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聖女に選ばれなかった私が聖女を選ぶまで



窓辺から差し込む爽やかな風、時折響いてくる小鳥たちの囀り。

教会の一角にある小さな礼拝堂には、静けさに包まれた穏やかな時間が流れていた。

祈りを捧げる人々の先頭で、ノエリアは目を瞑って両手を胸の前で組み、祈りの言葉を紡ぐ。

しばらくして目を開くと、穏やかな顔でこちらを見下ろしている始祖の女神像と目が合った。

ノエリアはくるりと後ろを振り返り、柔らかな笑みを浮かべ、口を開く。


「皆様に聖女様のご加護が与えられました」


ノエリアの言葉を聞いて、人々は組んでいた手を解く。

さっと席を立ち出ていく者、ぼーっと始祖の聖女像を見上げる者、それぞれが自分の心のままに祈り、礼拝堂を後にする。

最後の一人が出ていくのを見届けて、ノエリアは礼拝堂の扉を閉めた。

片隅に置かれた時計を確認すると、すでに時刻は午前9時を回っていた。


「もうこんな時間!今日は聖女様がお出かけになる日だから、急がないと…」


慌てて荷物を持ち、裏口から出て本堂へと繋がる廊下を小走りに進んでいく。

聖職者しか通れない道を進んでいき、なんとか予定時刻の少し前には聖女の部屋にたどり着いた。

息を整えて、扉をノックする。


「聖女様、ノエリアです」


声をかけて扉を開けると、聖女ティエルはネグリジェ姿のままドレッサーに向かい、香水を選んでいた。


「やっと来たの?今日は伯爵のお屋敷に行くのだから、早く準備してよね」

「申し訳ございません。すぐに湯浴みの準備をいたします」

「あぁ、あとあのドレス着ていくから。出しておいて」

「…かしこまりました」


あのドレスとは、先日新たに購入したもののことだろう。

純白に美しいレースの刺繡が施された正に聖女を表すような一品。

その細部には宝石が散りばめられており、まるでティエル自身が光を放っているかのように、その輝きが遠くからもよく見えるように作られていた。

そのような高級なドレスを、ティエルはいくつも所有していた。


この服一つで、多くの貧しい民が救えるのに。


ティエルが聖女に選ばれたのは、二年ほど前になる。

前聖女は役目を終えて、本部から遠く離れた僻地の支部へと異動になり、そこを治めている領主の息子とよろしくやっていると噂で聞いた。


ノエリアは大きなクローゼットの扉を開け、ドレスを取り出す。

結婚式でもあげるのかと思う程のボリュームあるドレスを両手に抱え、ノエリアは小さく溜め息をついた。




―――――




「お気をつけていってらっしゃいませ」


豪奢な馬車に乗り込んだ聖女一行の出発を、頭を下げて見送る。

姿が見えなくなると、隣にいた後輩のリネッタが、怒り心頭といった様子で声をかけてきた。


「なんなんです!あんなに宝石をギラギラさせて!パーティーにでも行くんですか!」

「…お祈りに行かれたのよ」

「わかってますよぉ!でも、聖女様はもっと清らかで、献身的で…」


不満げな顔で、リネッタが俯き加減にぼそっと呟く。


「ノエリア先輩が聖女様に選ばれれば良かったのに」

「リネッタ、そんなこと言ってはだめよ」


でも、と顔をあげて、リネッタはぐっと堪えるように俯いた。


「…ごめんなさい」

「でも、そう言ってくれるのは嬉しいわ。ありがとう」


ノエリアが優しく微笑むと、リネッタも安心したように笑みを返した。


残念ながら、私が聖女に選ばれることはこの先もない。

そんなことはとうの昔に分かっている。


聖女に選ばれるためには、長年にわたりシスターの務めを全うしていることは勿論、読み書きの能力や国中の文化、歴史に関する知識など、高い教養が求められる。

