あなたは誰?
月明かりが足元を照らす。
今日は走り通しだった。
早く休みたい。
窓から漏れる暖かな光を横目に、戻れないかもしれない店を思い出す。
足の裏がジンジンして感覚が鈍かった。
それが辛くてその場で足踏みをしてみるが、大した効果はない。
諦めて宿屋が集まる区画へつま先を向ける。
クロエが地面に鼻を近づけて何かを探っていた。
「ティア、どこに行くんだよ」
「何処って。宿屋だよ。もうどこでもいいから早く休みたいんだ」
「宿屋って…お前な…。そこは馴染みの信頼できる宿屋なのか?」
「特に馴染みのない、普通の宿屋だよ」
フィンは一度腰に手を当てて空を仰いだ後、眉間にシワを寄せる。
辺りを見回した後、声を低くした。
「宿屋の人間が良くない考えを持っていたら終わりだぞ。悪いことは言わない。今晩だけは俺の家に泊まっていけ。それか別の知り合いの家でもいいけどよ」
確かにフィンの言う通りだった。
宿屋には多くの人が行き交う。
当然、噂も飛び交っていて、昼の騒動も口の端にのぼるだろう。
その場合、自分がどの宿屋にいるかを男たちが耳にするかもしれない。
となれば宿屋は使えない。
「でも、知り合いといっても」
エレナの顔が思い浮かんだが、彼女をこの騒動に巻き込みたくはなかった。
荒っぽい連中だ。
市場で見た古傷が脳裏をよぎった。
関係があると思われたら何をされるかわからない。
と、なると…。
フィンに視線を向けた。
冒険者で荒事にも慣れていて、信頼もできる。
今の私に、これ以上の人はいない。
クロエが靴に前足を乗せる。
「行きなよ」
そう囁かれたような気がして、体を向けた。
とんがり帽子を押さえて、勢いよく体を折り曲げた。
「よろしくお願いします!」
「お、おう」
もう我武者羅だった。
今は何時くらいだろう。
さっき鳴った鐘は午後六番か、それとも七番か。
そして来た道を戻ること数十分。
もはや見慣れた扉を開けた。
「兄さん、おかえり…ティアさん?」
茶色の目が、瞬く。
それはそうだろう。
帰ると行って出ていった相手がまた目の前にいるのだから。
わたしは気まずさに耐えながらぎこちなく笑顔を向ける。
「シード、今日は二人が泊まることになった」
「えっティアさんとクロエ泊まっていくの?やったー!二人ともラッキーだね!今日はパンが二本あるからご馳走できるよ!」
シードの疑問を斬るようにフィンが短く告げる。
少し間をおいてからシードが左手を広げた。
半歩後ろに下がって扉の前を開けると、笑顔で歓迎してくれた。
きっと何かを察してくれたのだろう。
私は道すがら買ったチーズを手渡した。
泊めてくれて、しかも護衛までしてくれるのだ。
手ぶらでは申し訳ない。
シードが飛び跳ねる。
「いいの?ありがとう!」
「こちらこそ。…少しランタンの調子を見てもいいかな。あ、本格的に修理するわけじゃないよ」
「ちょっとティア、今じゃなくていいでしょ」
「見ておきたいんだよ」
黒猫がため息をつく。
これは修理屋としての矜持の問題だ。
「お、なんだ。修理したいのか?だったら、部屋の隅、そう、その辺りでやってくれ。爆発させてくれるなよ」
フィンがかまどの前で振り向きながら指をさす。
入ってきた扉の左手。
部屋の隅にボロボロの剣や、穴のあいたマントが壁に掛けてある。
ダンジョンに行くときの装備だ。
「はい。いま退かすからね」
そう行ってシードが場所を開けてくれる。
フィンが半歩近づいてきた。
興味があるらしい。
簡易魔法陣を広げ、ランタンを中央に置く。
息を大きく吸い込み、目を閉じた。
暖かな魔力が心臓から生まれ、血管を通り、全身に広がっていく。
いい調子だ。
巡った魔力が手を通して魔法陣に向かってゆっくりと流れ始めた。
目を開けると、シードが目を輝かせながらランタンを見つめる。
その様子に胸が暖かくなりながら、魔力を練り上げ、ランタンに向け「追憶の魔法」を使った。
触れた瞬間、これまでの追憶とは“深さ”が違うと、体が先に理解した。
青い光が、遠くで脈打っている。
ぬかるんだ道。
重たい鎧の感触が、知らないはずの体にまとわりつく。
大勢が行きかい、誰かが叫んでいる。
遠くで雷鳴が轟いた。
目の前の背中が崩れ落ち、雨が叩きつけられる。
こめかみが脈打つ。
痛みで目が眩みそうだ。
息を吸っているはずなのに、いつまでも苦しい。
赤い狼の刻印が揺れる。
体から力が抜けそうになるたびに、気力だけで立て直した。
息が詰まる。
ここは一体どこだ。
私は
——誰なの
「おい……誰だ。隊列を乱すな!」




