追われる理由
「――出ていってくれる?」
その一言が、まだ耳に残っている。
「追い出されちゃった…」
「ティアが急に体勢を変えるからだよ」
エレナの笑顔が瞼の裏に焼き付いていた。
怒鳴られたわけでは、ない。
それでも有無を言わせない圧力が体から放たれていた。
図書館は動物厳禁だって知ってるよね?
そんな声が聞こえてきそうな凄みのある笑顔。
「エレナ、怒ったかな」
「エレナはあんな事を根に持つような子じゃないでしょ」
空を見上げながらため息を漏らす。
市場で売られている色とりどりの果物が呼び声と一緒に市場を埋めていた。
遠くから鐘の音が二回鳴る。
午後一番になった合図だ。
まだまだ人通りは多い。
ふと視線を感じて振り返ったが、
人の波に紛れて、すぐに見失った。
「あ、ぶつかるよ」
「わっごめんなさい」
トンと、音がして誰かに顔をぶつけた。
慌てて前を向くと、ほつれた革鎧が目に入る。
次いでほつれた襟が見えて、だんだんと目線を上げていくと鋭い眼光が私を貫いた。
茶色のバンダナが風に揺られている。
まずい人にぶつかったかもしれない。
「あ、あの。すみません。失礼しますね」
「おい」
たった二文字。
それだけで体が硬直する。
男の視線が、私ではなく腰元に張り付いている。
値踏みするような、嫌な視線だった。
革鎧の隙間から、治りきらない古傷が覗いている。
「おまえ、それ、何持ってる?」
「何って…何も持ってないですよ」
自分の両の手のひらを相手に差し出す。
太陽に透ける手のひらが、皮膚の下の血管を映し出す。
「そうじゃねぇ。その、腰の…」
体を捻る。
腰には護身用のナイフとアルフレッドさんから依頼されたランタンだ。
これが何か、そう口を開きかけたところで、男の鼻が、ひくりと動いた。
口をぽかりと開けて声を張り上げる。
「こいつだ!」
男の声が裏返る。
「――手配書のやつを持ってる!」
何で!
咄嗟にそんなことを思った。
指を、両目で凝視する。
大声で周囲の人々の足が止まる。
一瞬で世界中の音が消えたみたいだ。
男の声に喜びと焦りが入り混じる。
途端に市場のあちらこちらから荒い足音がした。
良くないことに巻き込まれたのは間違いない。
声を上げて助けを求めるべきか、何か説明するべきか、視線があたりを彷徨った。
目の前の男が右手を伸ばす。
体を反転させて走り出そうとするが、別の男たちが走り寄ってくるのが見えた。
こちらは駄目だ。
右か、左か。
男の手が近い。
「触るんじゃないよ!」
黒い影が男の右腕に飛びかかる。
真っ白な牙を立ててクロエが噛みついていた。
「いでぇ!」
右手が大きく振り回される。
黒い影は腕から離れない。
周りの客たちが何事かと振り返りながら距離をとる。
そうして影が離れないことに業を煮やしたのか、腕を振り回すのをやめる。
男が左手を握ったのを見て、クロエは身を躱して、宙に放り投げられた。
「クロエ!」
黒い影を受け止める。
小さな体を抱きしめて、咄嗟に周りの群衆に飛び込んだ。
足元で何かを踏んで、足が滑った。
群衆の足の間を転がり、よろけながら立ち上がる。
このままみすみす捕まりたくは無かった。
クロエを両腕で覆いながら、市場を無茶苦茶に走り抜ける。
今はとにかくあの男たちから離れたい。
人混みに紛れて撒くことができれば御の字だ。
背後から男たちの声がする。
この声は、朝市場で揉めていた男たちではないか?
後ろをちらりと振り返る。
装備のせいでこの人混みをうまく抜けられないらしい。
果物が落ちて割れる音と群衆のざわめきが嵐となって吹き荒れる。
「ティア、どこも怪我してないよ。大丈夫だよ」
クロエの声がする。
その言葉に胸を撫で下ろしながら、それでも足は止まらなかった。
捕まったら、今度こそ何をされるか分からない。
何が起こってるの!
胸が潰されそうになりながら、左手でとんがり帽子を押さえる。
太陽はまだ空高く、ぬるい空気が市場全体を包み込む。
群衆の向こうで、若葉色の瞳が背中をじっと見つめている。
――手の中で、探し物のようにナイフが光っていた。




