第4話 『言ってしまった言葉』
入学して、しばらく経った。
人体というものが、ようやく少しずつ形を持って見え始めていた。
骨格。
筋肉。
神経。
血管。
教科書の図は精密な地図のようだった。だがそれはまだ、朔にとっては遠い世界の話だった。
看護学生というものは、とにかく課題が多い。
レポート。
グループワーク。
事前学習。
振り返り。
期限付きの紙の山が、次から次へと机の上に積み重なっていく。
終わったと思えば、また新しい課題が置かれる。
朔は居間の机でレポートを書いていた。
まだ終わっていない課題が、山のように積まれている。
それに加えて国家試験の勉強もしなければならない。
三年間は長いようで短い。
教師たちは口を揃えてそう言う。
その意味が、少しずつ分かり始めていた。
窓の外では車が通り過ぎる音がする。
遠くで風が建物の隙間を抜けていく。
それらの音は、朔にとって心地よいものだった。
今、母はいない。
山島瑠美は、普段から家に帰ってくることが少ない。
ふらりと帰ってきたかと思えば、またいなくなる。
それが朔にとっては、幼い頃から当たり前の生活だった。
玄関に立つ母の姿を思い出す。
露出の多い派手な服。
香水の強い匂い。
ヒールの音。
コツ、コツ、コツ。
キツツキのような音を立てながら廊下を歩く。
それが母の帰宅の合図だった。
母は若くして朔を産んだ。
成人する前だったと聞いている。
父の話は、したことがない。
朔は父の顔を知らない。
名前すら知らない。
中学生になった頃だっただろうか。
夜遅く、酔った母が帰ってきたことがある。
玄関で靴を脱ぎながら、ふと朔を見て言った。
「……あんた、ますますあいつに似てきたわ」
それが良い意味なのか、悪い意味なのか。
朔には分からなかった。
ただ一つ言えるのは、母の口調に愛情はなかったということだ。
だから朔は、父という存在を想像することをやめた。
たまに知らない男が家に来ることもあった。
だが高校生になる頃には、それも減った。
母は外へ出ていくことが多くなった。
家は、ほとんど朔一人の空間だった。
今となっては、それが都合の良いことでもあった。
課題の山に埋もれている朔にとって、静かな家は貴重な場所だったからだ。
提出期限が迫っているレポートを、なんとか一つ終わらせた。
朔は大きく息を吐いた。
椅子から立ち上がり、ベランダへ向かう。
干していた洗濯物を取り込む。
手つきは慣れていた。
幼い頃からやってきたことだからだ。
空を見上げる。
澄んだ青空が広がっていた。
どこまでも高く。
どこまでも遠く。
自分とはまるで違う世界のように感じる。
頬を撫でる風が心地よかった。
入学してから、いろんな人を見てきた。
そしてこれからも見ていくのだろう。
看護学校は、ほとんどが女子だ。
高校のときとはまた違う空気があった。
女子の世界の、もっと深いところに入り込んだような感覚。
表の笑顔。
裏の空気。
視線。
沈黙。
朔はそれを、まだうまく言葉にできないでいた。
洗濯物を畳みながら、ある言葉を思い出す。
学内演習のとき、渡辺が話していたことだ。
「うち、両親が看護師なんだよね」
彼女はそう言った。
「だからさ、小さい頃から消毒液と洗剤の匂いがしてると安心するんだよね」
そう言って、少し笑った。
ーー安心するんだよね。
その言葉が、ふと頭をよぎる。
朔にとっては遠い世界の話だった。
母の匂いに、安心したことなど一度もない。
むしろ逆だった。
香水の匂いがすると、緊張した。
今日は機嫌がいいのか。
悪いのか。
その匂いで判断していた。
「……どんな感じなんだろ」
小さく呟く。
渡辺には父がいる。
安心できる母がいる。
学校では、仲の良いグループがある。
自分はどうだろう。
会話する女子は増えた。
だがどこか距離がある。
