仕事できます。キャリアウーマン風
正月休みの呆けた空気は、一月の冷たい風と共に強制的に剥ぎ取られた。
仕事始め。
離婚届を出し、名実ともに「自由という名の荒野」に放り出された俺を待っていたのは、山のようなメールと、新年早々の大手クライアントへの挨拶回りだった。
都心にそびえ立つ、ガラス張りの高層ビル。
俺はネクタイを締め直し、鏡の中の「まだ少しだけ死んだ目をしている男」に向かって、プロフェッショナルな仮面を貼り付けた。
今日は新規プロジェクトのキックオフだ。相手は業界でも《《鉄の女》》と噂される辣腕のマーケティング部長だと聞いている。
「お待たせいたしました。担当の者が参ります」
受付の女性に案内され、最上階に近い応接室で待つこと数分。
カツカツと、硬いヒールの音が廊下に響く。その規則正しいリズムだけで、相手がどれほど自分を律している人間かが分かった。
「お待たせしました。本年度からこのプロジェクトを統括します、佐伯です」
開かれたドアの向こうから現れた人物を見て、俺の思考はコンマ数秒、完全に停止した。
隙のない濃紺のパンツスーツ。一分の乱れもなくまとめられた髪。知的で鋭いフレームの眼鏡の奥から放たれるのは、甘酒を啜っていた時のあの虚脱感など微塵も感じさせない、冷徹なまでのプロの視線だ。
「……あ」
柄にもなく、間抜けな声が漏れた。
彼女だ。北の海に入水自殺しろというおみくじに悪態をつき、俺の離婚劇を「様式美」と切って捨てた、あの元旦の戦友。
だが、彼女の瞳に動揺はない。
俺を初めて会うベンダーの一員として、冷徹なビジネススマイルで射抜いている。
「……何か? 私の顔に、何か付いていますか?」
「いえ……失礼しました。あまりに、その、身の引き締まるようなプレゼンスだったもので。本日からお世話になります、佐藤です」
俺はあえてビジネスの仮面を被り直し、名刺を差し出す。彼女はそれを受け取り、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、眼鏡の奥の瞳を悪戯っぽく細めた。
「佐藤さん、ですか。……いいお名前ですね。非常に『中吉』な安定感を感じます」
……確信犯だ。彼女は、すべてを覚えている。
「ありがとうございます。……そちらのプロジェクト方針も拝見しました。非常に、『北へ向かう』ような攻めの姿勢を感じ、感銘を受けております」
俺が皮肉を返すと、彼女の口角が、ほんの数ミリだけ上がった。
俺が皮肉を返すと、彼女の口角が、ほんの数ミリだけ上がった。
そこからは、情け容赦のない「仕事」の時間だった。
「では佐藤さん。このプロモーション案、予算に対してリターンが《《凶》》に近いわ。やり直し。明日までに」
彼女が資料をテーブルに放る。
あの日、俺に「死ぬなら北の海にしろ」と言い放った冷酷さが、今はビジネスの切れ味として牙を剥いていた。
「……明日、ですか。ずいぶんと急進的ですね。まるで『待ち人来たらず』のような絶望感をお客様に与えるわけにはいきませんが?」
「ええ。ですから、あなたが私の『待ち人』になれるかどうかを試しているの。期待外れなら、即座に縁切り神社へ直行していただくわ」
周囲のスタッフたちが、ピリついた空気(実はただの高度な煽り合い)に息を呑む。
俺は負けじと、ノートPCを叩いた。
「承知しました。では、この『大吉』な修正案はどうでしょう。ターゲット層の動線を神の導きのごとく再構築しました。これなら、あなたの厳しい審美眼も納得されるはずだ」
「……ふん。口の減らない男ね」
佐伯部長は、俺が提示した修正案を凝視し、小さく鼻を鳴らした。
そして、会議室のモニターを指差し、さらりと致命的な指摘を繰り出す。
「佐藤さん。理屈は通っているけれど、これ、ワクワクしないわ。あの日、神社の境内で聞いたあなたの愚痴の方が、まだ人間味があった。……あ、失礼。今の独り言です」
彼女は涼しい顔でタブレットを閉じ、椅子から立ち上がった。
「それでは始めましょうか。時間は有限です。……お互い、失った時間を取り戻すためには、効率的に動かないといけませんから。仕事でもね」
去り際、すれ違いざまに彼女が小さく囁いた。
「……ネクタイ、曲がってるわよ」
神社で厄を落としてきたはずなのに、どうやら神様は、新しい「厄介な縁」を俺の前に放り投げたらしい。
それも、最高に刺激的なやつを。




