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山にいるモノ

作者: 榎や
掲載日:2025/11/20

 紅葉シーズン前の山の中。鳴海一花は、立ち止まって深呼吸をした。


「はぁ、空気が美味しい! 山最高!」


 周囲に見えるのは、紅葉にはまだ早いが緑の木々が美しい山並みだった。

 ここは燃焼岳。

 標高2400メートルの活火山である。

 岩の多い山道には、梯子や崖沿いに鉄板を渡した道などのある難易度中級者向けの山だったが、いろいろな花が見られることでも有名であった。

 片側は切り立った斜面になっていて周囲の山もよく見える。

 ここは有名な高山が数多くあることでも有名で、その谷あいには川が流れ、その周辺は観光地にもなっている。

 ここからでも川や池が見え、遊歩道に多くの人の姿も小さく見えた。

 そして、登山者たちの道しるべにもなっているホテルの赤い屋根が目をひいた。

 燃焼岳は隣の山々への縦走路によく使われる山で、山頂手前に山小屋がある。

 そこに宿泊してから隣の山へ向かう人が多かった。

 そのためか早朝から登っていても、登り始めに2人ほど追い越されて以来人に会っていない。

 一花の登山歴は4年だが、夏山をいくつか友人と登る登山には慣れている程度のレベルだった。

 今回は自分の力量を試してみたくて初めてのソロ登山であった。

 思った以上にきつい傾斜と岩の足場が多く、予定より少し遅れている。

 道は更に岩場が増えてきて一花の膝より高い岩を乗り越えて登っていく。

 しばらく歩くと、長い梯子のかかる切り立った崖が見えた。

 その梯子にはひとりの登山者が上っていた。

 水色のウィンドブレイカーを着た男性だった。

 グレーの帽子から覗く白髪から初老とわかる。

 梯子の下までたどり着いた一花は、その登山者が登り終わるのを待つことにした。

 もし同時に登って、初老の登山者が足を踏み外したら巻き込まれる危険があるからだ。


 あそこに竜胆が咲いてる。

 あっちはシモツケかな。


 一花はスマホで撮影しようと傾斜面に近づいた。

 少し離れた場所に赤い実もなっている。


 あれは何の実だろう。

 あ、ホシガラスだ。


 一花は夢中でスマホのシャッターをきった。

 そうして気がつけば、もうとっくに初老の登山者は梯子を登り終えて姿が見えなくなっていた。

 一花も梯子を登ったが、登山者はもう見えなかった。

 その後も短い梯子を登ったり、崖沿いに設置された鉄板の足場を渡ったりと緊張感のある道が続いた。

 だが山小屋までの道のりはまだ長かった。


 思ったよりもしんどいな――。


 ひと息ついて歩き出そうとしたとき、頭上で鳥の鳴き声のような、悲鳴のような声が聞こえた。


 え? 悲鳴? 

 いや、もしかしたら鳥の鳴き声か猿の鳴き声かも――


「な、何をするっ。やめるんだ!」


 大きな岩の上方から人の声が確かに聞こえた。

 一花は驚いて立ち止まった。


「やめなさい! やめ――ぎゃっ」


 ゴッゴッと重い音がして声が止んだ。


 ――なんだろう。

 まさかさっきのおじさんが熊に襲われたのかな。


 そう思うと急に怖くなった。

 こっちは女ひとりだ。

 何か起きても対処できるか自信がない。


 でも、同じ登山者として何かあったのなら、助けなくちゃ。


 一花は気配を殺してそっと山道を外れ、大岩を反対に回るようにして登った。

 岩陰から顔を半分だして覗いてみると、傾斜面で2人の男がもみ合っていた。

 ひとりは倒れていて、もうひとりが馬乗りになっている。

 倒れている方は、あの初老の登山者だ。


 ――え? 嘘、喧嘩?