その点において、幼い頃より教会で過ごし、真面目にシスターとしての役割をこなしてきたノエリアは、高い評価を得ていた。

それでも、今まで聖女に選ばれることはなかった。

その理由はただ一つ―――容姿。


癖のある赤茶色の髪、そばかすのついた肌。

その庶民的な見た目は、人々の想像する美しい聖女の姿とはかけ離れていた。

その一方で、ティエルは正にイメージの中の聖女そのものだった。

華やかで明るいベージュ色の長い髪は光に反射してキラキラと輝き、丸い大きな瞳は大空のように青く透き通っていた。

白い肌に浮かぶピンク色の唇と頬が愛らしく、彼女は聖女としても女性としても完璧な容姿をしていた。


見た目が良ければ、人が集まる。

人が集まれば、献金が増える。

特に聖女信仰の強いこの国では、美しい聖女はそれだけで有力貴族の支持を得られた。

すべては教会が潤うための仕組みであり、聖女もその一部に過ぎない。

そんなことは、シスターの誰しもが気付いていることだ。


本来の聖女とは、そんなものではなかったはずなのに。


「はぁー、お腹すいちゃいました」

「そうね。午後のお祈りまで時間もあるし、一緒に昼食を取りましょうか」

「はい!早く行きましょう!」


先程の様子とは打って変わって、楽しそうにリネッタが駆け出す。


私にとって、聖女になることが目標じゃない。

人々のために祈りを捧げ、誰かの心の支えになれるのならば、私が何と呼ばれようと関係ない。


「せんぱーい!」


いつの間にか遠くまで行ってしまったリネッタが、こちらを見て大きく手を振っていた。

そのシスターらしからぬ子供のような姿に、ノエリアは思わずくすっと笑い、彼女を追いかけた。




―――――




礼拝堂に佇む小さな始祖の聖女像の前で、男は膝を付き、静かに祈りを捧げていた。

彼はここ数ヶ月、毎日のように礼拝堂に通っていた。

妻が病に倒れ、寝たきりの日々が続いていると話してくれたことを、ノエリアは覚えていた。

ノエリアは男の後ろで静かに膝を付き、始祖の聖女像を見上げる。


始祖の聖女とは、この国の聖女信仰の起源となる人物である。

聖なる力を持ち、その力で人々の傷や病を癒す旅をしていたという。

彼女の亡き後、聖なる力が誰かに発現したという伝承はない。

もはや神話とも言える程の伝説だが、それでも彼女は今に至るまで人々の希望の象徴となり続けた。

現代の聖女は、そんな彼女を模した、唯一始祖の聖女と繋がれる存在だと信仰されている。


ああ、始祖の聖女様…どうか、彼と彼の妻の心をお救いください


ノエリアは目を閉じ、祈りを捧げる。


シスターは医者ではないし、聖なる力も持っていない。

私が祈ったところで、彼の妻の病が治るわけではない。

けれど、何かに縋らないと立ち続けられない人の隣で、共に祈ることはできる―――


ノエリアが目を開けると、祈りを終えた男がこちらを向いて悲し気に微笑んでいた。

わざわざ自分の祈りが終わるのを待っていてくれたのだと分かり、ノエリアは慌てて男を見送ろうとすると、男が静かに口を開いた。


「昨夜、妻は旅立ったんだ」


ノエリアは驚きで目を丸くした後、再び手を組み、彼に向かって小さく頭を下げた。


「そうでしたか…奥様の安らかな眠りをお祈りいたします」

「最期は苦しまず、穏やかに逝けたよ。だから今日は、聖女様にお礼をお伝えしに来たんだ」

「必ずや、聖女様が奥様を導いてくださります」


男は頷き、目を細め優しげな表情でじっとノエリアを見つめた。

彼が何を考えているのかわからず、ノエリアは少しだけ首傾げる。


