第5話 『コーヒーの湯気』
朝、目が覚めたとき、朔は自分が眠ったのかどうか分からなかった。
目を開けた瞬間、朝だった。
夢を見た記憶はない。
かといって、眠ったという感覚もない。
ただ時間だけが過ぎて、気がついたら朝になっていた。
そんな感じだった。
カーテンの隙間から、白い光が差し込んでいる。
まだ完全な朝の光ではない。
夜の気配をわずかに残した、淡い光だった。
その光が、部屋の床に細い線を引いている。
朔はしばらくその光を眺めていた。
体を起こす気力がなかった。
頭が重い。
体の奥に、鉛のような疲れが残っていた。
昨夜の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
消えない。
時間が経てば薄れると思っていた。
けれど、そうではなかった。
むしろ朝になって、よりはっきり思い出される。
――だったら最初から産むなよ。
自分の口から出た言葉だった。
思い出した瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
布団の上に座り込む。
背中を丸めたまま、しばらく動けなかった。
言ってはいけない言葉だった。
分かっている。
それでも、口から出てしまった。
あのとき、頭の中に浮かんでいたのは怒りだけだった。
でも今は違う。
残っているのは、ただ後味の悪さだった。
居間の方から物音はしない。
静かだった。
母はもう出ていったのだろうか。
それともまだ寝ているのか。
昨夜は、どうなったのだろう。
あのあと、何か言われただろうか。
記憶が曖昧だった。
いや、覚えている。
覚えているのに、思い出したくなかった。
確認する気にはなれなかった。
居間へ行く勇気がなかった。
時計を見る。
学校へ行く時間だった。
体が重い。
休もうか、と一瞬思った。
だが、すぐにその考えを打ち消した。
休んだところで、何も変わらない。
むしろ余計に考えるだけだ。
朔はゆっくり立ち上がった。
床が冷たい。
顔を洗う。
水が指先を伝う。
冷たい水が、少しだけ頭を覚ました。
鏡の中の自分の顔は、ひどく疲れて見えた。
目の下に影が落ちている。
髪も少し乱れていた。
「……最悪だな」
小さく呟いた。
誰もいない洗面所に声が落ちる。
自分の声が、少しだけ空間に残った。
家を出た。
玄関の空気が冷たい。
外へ出ると、朝の光が広がっていた。
空は明るい。
昨日と同じ青空だった。
雲もほとんどない。
澄んだ、どこまでも高い空。
それなのに、世界はまるで違って見えた。
昨日までと同じはずなのに。
なぜか色が薄く感じる。
学校へ向かう足取りは重かった。
通学路には、いつも通り学生が歩いている。
自転車の音。
遠くの車の音。
日常の音だった。
校門をくぐる。
学生たちの声が聞こえる。
「昨日さ、レポート終わんなくてさ」
「わかるー、私も!」
「実習始まったらもっとやばいらしいよ」
笑い声。
廊下のあちこちで会話が弾んでいる。
課題の話。
実習の話。
彼氏の話。
家族の話。
それはどこにでもある、普通の学生の会話だった。
特別なことではない。
どこの学校でも、たぶん同じような会話がされている。
けれど朔には、どこか遠い世界の音のように聞こえた。
同じ場所にいるのに。
同じ空間にいるのに。
透明な壁の向こうから聞こえてくるような感じだった。
教室に入る。
女子たちは席の周りで話している。
笑い声が弾ける。
誰かが肩を叩く。
誰かがスマートフォンを見せている。
その輪の中に、自分はいない。
いや。
もしかすると最初からそんなものはないのかもしれない。
ただ自分が勝手に距離を感じているだけなのかもしれない。
向こうはそんなつもりはないのかもしれない。
それでも胸の奥に、奇妙な違和感が残る。
小さな棘のような感覚だった。
「山島くん」
声をかけられた。
振り向く。
渡辺だった。
「顔色悪くない?」
少し心配そうな顔をしている。
「大丈夫?」
朔は一瞬だけ迷った。
本当のことを言うべきか。
いや、言うわけがない。
「……寝不足」
短く答える。
「課題?」
「まあ、そんな感じ」
渡辺は「そっか」と小さく頷いた。
それ以上は聞かなかった。
無理に踏み込まない。
その距離感に、朔は少しだけ救われる。
授業が始まる。
教師の声が教室に響く。
「人体の循環系についてですが――」
黒板に図が描かれる。
心臓。
血管。
血流。
赤いチョークが黒板の上を走る。
朔はノートを開いた。
ペンを持つ。
だが文字は頭に入ってこない。
教師の声が遠い。
言葉が耳を通り過ぎていくだけだった。
ペンが止まる。
視線がぼやける。
昨夜の言葉が何度も頭をよぎる。
母の顔。
自分の声。
あの空気。
教室のざわめきが、どこか遠くに感じる。
気がつくと授業は終わっていた。
一日がそんな調子で過ぎていく。
昼休み。
誰かが弁当を広げている。
誰かがコンビニのパンを食べている。
笑い声が交じる。
朔はほとんど食べなかった。
食欲がなかった。
午後の授業も終わる。
「じゃあまた明日ー」
女子たちが教室を出ていく。
笑い声が遠ざかる。
朔はしばらく席に座っていた。
帰るか。
そう思う。
だが足が動かなかった。
家に帰りたくない。
理由は分かっている。
昨夜の言葉。
母の顔。
あの空気。
思い出すだけで胸が重くなる。
朔はゆっくり立ち上がった。
学校を出る。
しばらく歩いた。
目的地はなかった。
ただ足を動かしていた。
気がつくと、ある店の前に立っていた。
小さな喫茶店だった。
以前、入ったことがある。