 馬乗りの男の手に何か握り締められている。


 あれって……ピッケル……かな。

 雪山でもないのにあんなの持ってるなんて――


 そう思っていると、男がピッケルを振り上げて初老の登山者へ振り下ろした。

 一花は悲鳴を上げそうになる口を両手で押さえた。

 ひゅっと息を飲み込む音だけが手で押さえる前に漏れ出たが、風がそれをかき消した。

 男はもう一度ピッケルで殴りつける。

 男の顔は着ている黒のウィンドブレイカーのフードで見えないが、若い感じはする。


 もし私に気づいて襲ってきたら、逃げ切れるかわからない。

 あの人がいなくなるまで隠れていた方がいいかもしれない。


 一花は息を潜めて男の動向を見守ることにした。

 男は初老の登山者のザックを物色していて今は背を向けている。

 よく見れば、男の格好は中級者レベルの山を登るにしてはおかしかった。

 ザックはタウン仕様の安いものらしかったが、小さく中身があまり入っていないようだった。

 靴も運動靴でこの手の山に適しているとは言えない。

 ベージュのチノパンに黒のウィンドブレイカーだけで登っているとしたら、ここから先は気温が下がるし、雨でも降ったら凍えて低体温症になるリスクもある。

 そして何よりも手にしているピッケルだ。登山専門の基本装備は持っていないのに、それだけは新品を所持している。どうにもちぐはぐしていておかしい。

 男は、自分のザックの中身を出し始めた。

 中から出したのはナイフと鉈だった。

 そしてそれらを初老の登山者のザックに入れて立ち上がる。

 一花は慌てて地面に伏した。

 位置的に見えないとは思うが、それでも立ち上がった男の方が傾斜の上に立っているので、角度によっては見えるのではと緊張が走る。

 少しの間、男が動く気配は感じられなかったが、ウィンドブレイカーの布擦れの音と共に歩きだした。

 何か大きな物を引き摺るような音と共に歩く音が遠ざかっていく――男はまったく動揺していないようだった。

 走るわけでも小走りするわけでもない歩調から慌てている様子は感じられない。


 強盗行為は今日が初めてじゃないのかも。


 そう思うと余計怖さが込み上がる。

 喉がカラカラに渇いて何度も唾を飲み込む動作をしたがうまくできなかった。

 それから男の歩く音が消えてもすぐに動かず、しばらく経ってから体をゆっくりと起こした。

 辺りを見回してあの男がいないか確かめる。

 男と倒れていた初老の登山者の姿はなくなっていた。

 一花は立ち上がり、倒れていた場所に行ってみた。

 地面には暴れた痕跡が生々しく残っている。

 よく見れば、引き摺ったような跡があった。


 おじさん、無事だったのかな。

 ピッケルで殴られてたし、怪我してるかも。


 心配になった一花はその跡を辿ってみることにした。

 それは山道を横切って反対側の崖面へと続いていた。

 恐る恐る崖下を覗いてみると、あの水色のウィンドブレイカーが見える。

 一花の首筋がぞわぞわと総毛立った。


「大丈夫ですかあ……」


 大声を出す勇気はなく、やや大きめに声をかけてみた。

 頭を坂下に俯せたまま返事も動く様子もない。


 死んじゃったのかな……。


 一花は警察に電話をしようとスマホを取り出した。


「あれ? ここ圏外なの?」


 最近はどこの山でも割と電波が繋がっているので、圏外マークを見て急に不安と孤独感に襲われる。


「どうしよう――」


 こんな急な斜面を下りて二次遭難するのも嫌だし、電波がないなら余計に危険は冒せない。


 こういうときは、山小屋か下山して山岳救助隊に連絡した方がいいかも。

 私ひとりでどうにかできることじゃない。


 一花は、崖下に倒れている登山者の写真を撮って記録した。

 登山アプリを開いて、現在地をスクショで保存しておくと、上に行くか下に行くか考えた。


 ここからなら山小屋の方が近いけど、さっきの男の足音は上へ向かっていった。

 もし山小屋であの男と遭遇しても、顔がわからない――だったら、下山した方が確実かもしれない。


 そう判断した一花は、来た道を戻ることにした。



 山は登りよりも下りの方に大きな負担があると言われている。

 片足ごとに体重の何倍もの負荷がかかるからだ。

 登山は好きだが運動が好きなわけではない一花にとって、この下山は想定外の負担だった。


「うわあ、膝が痛いっ。事務職にはキツいよぉ」


