苦い帰路
赤く照らされた石畳を歩く。
フィンがゆっくりと前に出ては、慌てて歩幅を小さくするのを横目で見ていた。
律儀な人だ。
それが何だか申し訳なくて、無意識に足を速めた。
クロエに視線を送ると、黒猫は距離を見定めて一気に肩に飛び乗った。
よし、これでいい。
意識して、フィンの隣に並ぶ。
居心地の悪そうな顔が、少しだけ和らいで見えた。
街灯がチカチカと点灯し始める。
クロエが一瞬だけ、ランタンに視線を落とした。
「今日は本当に災難だったよ」
クロエが軽い口調で話し始めた。
右肩に暖かさと心地よい重さ。
「本当に。あんな人たちに追いかけ回されて。」
「それだけじゃないよ。狭い帽子の中に入れられてさ。自慢の毛並みが台無しになった」
黒猫がわざとらしく鼻を鳴らす。
そういえばそんな事もあった。
図書館で本を捲っていたのが遠い昔のように感じられる。
紙と埃の匂い、赤い背表紙に指先に残る本の手触り。
そういえば結局ランドルフ商会の事は分からずじまいだし、マルタさんのスパイラルパイだって食べそこねたままだ。
「帽子に?」
若葉の瞳が瞬く。
おもしろそうな話を嗅ぎつけた顔だ。
視線で続きを促される。
…話すのは、正直、ちょっと嫌だ。
何とか話を変えられないものか。
頭の中をこねくり回す。
冷たい風が足元を吹き抜けていく。
昼に比べ、この時間の風はまだ骨身に染みる。
木々の蕾が、まだ春の盛りは遠いのだと教えてくれた。
「ねぇ、フィン。私が修理した着火機はあれからどう?」
わざとらしい話題転換だった。
「着火機か?あれなら調子がいいぜ。出したお湯もあれで沸かしたんだ。」
フィンの顔がぱっと輝いた。
はい。見てましたよ。
子供が自慢のおもちゃを褒められた時のような、そういう顔だ。
焦げ茶色の着火機は随分前の型落ち品で、どこで拾ってきたのか骨董品の域に片足を突っ込んでいる。
赤色で中央に緑が散っている魔法石だけはこの辺りでは見かけない珍しいものだった。
あれが壊れたときのフィンの困りようは、今でも目に浮かぶ。
ずぶ濡れになって店を訪ねた、眉間に皺を寄せた冒険者の顔。
今だから分かるが、あれは不機嫌なんじゃなくて、困っていたときの顔だ。
彼もまた、着火機修理を他店で断られて私の店に流れ着いたクチだった。
あの着火機の修理には本当に苦労した。
だが、それでも直そうと思った。
込められた思い出というのは何にも代えがたい。
当人にしかわかりようが無いものだけど。
「結構前に修理したから、調子が悪くなってないか今度点検するよ。助けてくれたお礼も兼ねて」
「本当か?悪いな」
そう言いながら笑顔が止まらない。
気分が良くなったのか、そのまま足取り軽く歩き出す。
クロエの目が半月の形に変わる。
お調子者め。
そんな声が夕闇に混ざって聞こえてきそうで私は歩調を速める。
すぐに肩に爪が食い込んだ。無言の抗議だ。
夜の匂いが濃くなる。
薄暗かった石畳は人の暮らしの匂いがする暖かな色に染まっていた。
家々から漏れ出る灯りと夕食の気配が心を照らしてくれる。
スープの香りに口が緩む。
見知った通りを抜ければ、もうすぐ見慣れた私の店だ。
戻ったら、これからの事を考えよう。
ランタンの赤い塗料に視線を送りながら、遠くに見え始めた店に顔を向ける。
急にフィンの足が止まる。
一歩遅れて、私も立ち止まった。
フィンの眉が寄せられている。
指先がナイフの柄をゆっくり撫でた。
その先にある何かを見ようとして、自然と息が止まる。
同時に右肩の重みが消えた。
クロエが肩から降りたのだ。
修理屋の看板が風に揺られ音を立てる。
遠くに見える見知った店の前に、長く伸びる影があった。
影は夕闇に紛れながら、何かを話し合っている。
身動ぎするたび、金属が光を反射していた。
――あれは、私を待っている。