看護学校に入る前。
進路が決まらず、時間を持て余していた頃だった。
あのときは母と共に、ここに入った。
一緒に座ってコーヒーを飲んでいた。
外を眺めていた。
あのときの自分も、空っぽだった。
朔は扉を押した。
カラン、と鈴の音が鳴る。
客はほとんどいない。
窓際の席に座る。
コーヒーを注文する。
湯気が立ち上る。
カップを手に取る。
苦味が口に広がる。
朔はぼんやりと窓の外を見た。
何をしているのだろう。
そう思った。
時間を潰しているのか。
それとも。
あの頃の自分を思い出したいのか。
あのときの自分も、空っぽだった。
進路もない。
目標もない。
ただ時間だけが流れていた。
そしてそこに現れたのが――
「顔が死んでるわね」
声がした。
朔は顔を上げた。
そこに立っていたのは、高倉志津江だった。
一瞬、言葉が出なかった。
看護学校に入るきっかけを作った人物。
母の知人。
そして――
白嶺中央総合病院の看護部長。
「寝てない顔してる」
高倉はそう言って、向かいの席に座った。
「何かあったの?」
朔は黙った。
普通なら、何も言わない。
いつもそうだった。
自分のことは話さない。
壁を作る。
距離を置く。
それが朔のやり方だった。
だが今は違った。
精神的にも。
肉体的にも。
疲れ切っていた。
気力がなかった。
「……昨日」
気がつくと、言葉が出ていた。
独り言のように。
「母と、喧嘩しました」
高倉は黙って聞いていた。
朔は少しずつ話した。
店内には静かなジャズが流れていた。
低いピアノの音が、ゆっくりと空間を満たしている。
朔はコーヒーカップを見つめていた。
湯気が細く立ちのぼり、天井の明かりに溶けていく。
話してしまった。
そう思った。
母とのこと。
昨夜の言葉。
自分の中に溜まっていたものを、全部。
相手は誰だ。
母の知人。
そして――
白嶺中央総合病院の看護部長。
自分とは世界の違う人間だ。
それなのに、なぜ話してしまったのか。
朔には自分でも分からなかった。
テーブルの上に沈黙が落ちる。
高倉はすぐには言葉を返さなかった。
ただカップを手に取り、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。
その仕草は落ち着いていた。
急ぐ様子もない。
まるで、時間を少しだけ静めるような動きだった。
カップを置く。
小さな音がテーブルに落ちた。
それから、高倉はふっと笑った。
「私ね」
柔らかな声だった。
「子供いないのよ」
朔は顔を上げた。
どこかで、母親なのだろうと思っていた。
高倉は窓の外に目を向けた。
夕方の光が街の建物に当たり、
ガラスに淡く反射している。
「だからね」
少し肩をすくめる。
「母親の気持ちは、本当の意味では分からないのかもしれない」
その言葉には、不思議と自嘲はなかった。
ただ、長く生きてきた人間の静けさがあった。
「でもね」
高倉は朔を見る。
その目は穏やかだった。
けれど、どこか深かった。
何人もの患者を見送り、
何人もの新人を送り出してきた人間の目だった。
「看護師は長くやってきた」
朔は黙って聞いていた。
「いろんな人を見てきたわ」
「患者も」
「家族も」
「それから」
少し間が空く。
「あなたみたいな学生も」
窓の外を車が通り過ぎる。
遠くでクラクションが小さく鳴った。
高倉は静かに続ける。
「逃げるなら、今よ」
声は穏やかだった。
強くもない。
けれど、不思議と真っ直ぐだった。
「三年は長い」
「看護学校ってね、思ってるよりきついの」
少しだけ笑う。
「実習もあるし」
「人間関係もある」
「理不尽なことも、山ほどある」
そして少しだけ声が低くなる。
「患者はね」
一拍置く。
「こっちの事情なんて待ってくれないの」
朔は視線を落とした。
その言葉は重かった。
けれど、不思議と冷たくはなかった。
それは脅しではなく、
ただの事実だった。
高倉は続ける。
「人はね」
コーヒーの表面を見つめながら言う。
「思ってるより、簡単に死ぬわ」
店内の音が少し遠くなった気がした。
朔は何も言えなかった。
高倉はふっと息をついた。
それから少しだけ表情を和らげる。
「でもね」
声が柔らかくなる。
「だからこそ、看護師がいるのよ」
その言葉は、静かだった。
けれどどこか温かかった。
「ナイチンゲールって知ってる?」
突然そう聞かれ、朔は少し戸惑う。
「……少しだけ」
高倉は小さく笑った。
「夜になるとね、ランプを持って病室を回ってたの」
指でカップの縁をなぞる。
「灯りって、小さいのよ」
「それだけじゃ何も変わらないくらい」
窓の外は、少しずつ夕焼けに染まり始めていた。
「でもね」
高倉は言う。
「暗い場所では、それでも道になる」
朔は顔を上げた。
高倉の目がまっすぐこちらを見ていた。
「逃げるなら、今よ」
もう一度言う。
「三年は長い」
「きっと何度も嫌になる」
「看護師なんて向いてないって思う日も来る」
少しだけ微笑む。
「でも」
その声は静かだった。
「逃げたくないなら」
「最後まで歩き続けなさい」
朔の胸の奥に、何かが落ちる。
静かに。
ゆっくりと。
「急がなくていい」
「ゆっくりでいい」
「立ち止まってもいい」
高倉はカップを持ち上げた。
「でもね」
その目は優しかった。
どこか、母親のように。
「歩くのだけは、やめないこと」
その言葉は説教ではなかった。
命令でもない。
ただ――
誰かがそっと灯りを手渡すような言葉だった。
朔は言葉を返せなかった。
胸の奥で、何かが小さく灯る。
弱い光だった。
それでも確かに、そこにあった。