 登山時はサポーター機能付きのスパッツを装着してストックで足腰の負担を極力減らすようにしているけれど、今はストックなんか使っている場合ではない。

 岩が多いので慎重にとは思っていても、恐怖が先走って足が速まってしまう。

 そして、ようやく初老の登山者を初めて見かけた梯子を下りると、膝がガクガクとわらっていることに気づいた。


「はぁはぁ……やばっ、膝がわらってる。ふふふ……はぁはぁ……」


 休憩なしでずっと小走りに下りてきたから足を止めた途端、呼吸が乱れて疲れがどっときた。

 ザックから水筒を取り出して残っていた水をがぶ飲みする。上がった息が落ち着くのを待つ間、崖側の開けた景色に目を向けた。

 登るときに見た同じ景色なのに、今はやけにホッとする。

 ここから見える赤い屋根のホテルのある場所に早く戻りたい。

 人のいる場所に行きたい。

 そのとき、人の声が聞こえた。


「――おーい、おーい」


 何処から聞こえてくるのかと、耳と目を凝らした。


「おーい、おーい」


 近くからではなかった。

 遠く――向こうの山から聞こえてくる。

 一花は目が良かった。

 声の聞こえる方の山へ目を凝らして見ると、向かいの山の山道らしきところで黒い人影が両手を挙げて手を振っている。


「おーい、おーい」


 その人は、一花に向かって手を振っているようだった。


 向こうもこっちが見えてるのかな。


 ちょっと前に殺伐とした事件を目の当たりにしていたので、呑気に手を振っている人が微笑ましくて、一花も片手を挙げて振り返した。


「おーい!」


 その人は、先ほどよりも大きな声を出した。

 それと同時に真っ直ぐ山を駆け下りだした。


「――え?」


 その人が駆け下りているところは、山道ではなかった。

 木々の間をヌルヌルと避けながらすごいスピードで走ってくる。


 あれ? 何あれ。

 え? あれ、人……じゃない?


 そう思った途端、また恐怖が一花を襲った。

 一花は血相を変えて走り出した。

 熊かもしれない。

 あの黒いものに追いつかれるのは危険だ。

 強盗の男も危険だが、こっちのは本能的に忌避したいと感じるものだった。

 急いで駆け下りていくが、大きな岩が道の段差になっている山道は、簡単に駆け下りることができない。

 それでも迫る恐怖に一花は無我夢中で岩を飛び降り、坂を駆け下りた。


「あっ――!」


 岩のひとつに足を滑らせた。

 土とコケのついた岩を乱暴に駆け下りたらそうなるのは当然だ。

 落ちたところにあった木の根に乗り上げ、足を捻って横に転んだ。

 しかし、転んだ先は下へ向かって傾斜していた。


「きゃっ――」


 悲鳴は地面に肩と頭を続けてぶつけたときに止まった。

 そのまま頭から斜面を転がり、横に縦にと体を転がしながら落ちていった。


 死ぬ――。


 それしか頭に浮かばない。

 岩や木にぶつかりながらごろごろと転がり落ちて、最後に細かく枝を生やした低木に体を真横からぶつけて止まった。


「――い……痛ぁあ……」


 胸や腰が痛い。

 息が詰まる。

 それ以外にも手足が打ち身のせいで動かすと鈍痛が走る。

 それ以外にも違う痛みが被さるように襲ってくるのでそっとしか動かせない。

 息も絶え絶えに手足を動かし、どうなっているのか見下ろすと、服やスパッツが破けてそこから血が出ていた。


 やっちゃった……。


 ソロ登山で一番怖いのは、怪我をして身動きできなくなることだ。

 スマホが使えなければ、自力で下山するしかないからだ。


 とにかく現状を把握しなくちゃ――


 そう思って体を起こそうとしたとき、下の方から何かが近づいて来る音がした。何かが駆け上がってくる音だ。

 一花は咄嗟に手足を茂みに隠し、息を大きく吸って気配を潜めた。


「おーい、おーい」


 あの声が聞こえてくると、黒い影が一花の真横を走り抜けていった。

 それは人と形容していいのかわからない生き物だった。

 確かに人の形らしくはあったが、全身が影のように黒く、細長い。

 とにかく不自然に手足が長い。

 テナガザルに近いが、身長が2メートルくらいはあり、全身に毛らしいものは感じられない。

 裸なのかそういう服なのかもわからない。

 だらりと垂らした手は地面に着きそうで、長い足は膝を曲げて器用に走って行く。


 何、あれ……エイリアンみたい……でも、そんなのいるわけない。

 え? だったらアレはいったい何?