「…妻は元々体が弱くてね、周りの人間はおろか、妻でさえも自分が治ることを諦めていたんだ。妻が元気になる日を信じて過ごしていたのは、俺だけだった」

「…奥様にとっては、それが一番心強かったことでしょう」

「あぁ、そうだね。妻の前ではいつも明るく振舞っていた。でも、一人で信じ続ける日々は、苦しかったよ」


病に苦しむ妻をたった一人で支える彼の生活を想像すると、ノエリアは胸が締め付けられるようだった。


「でも、ここに来ると、貴女が一緒に祈ってくれた。その時間だけは、俺は一人じゃなかった。…ありがとう、シスター。貴女のおかげで俺の心が救われていた」


予期せぬ言葉に、ノエリアは何も言えずに男を見上げて瞬きだけを繰り返していた。

シスターであるノエリアにとって、人々のために祈ることは、当たり前のことだった。

それに、人々が感謝するのは聖女であって、一介のシスターである自分にそれが向けられるとは思ってもいなかった。


「シスター、貴女にも聖女様のご加護がありますように」


男はそう言い残して、穏やかな笑みを浮かべたまま、礼拝堂を後にした。

去り行く彼の背を見つめながら、ノエリアは自身の胸が温かくなるのを感じていた。




―――――




枢機卿の呼び出しから帰って来たティエルは、誰が見てもわかるほどに大層機嫌が悪かった。

「お帰りなさいませ」というノエリアの挨拶も無視し、ストールや髪飾りを投げ捨てるよう外していく。

それらを一つずつ拾いながら、ノエリアはティエルの様子を伺い見る。


機嫌が悪い理由は見当がついていた。

王都近くの町、ランシェルで発生した、原因不明の病。

感染力が非常に強く、未だ治療方法が確立しておらず、重篤化する者が後を絶たないらしい。

そこに祈りを捧げに行くよう言われたのだろう。


ティエルはドレッサーに座り、怒りを露にして口を開いた。


「なんで私がランシェルまで行かなきゃいけないわけ!?」


ノエリアはティエルの髪を梳かしながら、なるべく彼女の機嫌をこれ以上損ねないよう言葉を選ぶ。


「ランシェルの民は皆、貴女様を求めているのでしょう」

「聖女が行ったところで、別に治るわけでもないじゃない」


治る治らないの話ではない。

皆、縋るものが欲しいのだ。


「ですが…聖女様のお姿を見ただけでも、民の心は救われます」

「そんなもののために聖女を呼びつけて、私が病気にかかったらどうしてくれるのよ」


ティエルの気持ちもわからないわけではない。

病気が蔓延している地域に聖女が呼ばれることは過去にもあったし、遥か昔には戦場に赴いたこともあったらしい。

歴代の聖女はそういった危険な任務にも真摯に取り組んできた。

だからこそ、今でも聖女信仰が強く受け継がれている―――近年では、そういった任務はなかったようだが。


「…いつこちらをお発ちになるのですか?」

「行かないわよ」

「…え?」

「行くわけないじゃない。たかだか一つの町の民と、聖女である私の体のどちらが大事だと思うの?」


ティエルの発言に、ノエリアは思わず手を止めた。

命に優劣をつけるような言葉。

それを民を救うために存在する聖女が、口にして良いわけがない。


ノエリアの心境に気付いたのか、ティエルは顔を顰めて頬杖をついた。


「なによ。何か言いたいことでもあるの」

「…いえ」

「祈りに行けと言いたいんでしょう」


ティエルの怒りの矛先が自身に向かい、ノエリアはぐっと口を噤む。


「だったら貴女が行けば?」


そう言った後、ティエルは意地悪そうにクスクスと笑う。


「まぁ、貴女が行っても誰も喜ばないでしょうね。聖女は私で、貴女はただのシスターなんだから」