必要最低限。
それが一番しっくりくる。
そもそも学校に通っているのは資格を取るためだ。
仲良しこよしをするためではない。
そう思っている。
そう思っているはずなのに。
胸の奥に、小さな棘のような違和感が残る。
朔は机に戻り、残りの課題と予習を始めた。
母が帰ってくる前に、できるだけ進めておきたい。
ついでに夕食の準備もしなければならない。
母はほとんど帰ってこない。
だが帰ってきたとき、何もないと機嫌が悪くなる。
だから用意しておく。
それが朔の習慣だった。
今日も帰ってこないだろう。
そう思っていた。
時間はあっという間に過ぎた。
気がつけば日が沈んでいた。
カーテンを閉める。
風呂の準備をする。
そのときだった。
玄関のドアが開く音がした。
朔の手が止まる。
母だろうか。
居間へ向かう。
そこには瑠美が立っていた。
「ああ……もうッ」
手に持っていたポーチを床に投げる。
ドサッと鈍い音がした。
「母さん、おかえり」
朔は声をかける。
話したいわけではない。
言葉をかけても、かけなくても何も変わらない。
それでも黙っているよりはましだと思っただけだった。
瑠美は靴を脱ぎながら言った。
「……風呂は」
「まだ。今してたとこ」
その言葉を聞いた瞬間、瑠美は大きくため息をついた。
酒の匂いがした。
「なんで用意してないのよ」
声が尖る。
「ほんっと使えない。かーくんとは大違い」
かーくん。
誰なのか、朔は知らない。
想像する気もなかった。
「……ごめん」
短く答える。
その態度が、さらに瑠美を苛立たせた。
「あんたのそういうところほんと嫌い」
冷たい声だった。
「ますます似てきて気持ち悪い」
言葉が突き刺さる。
顔も知らない父。
その人間に、そんなにも似ているのだろうか。
朔は視線を落とした。
「課題終わってなくて……間に合わなかった。ごめん、母さん」
絞り出すように言う。
すると瑠美は笑った。
乾いた笑いだった。
「は?なにそれ」
目が鋭くなる。
「私が悪いって言いたいわけ?」
朔は何も言えない。
「誰があんたを食わせてると思ってんの?」
言葉が次々と飛んでくる。
「感謝とかないわけ?」
瑠美の目は、針のようだった。
アルコールが入ると、いつもこうなる。
外では愛想よく振る舞う。
見栄を張る。
だが家では違う。
「外で汗水垂らして働いてるんだから」
声がさらに大きくなる。
「気ぃ使って風呂くらい用意しとくのが当たり前でしょ」
その言葉で、何かが切れた。
世界が少し遠くなる。
母の姿が、小さく見えた。
「なんで……」
朔の口が動く。
「なんでそんなこと言うんだよ、母さん」
それは、朔にとって初めてと言っていい反抗だった。
瑠美の眉が動く。
朔の声が震える。
「俺だって一杯一杯なんだよ!」
声が思ったより大きく出た。
自分でも驚くほどだった。
瑠美の目が、すっと細くなる。
「慣れないとこでさ!」
言葉が止まらない。
「何のために目指したのかもわかんないまま、毎日課題やって、勉強して、実習だってこれからあるし!」
胸の奥が熱くなる。
「俺だって……」
喉が詰まる。
「俺だって、必死なんだよ!」
沈黙が落ちた。
瑠美は少しだけ首を傾ける。
そして、ふっと笑った。
それは優しい笑いではなかった。
「……はあ?」
乾いた声だった。
「看護学校行ったくらいで、そんな偉そうに語るようになったの?」
朔の胸がざわつく。
「甘えてんじゃないわよ」
瑠美は冷たい目で朔を見る。
「それくらいで潰れるならさっさと辞めれば?」
その言葉は軽かった。
あまりにも軽かった。
まるで、そこに積み重なっている朔の時間など最初から存在していないかのように。
朔の頭の中で、何かが切れた。
「……辞めろって言うのかよ」
声が低くなる。
「なによ」
瑠美は肩をすくめた。
「別に困らないわよ?」