 同じ問答を繰り返すばかりで思考がうまく働かない。

 黒い人物は山道に駆け上がった。

 そこでキョロキョロと何かを探している素振りを見せ、「おーい」と大きな声を上げていたが、そのうち山道を下って走っていった。


 この山、いったい何なの?

 強盗殺人に化け物? 訳わかんない……。


「ああ~、もういったい何なのよ! なんかすごく腹が立ってきた」


 急に自分が巻き込まれている理不尽な事態に腹が立ってきた。


「どうして私が、こんな目に遭わなきゃいけないのよ!」


 怒りながら一花はゆっくりと体を動かした。

 そして、どこも折れていないことを確認してから、起き上がった。

 怒りのせいか、先ほどよりも痛みがない。

 それでも動かせば息が詰まるほど痛いところもあったが、それも怒りの方が勝っていて我慢ができた。

 どうやら葉の茂る枝が服やザックに引っかかって、それが緩衝材になったようだった。

 ただ右足の脛と膝の擦り傷がひどく、血が結構流れている。

 岩にぶつけたのか抉れた肉が盛り上がって気持ち悪い。

 一花は傷む腕からどうにかザックを下ろすと、中からテーピングテープと消毒液とガーゼハンカチを取り出した。


 いざというときのために重くてもいろいろ持ってきていてよかった。

 山は自己責任。

 サバイバル術は本で読んだ。


 一花は水筒の水で傷口を洗って、消毒液をかけてからガーゼハンカチで患部を押さえてテーピングで服の上からグルグル巻いた。

 締め付けたことで足首を動かせるようになった。


 これで何とかなったかな。

 あとの怪我は後回しだ。

 それより今は山道に戻って下山を急ごう。

 もうここにいたくない。


 足を引きずりながら根が抜けにくい熊笹や木の根を掴んで這い上がっていく。


「あの、大丈夫ですか?」


 山道の近くまで上がってきたとき、上から男の声がした。

 グレーの帽子を被った登山者だった。


「引き揚げますから、僕の手に摑まってください」


 グレーの帽子の登山者は、木に片手でしがみついて身を乗り出し、一花に手を伸ばした。

 一花はその手を取った。


「ありがとうございます。痛っ――」


 山道に戻ってきた安堵からか、急に全身が痛くなった。

 男の登山者は心配そうな顔で怪我をした足を見ていた。


「けっこうひどい怪我ですね。歩けますか?」

「えっと、はい。骨折はないみたいですし、ストックを杖代わりにすればどうにかなりそうです」


 そう言いながら一花は荷物からストックを取り出した。

 2本使いにしようかと思ったが、片手は空けておきたくて1本だけにする。


「もうじき日も暮れますし、僕も付き添いますよ。まだ足場が悪いところがありますからね」

「でもそれだとあなたの下山予定が遅れちゃいますから――」

「いやいや。こんな怪我した人を放っておく方がダメでしょう」

「それじゃあ……よろしくお願いします。正直心細かったんで助かります」

「うん、じゃあ、立てる?」

「あ、はい」


 何とか立ち上がってストックを杖に足を動かしてみた。

 痛いが歩けそうだ。


「ところで、急いでいたんですか?」

「そうなんです。実は……山小屋に着く手前で人が襲われているのを目撃したんです。スマホが繋がらないから下山して人を呼ぼうと思いまして」


 あの黒い生き物のことは信じてもらえないだろうから黙っていよう。


「なるほど。そうだったんですね。だったら急がないと」


 男の登山者は何か考える風を見せて頷いた。


「あなたは先に行ってください。僕が後ろからついて行きます」

「わかりました」


 一花は足に負担のないようストックを使いこなして下り始めた。

 ここからでも登山口までまだ距離がある。

 夏から秋にさしかかったこの時期は日が暮れるのも早い。

