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第1話 『合格通知は、薄かった』


 封筒は、驚くほど軽かった。


 郵便受けから取り出したとき、最初に思ったのはそれだった。もっと重いと思っていた。人間のこれから数年、あるいはそれ以降の人生を決める紙が入っているのなら、もう少し重さがあってもいいはずだった。


 白い封筒の表面には、整った活字でこう印字されている。


 白嶺(はくれい)中央総合病院附属看護専門学校


 差出人の名は、それだけだった。

 差し出した指先に、わずかな震えがあった。寒いわけではない。三月の空気は冷えていたが、指先の震えは外から来たものではなかった。


 しばらく開けなかった。

 開けてしまえば、もう戻れない気がしたからだ。

 アパートの外階段には誰もいなかった。遠くで車の走る音がしている。どこかの部屋でテレビが鳴っている。生活の音は途切れることなく続いていた。


 静かではなかった。


 世界は、静かであるはずもなかった。


 それでも、世界は妙に遠かった。


 封筒の端を指で裂いた。紙の繊維がほどける、小さな音がした。

 中から、一枚の紙が滑り出た。

 たった一枚だった。

 

 合格通知書

 

 その五文字が、中央に印刷されていた。

 それだけだった。

 喜びはなかった。

 達成感もなかった。

 ただ、決まってしまった、と思った。

 音もなく。

 まるで、気づかないうちに何かが始まっていたように。

 

 階段に腰を下ろし、紙を膝の上に置いた。手のひらで触れると、普通の紙と同じ感触だった。特別な厚みも、温度もなかった。

 だが、それは確かに、自分を別の場所へ運ぶためのものだった。

 


        ♱ ♱ ♱



 薬学部の合格通知も、同じような紙だった。

 あのときも軽かった。

 軽すぎて、現実味がなかった。

 

 入学金の振込用紙を見た母は、何も言わなかった。

 しばらく数字を見つめ、それから静かに紙を机の上に置いた。

「……高いね」

 それだけだった。

 

 責める声ではなかった。

 だが、その一言で十分だった。

 

 奨学金は第一種だった。無利子だった。だが、返さなければならないことに変わりはなかった。二十代のほとんどを、まだ見たことのない借金と一緒に生きることになる。

 薬剤師になりたい理由を、自分は持っていなかった。

 ただ、合格しただけだった。

 

 紙は机の引き出しにしまわれ、そのまま取り出されることはなかった。

 


 数日後、近所の珈琲店で、母は一人の女性と話していた。

 白髪が混じり始めた髪を後ろでまとめ、姿勢の崩れない人だった。年齢は母より少し上に見えた。声は低く、落ち着いていた。

 母はその人を、志津江さん、と呼んだ。

 

「朔くんは、進路は決まったの?」

 その人は、自然にそう聞いた。

 

「……まだです」

 そう答えると、その人は小さく頷いた。

 


「看護師になってみる気はない?」


 その言葉は、あまりにも自然に置かれた。


 まるで、コーヒーのおかわりを勧めるような口調だった。


 私は、すぐには答えなかった。


 看護師という職業は知っていた。

だが、それはテレビや病院の廊下の向こう側にいる存在で、

自分と同じものだとは思っていなかった。

「近くに学校があるの、三年で資格が取れるわ」


高倉は続けた。


「学費も、大学ほどではない。男子は少ないの、毎年数人くらいかしら」


 その言葉を聞いたとき、私は、通う場合は自分が少数になるのだと理解したがそれが何を意味するのかは、まだ分からなかった。



「君は、看護師、向いてるかもしれないわね」

 

 唐突だった。

 意味がよくわからなかった。

 

「向いてる人って、最初から看護師になりたいって思ってる人じゃないのよ」

 その人はコーヒーカップを持ち上げながら言った。


「何も知らないまま入ってくる人の方が、長く残ることもある」

 

 理由は聞かなかった。

 


        ♱ ♱ ♱



 後で知った。

 その人が、白嶺中央総合病院の看護部長、高倉志津江だということを。

 


 帰り道、母は何も言わなかった。

 

「……やってみたら」

 

 家の前で、母はそう言った。

 

 強制ではなかった。

 期待でもなかった。

 

 ただ、道が一本、目の前に置かれただけだった。

 

 願書を書いた。

 理由を書く欄は空白のままにしたかったが、何も書かないわけにはいかなかった。

 適当な言葉を書いた。


 人の役に立ちたい、と。


 自分でも信じていない言葉だった。

 

 試験会場は静かだった。

 紙をめくる音と、ペン先の擦れる音だけがあった。

 

 その音の中に、自分も混じっていた。

 

 それから数週間後、この封筒が届いた。

 

 合格通知は、薄かった。

 だが、その薄さは確かだった。

 

 部屋に戻り、机の上に通知書を置いた。

 窓の外で、風が電線を揺らしていた。

 低い音が続いていた。

 

 静寂は、なかった。

 

 このときの自分は、まだ知らなかった。

 この紙の先にある場所で、どれだけ多くの音を聞くことになるのかを。

 呼吸の止まる音。

 怒鳴り声。

 笑い声。

 そして、何も言わなくなる音を。

 

 それでも、そのときの自分は、

 ただ、

 紙の上に印刷された自分の名前を、

 長いあいだ見つめていた。

 

 山島朔

 

 それはまだ、

 誰のものでもない名前だった。


 看護師になるということが、どういうことなのか、私はまだ知らなかった。

 人間に触れる仕事だということだけは、理解していた。

 それ以外のことは、何も知らなかった。


 

 そのときの私は、

 まだ、どこへ入ろうとしているのかを知らなかった。

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