その言葉を聞いた瞬間だった。
胸の奥から、黒いものが噴き出した。
「困るだろ!」
朔の声が居間に響いた。
「困るから看護学校行けって言ったんだろ!」
瑠美の眉が動く。
「一浪してる息子がいるの、外で言えないからだろ!」
口にした瞬間、自分でも分かった。
言ってはいけないことだった。
瑠美の顔が変わる。
「……なにそれ」
低い声だった。
「誰がそんなこと言ったの?」
「言ってないけど分かるよ!」
言葉が止まらない。
「母さんいつもそうじゃん!」
胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れ出す。
「外ではいい母親の顔してさ!」
「家では俺のこと邪魔みたいに扱ってさ!」
「だったら最初から産むなよ!」
空気が止まった。
言ってしまった。
言った瞬間、分かった。
取り返しのつかない言葉だった。
瑠美の目がゆっくり細くなる。
「……はあ」
小さく笑った。
「じゃあ出てけば?」
あまりにもあっさりした声だった。
「文句あるなら出てけばいいじゃない」
朔の胸がぎゅっと縮む。
「誰も頼んでないわよ」
瑠美はそう言って髪をかき上げた。
「好きにすれば?」
その言葉は、刃のようだった。
朔の頭の中が真っ白になる。
次の瞬間、体が動いていた。
玄関に向かう。
靴を履く。
ドアを開ける。
「ちょっと!」
後ろで瑠美の声がした。
「どこ行くのよ!」
朔は振り返らなかった。
ドアを強く閉める。
夜の空気が体に当たった。
冷たかった。
歩く。
とにかく歩く。
行き先はない。
ただ家にいたくなかった。
自分の吐いた言葉が頭の中でぐるぐる回る。
――だったら最初から産むなよ
胸が痛い。
最低だ。
最低だ。
そう思った。
母に言ったのか。
それとも自分に言ったのか。
分からなかった。
気づけば、コンビニの明かりが見えた。
駐車場は静かだった。
夜中の時間帯だ。
車は数台しか停まっていない。
朔は店の前の縁石に座った。
コンビニの自動ドアが開く。
若い男が出てきた。
朔より少し年上だろうか。
コンビニの制服を着ている。
手にはゴミ袋を持っていた。
駐車場のゴミ箱を開けて、袋を交換する。
タバコの吸い殻。
ペットボトル。
弁当の空き箱。
黙々と片付けていく。
その姿をぼんやり見ていた。
自分とそう変わらない年齢だろう。
この時間に働いている。
自分は何をしているのだろう。
看護学校。
課題。
国家試験。
将来。
頭の中に言葉はある。
けれど、どれも実感がない。
「……は」
小さく笑った。
根がない。
ふとそう思った。
自分には、根がない。
看護師になりたいと思ったわけでもない。
誰かに勧められた道。
母に言われた道。
目の前に置かれた道、それでも、自分で選んだつもりだった。
でも、本当はどうだろう。
ただ流されてきただけじゃないのか。
母に文句を言う資格があるのか。
胸の奥が空っぽだった。
時間がどれくらい経ったのか分からない。
コンビニの店員はいつの間にかいなくなっていた。
空を見る。
黒かった空が、少しずつ色を変えている。
夜が薄くなっていく。
朝が来る。
「……帰るか」
小さく呟いた。
帰りたくはない。
でも、行く場所もない。
家に向かって歩く。
玄関のドアを開ける。
静かだった。
居間を覗く。
瑠美はソファで寝ていた。
靴も脱がずに。
酒の匂いがする。
テレビがついたままだった。
朔は立ち止まる。
この人が母だ。
そう思った。
それ以上の感情は出てこなかった。
ただ、疲れている顔をしていた。
朔は何も言わず、自分の部屋に戻った。
布団に座る。
朝の光がカーテンの隙間から入ってくる。
ふと思う。
自分はなぜ生きているのだろう。
なぜ生まれてきたのだろう。
答えはない。
ただ、空っぽだった。