 しかし、怪我をした一花の足どりは遅く、痛みで力むせいか体力の消耗も早かった。

 ぜぇーぜぇーと喘ぐ息づかいだけが山道に聞こえた。


「ちょっと休憩しましょうか」


 突然男の登山者が声をかけた。

 先を急ぎたいが、一花の体力もそろそろ限界に近かったので、素直にその場に腰を下ろして、ザックから水筒を取った。


 そういえば、お互いに自己紹介もしてなかったな。


 気が急いていたため、そんなことも忘れていたと、一花は小さく笑って男の登山者の方を振り向いた。

 すると、いつの間にか目の前に男の登山者がいた。

 片手を振り上げているその手にはピッケルが握られている。

 一花は咄嗟に横に転がった。

 その直後、一花がいた場所にピッケルが振り下ろされ、地面に突き刺さる。


 ――そういえば、あのグレーの帽子、おじさんが被っていたのと同じだ。


 男がピッケルと地面から抜き取り、一花の方を振り向いた。


「なんで振り返るかなあ……」

「あなた、さっきの強盗!」

「ったく、なんか声が聞こえたから、気になって下山して正解だったな」

「わ、私、声なんて出してないけど」

「出してただろ。おーい、おーいって。まさか人を呼んでんじゃねぇかと思ったけど、1人ならラッキーじゃん」


 男の目がギラついた。

 一花は怪我した足を引きずって後ろに下がるが、男の一歩にすぐ追いつかれ、男が一花の上に跨がった。


「ほら、声出して助けでも呼べよ。おーいおーいってよお」


 男がピッケルと振り上げた。

 そのとき、遠くから声が近づいてくるのが聞こえた。


「――ぉーぃ、ぉーい、おーい!」


 山道からすさまじい速さで駆け上がってくる黒い人影。

 夕暮れの中だとより濃く影のような存在になっている。

 顔の部分は、目鼻が見えず、口だけがぽっかりと赤黒く見えた。


「な、なんだ? ――うわぁっ!」


 突然現れた黒い異様な化け物を見た男は呆気にとられていた。

 そこに黒い人物は襲いかかった。

 地面に仰向けに倒れていた一花の眼前で、男と黒い人物が横に転がっていく。


「なっ、離せっ! この!」


 男は黒い人物の長い腕が体に巻きついてくるのを必死にもがいてピッケルを振り下ろす。

 ピッケルは黒い人物の背中に突き刺さるが、血を流す様子はない。


「離せよ、は・な・せっ!」


 男は何度もピッケルを振り下ろしたが、黒い人物は腕を男に巻きつるように抱きしめたまま離れない。

 そして、目鼻が見えない口だけの顔が男の顔に近づいた。


「おーい!」

「このっ、バケモノめぇ!」


 一花は揉み合いになった2人を横目に体を起こして走った。

 引き摺る足はストックに重心を預け、ほぼ片足で飛び跳ねるように岩の段差も砂利を含む土の上も無我夢中で駆け下りた。

 背後で男の悲鳴のようなものが聞こえたが、立ち止まって確認もしなかった。

 ただ早く人のいる場所に戻りたくて、足の痛みよりもその一心で走り続けた。

 下り坂の傾斜が徐々に緩やかになり、小川を渡り、人の手が加わった舗装路に出た。

 その頃には日も傾き、薄闇に染まって辺りがぼんやりした闇に包まれていた。

 さっきまで爽やかに見えていた木々は、黒い影となって鬱蒼として見える。

 でも、登山口に戻ってこれたのだ。


「やった……戻ってこれた……」


 自然と涙が零れそうになった。

 でも、ここからホテルのある場所までは3キロくらいある。

 一花は、痛む足を引きずって歩きだした。

 すると、向かう先から歩いてくる人影があった。

 こちらに気づいたのか、手を振っている。


 ホテルの人が心配して迎えに来たのかな。


 一花は手を振る人影に向かって笑顔で手を振った。

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