ノエリアの櫛を握る手に力がこもる。

情けなさで、熱に侵されるように体が熱くなっていく。


ノエリアとティエルは年も近く、ティエルが聖女に選ばれる前は同期のようなものだった。

もしも年齢と能力だけで聖女が選ばれるのだとしたら、間違いなくノエリアかティエルのどちらかと言われていただろう。

現実には、ティエルの美しさの前に、ノエリアが選ばれる可能性など微塵もなかった。

ティエルもそれをわかっていたから、まるで聖女に選ばれたことを見せつけるかのように、ノエリアを側付きとして置いていた。


ぼんやりと、ノエリアの脳裏に過去の思い出が蘇る。

幼い頃、教会のシスターに教えてもらった始祖の聖女様のお話。

それに憧れて、私はシスターとなり、彼女のように人々を救える存在になりたいと思った。

それなのに、現実はあまりにも汚く、息苦しくて―――私のやっていることは、本当に正しいことなのかしら…


「行きます」

「…は?」

「私が、ランシェルに行きます!」


気付いた時には、そう言っていた。

鏡越しに睨み付けるティエルとは裏腹に、ノエリアの瞳は熱い決意に満ちていた。



―――――



「静かね…」


久しぶりに訪れたランシェルの町は、静寂に満ちていた。

飲食店や小売店が並ぶ通りも、普段の賑わいとは打って変わって人の姿が見えない。


「とりあえず、教会に行ってみましょう」


聖女はここへは来ない。

その伝令役を買って出ることで、遠出する許可が下りた。

「ランシェルに行く」と思わず言ってしまったことを、ノエリアは少し後悔していた。

自分が来ることでできることが何もないのはわかっていたし、そもそもあれは売り言葉に買い言葉というやつだった。

浅はかな感情で動いてしまった自分自身を恥じたものの、来たこと自体に後悔はない。


とはいえ、聖女様が来ないと知ったら、さぞガッカリするでしょうね…


ノエリアは修道服の上に羽織った上着の襟元をぐっと引き寄せて、教会への道を急いだ。




―――――




「おかしいわね…」


教会の敷地へ立ち入るための正門は閉じられ、鍵がかけられていた。

教会は、誰もが等しく祈りを捧げられる場所でなくてはならない。

その教えの下、例え教会の建物自体が閉められていても、その手前の礼拝堂までは本来開けられているべきだ。


中に入ることができずノエリアが困っていると、正門の柵越しにローブを身に纏った男が礼拝堂の前を歩いている姿が見えた。


「すみません!」


ノエリアが声をかけると、男は驚いたようにこちらを見た後、逃げるようにノエリアに背を向けた。


「あの、私、教会本部から来たシスターノエリアと申します!」


その声を聞くと、男はぴたりと足を止めて振り返り、再度ノエリアを伺い見る。

ノエリアの修道服を見て納得したのか、小走りで正門の方へと近付いてくる。


「ご伝言があり訪問を―――」

「聖女は来ているのか!?」


ノエリアが言い終わる前に、男は語気を強めてそうノエリアに言い放った。

その勢いにノエリアは一瞬たじろいだ後、小さく首を横に振る。


「聖女様は現在ご多忙により、しばらくはご訪問が難しいと…」


ノエリアの返事を聞いて、男は苛立ちを露にして頭を掻きむしった。


「どうせ行かないと駄々こねているのだろう!だからあんな我儘娘を聖女に選ぶのは反対だったんだ!」

「い、いえ…そんなことは…」


否定したくとも男の言う通りで、ノエリアはうまく答えられず言葉を濁す。


「貴族たちが聖女を待ってるのに、あぁもう!」


男の漏らした言葉に、ノエリアは僅かに顔を顰める。


貴族が待っている…?

町民たちへの祈りのために呼んだのではないの?


