序章 『音のない場所』
静寂は存在しない。
静かだと思っても微細な音というものは、編み込まれた糸のように絡み合い響きあっている。医師から死亡宣告を受けた旅人も暫くは音が聴こえているように、細胞の一つひとつが生きている限り、人は音から逃れることが出来ないのだ。
幼稚園の頃からだろうか、その真理を俺は身をもって知っていた。たとえ両耳を小さな手で塞いだとしても、父母の怒鳴り声や物の割れる音が無くならない、という事実を。
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小さな男の子は目を覚ます。
薄い毛布を払いのけ体を起こした。今日は学校が休みで、友達と遊ぶ約束もない。何をしようかと考えながら、ブカブカの服を見下ろす。その服は、細い腕や体を一層際立たせていた。
ふすまを開けて居間に向かうと、静かに声を出した。
「……ママ…お腹すいた」
声を出すが、すぐに声は部屋に吸い込まれ、何も返ってこなかった。
だが静かではなかった。冷蔵庫の低い唸りと、どこか遠くの車の音が、世界がまだ動いていることを知らせていた。
母の姿は見当たらない。居間のテーブルに何か食べ物があるかもしれないと、男の子は探し回った。
少しして、テーブルの上にメモとお金が置いてあるのを見つけた。
≫≫
自分で好きに食べなさい。
ママより
メモの横には三百円が置かれていた。男の子はメモと一緒に小銭を手に取る。しばらくの間、手元を見つめ続けた。
「……ママ…」
かすれた声で母親を呼んだ。手のひらに感じる硬貨の冷たさが、異様に痛く感じられた。
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「……ッは」
服が汗でべたついている。彼は自室のソファーで横になっていた。今日は夜勤明け、体はソファーに沈み込み、起き上がる理由を失っていた。
嫌な夢を見た気がする。そう思いソファーから起き上がるが体の節々に痛みが走る。
「いたた…」
随分と寝すぎたようだ。服は汗で肌に張り付いており、気持ち悪さを感じる。窓の外を見ると太陽は天高く昇っている。時計の針は13時を指していた。
山島朔は、病院に勤務する看護師だった。数年前から病院の寮で生活している。
「飯、食いに行くか。」
一人暮らししてると何故か独り言が多くなる、寂しいと感じたことはないが、気を紛らわしているのかもしれない、ともぞもぞと考えていた。汗ばんたTシャツを脱ぎシャワーを浴びた。
さっぱりする。汗と気持ち悪さを洗い流したせいか足取りも軽い。
サンダルを履いてドアを開けた。セミの鳴き声と熱気が体を包み込む。けだるさを感じつつも鍵をかけて車に乗り込み、冷房を全開にする。いつもの音楽をつけ、リズムを体で感じながらアクセルを踏む。
「明後日は遅番か…やだな」
仕事は嫌いだ。
給料をもらっている以上、責任が伴うのは当然だ。
「向いてると思うわよ」
あのとき看護部長はそう言った。
朔は否定しなかった。肯定もしなかった。
運転していた車は、赤信号に導かれるように静かに停止し、彼はシートにもたれかかりながら青信号に変わるのをじっと待っていた。エンジンの微かな振動が足元から伝わってくる。フロントガラス越しには、雲ひとつない夏の高い空が広がり、澄みきった青が視界を包み込む。真昼の陽光は道路の白線をくっきりと浮かび上がらせ、空気にはじっとりとした熱気が漂っていた。信号が変わるまでのわずかな時間が、なぜか妙に長く感じられる。
そのとき、視界の端に、銀色の車体が視界に入った。
減速しない。
交差点に、突っ込んだ。
金属が潰れる音。
「……は?」
次の瞬間、それはまっすぐこちらへ向かっていた。
「……マジかよ」
思わず低く、唇からその言葉が漏れた。だが事態は終わらなかった。衝突の勢いを殺さぬまま、タンクローリーはまっすぐにこちらへと進路を変え、猛獣のような勢いで迫ってくる。
「マジかよッ!」
今度は怒鳴るように吐き出す。その瞬間、視界の中心が急速に闇へと塗りつぶされ、爆音とともに彼の世界は音も光も失った。




