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第2話 『入学式』

文章作りが少し苦手です。読みにくかったらすみません。


 スーツを身に纏う。

 久しぶりに通したワイシャツの襟は硬く、ネクタイを締めると喉の奥にわずかな圧迫感が残った。鏡の中の自分は、見慣れているはずの顔なのに、どこか借り物のように見えた。

 今日は、白嶺中央総合病院附属看護専門学校の入学式だった。

数週間前に届いた封筒の束を思い出す。入学許可書、案内、教科書購入の指示、実習についての注意書き。紙はどれも無機質で、そこに書かれている言葉は、すでに自分がこの場所に属することを前提としていた。


 校舎の廊下は、ワックスが塗られているはずなのに鈍くくすんでいた。長年の使用で蓄積された傷が、光を均一に反射しない。歩くたび、靴底がわずかに張りつくような感触があった。


 各学年一クラス、四十人。


 事前説明の際にそう聞いた。そして、学年が上がるごとに人数は減る、とも。

理由は聞かなかった。聞くまでもないことのように思えたからだ。


 教室の前で足を止める。引き戸の向こうから、複数の声が重なって聞こえていた。笑い声と、抑えた話し声。知らない人間同士が、すでに何かを共有している音だった。


戸に手をかける。

横に引くと、木が擦れる乾いた音がした。


空気が動く。


わずかに埃の匂いがする。


その瞬間、教室の中にいた全員の視線がこちらへ向いた。


言葉はない。ただ、見るという行為だけが、同時に向けられる。


 スーツ姿の女子生徒たちが、教室のあちこちに立っていた。窓際、後方、黒板の近く。互いに距離を取りながら、いくつかの小さな集まりを作っている。年齢は揃っていない。十代に見える者もいれば、明らかに年上の者もいる。髪の色も長さもばらばらで、しかし視線の質だけは似ていた。


 朔は、軽く息を吸い、黒板の方へ歩いた。

背中に視線が刺さっているのがわかる。振り返らなくても、それは消えなかった。

黒板の横に、席順の紙が貼られていた。五十音順に並んだ名前を目で追う。


山島朔。


窓際、中央。


 その文字を確認したあとも、なぜかもう一度名前を見た。

席へ向かう。机は小さかった。高校で使っていたものと、ほとんど同じ規格だ。指で縁に触れると、角の塗装がわずかに剥がれているのがわかった。


違うのは、周囲の構成だった。

男子の姿が見当たらない。


座る。

椅子の脚が、小さく軋んだ。


 周囲では、すでに会話が始まっていた。身体を少し寄せ、声を抑えながら話している。笑う者もいる。名前を呼び合っている者もいた。入学式の前から知り合っているのか、それとも、こういう場で自然に距離を縮められる人間なのかはわからなかった。

一人で座っている者もいる。だが、その孤立は朔のものとは違って見えた。

自分だけが、構造の外側に置かれている感覚があった。

スマートフォンを取り出す。意味もなく画面を開き、ニュースをスクロールする。文字は目に入っているが、内容は残らない。指を動かしているあいだだけ、自分が何かをしているように見える。


引き戸が開いた。

中年の女性が、教壇に立つ。整えられた髪、無駄のない動き。教室全体を見渡し、小さく頷いた。


「皆さん、揃いましたね」


揃っていない、と思った。

視線だけを動かし、教室をもう一度見回す。男子はいない。


自分だけだ。


――男子は少ないの。毎年、数人くらいかしら。


事前説明の際に聞いた言葉が、遅れて意味を持つ。

数人。必ずではない。


胸の奥に、小さな空白が生まれた。


「私は本学年を担当する担任の坂本佳苗です」


その声は平坦で、感情の起伏がほとんどなかった。

紹介に続き、副担任の名が告げられる。教室の後方に立つ、体格のいい年配の女性が軽く会釈をした。


「本学年は七十三期生となります。今年は男子生徒が一人です」


一人。


その言葉は、教室のどこにも吸収されず、形を保ったまま残った。

何人かが、こちらを見た。


坂本は、わずかに微笑んだ。配慮として整えられた表情だった。

朔は、頷きもせず、ただ前を見ていた。

説明が続く。配布資料の確認、年間予定、実習についての注意事項。机の上の紙をめくりながら、文字を追う。理解しているのかどうか、自分でもはっきりしなかった。


やがて移動が指示された。

多目的ホールと呼ばれる場所だった。扉は重く、押し開けると内部のざわめきが一気に流れ出てくる。

高い声。笑い声。椅子の擦れる音。

すでに並べられたパイプ椅子に、上級生たちが座っていた。視線を向ける者もいれば、向けない者もいる。


「男子だ」

「一人?」

小さな声だった。だが、聞こえるように発せられているのがわかった。


胃の奥が、わずかに縮む。

最前列に座る。両斜めには、年配の男と、年配の女性が座っていた。どちらも前方を見ている。互いに言葉は交わさない。


「第七十三回入学式を挙行いたします」


その言葉で、空間は整列した。先ほどまでの音は、最初から存在しなかったかのように消えた。

起立と着席を繰り返す。祝辞が続く。内容は頭に残らなかった。ただ、時間だけが過ぎていく。


教室へ戻る。

明日からの日程について説明がなされた。机の上の資料に目を落としながら、朔は数週間前に自宅へ届いた教科書の束を思い出していた。段ボール箱いっぱいに詰められた医学書。持ち上げたときの重さを、まだ腕が覚えている。

ここでは、それを覚えることが前提になっている。


説明が終わり、解散が告げられる。

立ち上がる者。集まる者。笑う者。

動きの方向が、それぞれ決まっているように見えた。


朔は、鞄に手をかけた。男子用のロッカーがあると、事務員から聞いていた。鍵も渡されている。場所を確認しに行こうと思った。この空間から、一度離れたかった。

そのとき。


「ねえ、山島君、だよね」

背後から声がした。


振り返る。

茶色の短い髪の女子生徒が、こちらを見ていた。迷いのない目だった。


「渡辺美穂。よろしく」

名前を差し出される。

一瞬、間が空く。周囲の空気が、わずかに静まったように感じた。


「……よろしく」

自分の声は、思っていたより普通だった。

渡辺は、わずかに笑った。


「LINE、交換してもいい?」

朔は、頷いた。


「いいよ」

スマートフォンを取り出す。画面を差し出し合う。ただそれだけの動作だった。

登録が終わる。


「あとでグループできたら、誘うね」

「助かる」

それは、本心だった。


この場所で、一人のままでいることを、想像していた。

それよりはましだと思った。


渡辺は軽く手を振り、自分の集まりへ戻っていった。すぐに誰かが彼女に何かを尋ね、彼女は答えた。小さな輪が閉じる。

朔は、その様子を見ていた。


教室の中には、すでに形があった。


自分はまだ、その外側に立っている。

だが、入口はあるのだと思った。


今はまだ、そこに触れただけだった。


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