ノエリアは少し躊躇った後、男に向けて口を開いた。


「ところで、なぜこの正門は閉ざされているのですか?」


男はノエリアの疑問が馬鹿らしいとでも言うかのように、首を傾けてノエリアを見下ろす。


「ここを開けると祈りを捧げに民が押し寄せる。得体の知れない病原菌を持ってこられちゃ困るだろ?」

「そんな…!」


ノエリアは唇をぐっと噛み、言い返したくなる気持ちを堪える。


言い方は悪いが、彼の言うことには一理ある

教会に民が集まることで、より状況が悪化してしまうかもしれない


「…では、教会の者が町を回って祈りを捧げているのですか?聖女様にもそのようなご依頼を?」

「はぁ?あんたも本部にいるならわかるだろう!聖女が行くのは貴族の屋敷だ。病を恐れた貴族たちは皆、聖女の祈りを欲している!民への祈りなど一銭の価値にもならん!」

「価値など、祈りとはそのようなものではないはずです!」

「ただのシスターが私に口答えをするな!あんたの役目は本部に戻って聖女を連れてくることだ!わかったな?」


男はそう言って、ノエリアに背を向けた。


「お待ちください!」


ノエリアが呼び止める声を無視して、男はそのまま教会の建物へと入っていく。


―――聖女が呼ばれたのは、民の為ではなかった。


「それなら、私たちの祈りは、一体何のためにあるの…?」


ノエリアは掠れた声でそう呟き、悔しさに顔を歪め、決して開かれることのない正門の鉄柵を握り締めた。




―――――




どうすることもできないまま、ノエリアは正門前の階段に腰掛け、静かな町並みを見下ろしていた。


”聖女”でない私には、教会の門を開くことも、彼らの依頼に応えることも、何もできることがない。

唯一できることは、本部に戻って「貴族様のために聖女様の祈りを捧げてほしい」とお願いすることだけ。


ノエリアは膝を抱え、顔を埋める。


私だけが始祖の聖女様の思いを受け継ごうとしても、教会は何も変わらないのだわ。


「病院には始祖の聖女像があるはず…せめてそこで祈りを捧げてから帰りましょう」


重い腰を持ち上げ、長い階段を下っていく。

町へと繋がる道へと出た瞬間、突然声をかけられてノエリアは足を止めた。


「あの…シスターさん?」


声をかけてきたのは、赤子を腕に抱いた女性だった。

布にくるまれていて赤子の様子はわからないが、母親はひどく疲れているように見えた。


「えぇ、どうかされましたか?」


ノエリアがシスターであるとわかり、母親は安堵した様子でノエリアに駆け寄る。


「教会がずっと閉まっていたから、ここで待っていれば誰かに会えるかと思って…。どうかこの子のために、祈ってもらえないかしら」


そう言って母親が赤子を覆っていた布をめくる。


「これは…」

「…もうずっと、この子は高熱に苦しんでいるの」


真っ赤に染まった赤子の顔は痛々しい程発疹で埋め尽くされ、ぐったりと母親の体にもたれかかっていた。

時折苦しそうに顔を歪め、浅い呼吸を繰り返している。


「まだ赤ん坊だから、これ以上薬も使えないと言われて…、この子はずっと、ずっと苦しんでる」

「そうなのですね…」


ノエリアはそっと赤子の手を握る。

力の入ってない小さな手から、高い体温が伝わってくる。


「だから、もう苦しませたくなくて」


見上げた母親は、痛々しい表情で、口元に笑みを浮かべた。


「…どうか、この子が苦しまずに逝けるよう、祈ってくれないかしら」


ノエリアは驚きで目を丸くし、そう言った母親の顔をまじまじと見つめた。


彼女は、我が子の最期を悟っている―――

きっと今日まで、やれることをやりつくしてきたのだろう。

子の回復を信じて、自分の身を顧みず看病し、医者に縋って―――聖女様に祈って。

それでも治ることのない子のために、最後に願ったことが、「苦しまずに逝けること」なんて。


