鐘を鳴らす。

 この皮膚は、拭いてはいけない。

 少しでも摩擦を加えれば、彼女の尊厳は、赤い滲みとなって無惨に破綻してしまう。

 

「山島くん、何やってんの。遅い」


 カーテンの隙間から、灰谷が覗いていた。その冷ややかな視線が、朔の背筋を凍らせる。

 震える指先でタオルを佐藤さんの皮膚に置いた。

 擦るのではない。

 「押さえ拭き」――。

 水分と熱だけを、祈るように彼女の肉体へと転写していく。

 じわじわと、朔の手のひらの熱が、佐藤さんの冷え切った皮膚に吸い取られていく。

 

「……っ」


 佐藤さんの指が、一瞬、ビクンと跳ねた。

 痛みなのか。それとも、朔自身を、「異物」としての接触に対する拒絶なのか。

 朔は、自分の呼吸が止まっていることに気づいた。

 

 母、瑠美。

 彼女の香水の匂いを思い出す。

 あんなに華やかで、あんなに強固だった母の肌。

 それに対して、目の前のこの老人の、今にも千切れそうな皮膚の、あまりにも残酷な脆弱さ。

 

「山島くん、丁寧すぎて時間使いすぎ。次、待ってるから」


 灰谷は、朔の「押さえ拭き」という繊細な配慮を、単なる「動作の鈍さ」として切り捨てた。

 彼女の冷徹な声が、胸の奥に、膿のように溜まっていく。

 清拭を終え、佐藤さんの寝衣のボタンを一つひとつ留めていく。

 それは、壊れかけた世界を、もう一度繋ぎ合わせるような、空虚で切実な儀式だった。

 

 午後。実習終了後の更衣室。

 そこには、朝のあの「結束」の面影はどこにもなかった。

 男子更衣室は、女子たちの泣き声や溜息が漏れ聞こえる廊下を隔てた、狭く暗い物置のような一室だった。

 朔は一人、ロッカーの前で実習服を脱ぎ捨てた。

 

 廊下からは、松本の嗚咽が聞こえてくる。

 「私、もう無理かもしれない。何をやっても、邪魔だって言われるの」

 その声は、壁を越えて朔の孤独を逆撫でした。

 

 何も言えなかった。

 男子である朔という存在は、彼女たちの涙の連帯に加わることも、それを宥めることも許されない。安っぽい同情は、この剥き出しの戦場では、互いを傷つけるだけの刃にしかならない。

 誰かがファスナーを上げる「ジジッ」という乾いた金属音が、この一日の終焉を告げる、唯一の冷たい鐘の音だった。

 

 病院を出ると、三月の風は、驚くほど冷たかった。

 

 自分の手のひらをじっと見つめた。

 佐藤さんの皮膚の、あの「破れそうな柔らかさ」。

 その、他人の絶望に触れたような感触が、まだ指先にべったりと張り付いている。

 

 看護とは、救済などではない。

 それは、他人の孤独の輪郭を、自分の指先でなぞるだけの、あまりにも内省的で、孤独な作業だ。

 

 駅へ向かう雑踏の中、朔は一人の無名の男に戻った。

 しかし、耳の奥には、病院の廊下で聞いた、あのナースシューズの「キュッ、キュッ」という音が、消えることのない不規則な雑音となって鳴り続けていた。

 

 夜が来る。

 明日もまた、あの「無視」と「沈黙」が支配する白亜の檻へと、自分を運ばなければならない。

 

 胸の奥で、小さな、本当に小さな火が灯った。

 それは希望などという美しいものではない。

 ただの、消えかかった「執着」だ。

 

 朔は、佐藤さんの冷えた足を拭いたときの、あの微かな手の震えを、忘れることができなかった。

 

 ――これが、お前の望んだ世界か。

 

 頭の中で、誰かの嘲笑う声がした。

 それは母の声でも、教師の声でもなかった。

 

 ただ、暗い夜の底で、自分だけの鼓動を刻みながら、前を向いた。


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