第3話 『同じ場所に立って』
入学し、時間が過ぎていく。
クラス内の女子は徐々にグループを形成し始めていた。朔は高校の時と同じように、日常会話として女子と話している。ただ一つ違うのは、学生気分の現役生と、資格獲得のために来ている社会人組との温度差だった。
朔は一浪しており、社会人組に属している。だがそのどちらからも浮いている、そんな存在だった。
朔は一つの癖に気づいた。
笑い声が消えたあと、必ず別の名前が出る。
目の奥までは笑っていないように見える。仲良く話していたはずなのに、その相手がいなくなると、今度は別の人といなくなった人の話題や態度について話し始める。
高校では見たことのなかった光景だった。
朔は座学に勤しんだ。まだ実習はない。
基礎看護学概論、形態機能学、微生物学、心理学等々、看護へと繋がる知識を詰め込んでいく。
朔にとって、それはまだ何も描いていないはずのキャンバスに、上から別の色を塗られていくような感覚だった。
初めての学内演習が行われることになった。
一番最初はベッドメイキング、つまりシーツ交換の実習だ。
まだ折り目のついた、自分のものではないような実習服に着替え、演習室へ向かう。
学籍番号順で二人一組。
朔は渡辺美穂と組むことになった。
「山島君よろしくね」
穏やかな声だった。だがどこか作業的にも聞こえる。緊張しているのだろうか、それとも自分と組むことをどう思っているのか、朔には分からなかった。他の女子と組んだ方が彼女にとって良かったのではないか、そんなことまで考えてしまう。
「ああ、よろしく渡辺さん」
普段通りに接する。
視界の端にはいくつかの視線があった。だが向けられているのは自分ではなく、渡辺美穂に対してのもののようだった。
ベッドメイキングの演習が始まった。
布一枚を、ただ張るだけだと思っていた。
「端、持ってもらっていい?」
渡辺の声は落ち着いている。
「せーの」
二人で引くと、空気を含んでいたシーツがすっと沈み、皺が消えた。
近い。
渡辺の指は迷いがない。
自分の動きだけが、わずかに遅れているのがわかる。
「山島君、そこ三角に折るんだよ」
言われた通りに折る。
角が合わない。
渡辺がしゃがみ込み、無言で整える。
「こうやると綺麗」
責める響きはない。
そのことが、かえって距離を明確にした。
完成したベッドを見下ろす。
たった一枚の布を張るだけで、こんなにも呼吸を合わせなければならない。
簡単だと思っていた自分が、もういない。
教員が来る。
「ここ、皺があります。やり直し」
指先ほどの歪み。
「患者さんはその上で何時間も横になります。あなたはその上で眠れますか?」
言葉は揺れない。
やり直す。
張る。
整える。
また皺が出る。
自分の未熟さが、布の上にそのまま浮き出ているようだった。
演習後、渡辺が何気なく言った。
「うち、両親とも看護師なんだよね」
「そうなんだ」
「小さい頃さ、母の夜勤明けの匂いが好きだったんだ。消毒液と洗剤の匂い。安心するんだよね」
消毒液。
安心。
朔の中で、その二つは結びつかない。
消毒液は、家の匂いではなかった。
「だから自然に目指した感じかな」
自然に。
その言葉が、少しだけ遠い。
自然に、という言葉を、朔はほんの少しだけ羨ましいと思った。
思ったことを、自分で認めたくはなかった。
「山島君は?」
理由を探す。
見つからない。
「……看護師ってのが、分からないから」
渡辺は笑う。
「何それ、変なの」
悪意はない。
だからこそ、差がはっきりする。
渡辺には父がいる。
優しい母がいる。
看護師という職業に、物語がある。
朔には、理由がない。
選んだはずなのに、根がない。
それでも、やめるという選択肢だけは浮かばなかった。
母のことを思い出しかけて、やめる。
思い出すと、何かが濁る。
実習服の袖口には、まだ折り目が残っている。
自分も、まだ伸びきっていない。
ベッドは綺麗に整っている。
だが、その上に横になる人の重さを、朔はまだ知らない。
蛍光灯は均一に白い。
誰の家庭も区別しない。
それでも、差はある。
その差は、消えたはずの皺みたいに、どこかに残っている気がした。