ノエリアは母親から目を逸らし、ぎゅっと瞼を閉じる。


祈らなければ、彼女の想いを―――


静かに深呼吸して、ノエリアは再度母親に目を向ける。


「…わかりました」


左手に赤子の手を握ったまま、右手を心臓の位置に重ね、目を閉じる。


どうか、どうかこの子か苦しまず、穏やかに、温かな次の人生へと―――




―――トクン、トクンと、小さな心臓の音が、響いてくる。


赤子の体温が、確かにノエリアの手を伝わって、腕を、体を、温める。




あぁ、この子は、生きている。




ノエリアは思わず、赤子の手をぎゅっと握りしめる。


始祖の聖女様、どうか今だけでも、私に聖なる力をお宿しください!

希望に包まれたまだ見ぬこの子の未来を、失わせたくないのです!

世界にたった一人になってしまったとしても、貴女様の想いを、必ず私は受け継いでいきます


だから―――!




「な、なに…?何なの、これ…!?」


母親の声に驚き、ノエリアは目を開ける。


「何が起こってるの…?」


手を重ねていた赤子の体が、柔らかな温かい光を纏っていた。

思わず手を離すと、赤子の体の光が消えていく。

母親は信じられないものを見ているかのように、震える手でノエリアを指差す。


「し、シスターさん、その体…」

「えっ?」


ノエリアは自身の手を見て、目を見開く。

光を放っているのは赤子ではなく、自分自身だった。

体中の血管を何かが巡っていくような感覚。

熱く、燃え上がるような、漲り。


初めて体感するそれを、ノエリアは直感的に理解していた。


これが、始祖の聖女様の”聖なる力”―――


考える間もなく、ノエリアは再び赤子に手を添える。

体の中を巡るそれが、手を伝い赤子に注がれていく。


「…ぅ、うぁ」


赤子の口から小さく声が漏れ、可愛らしい丸い瞳が開かれる。

口元に笑みを浮かべて、笑い声と共に赤子がノエリアに手を伸ばした。


「あ…私の、私の赤ちゃん…!」


それを見た母親が、崩れ落ちるように赤子を抱いたまま膝を付く。


「あぁ!本当に、本当にいらっしゃったのですね…!聖女様!」


母親にそう呼ばれ、ノエリアは我に返る。


「い、いえ!私は聖女では…」

「ありがとうございます!本当に…本当にありがとうございます…」


母親はノエリアを見上げてぼろぼろと涙を零した。

その姿にノエリアは何も言うことができず、屈んで母親の肩にそっと手を添える。


「…本物の、聖女様だ」


背後から誰かの声が聞こえ、ノエリアは驚いて振り返った。

そこにはいつの間に集まって来たのか、ランシェルの町民と思わしき人々が立っていた。


「どうか私の夫も助けていただけないでしょうか!」

「ママを助けて!」

「聖女様!」


戸惑うノエリアをよそに、駆け寄ってくる町民たちがノエリアの腕を引く。


「えっ、ちょっと…!」


ノエリアは彼らに促されるまま町中へと駆け出す。

ちらっと後ろを振り返ると、未だ蹲ったままの母親が安心したような優しい笑みを我が子に向けている姿が見えた。




―――――




それから約半月、ノエリアはランシェルで慌ただしい日々を過ごした。

その期間は、ノエリアにとっても聖なる力を理解するうえで重要なものとなった。

聖なる力は本人が持つ治癒能力を高めるものであって、特定の病に対する特効薬ではない。

病気を完治させるようなことはできず、当然死者を生き返らせることもできなかった。

また、想像以上にノエリア自身への負担が大きかった。

力を使った後は全力で走ったような疲労感に襲われ、休みなく使い続けることにも限界があった。


だからこそ、早々にランシェルの病院と手を組めたことは、ノエリアにとって大きな助けとなった。

町民に連れていかれた病院で力を使って治療するノエリアを見て、当初医者たちは驚きと安堵でノエリアを受け入れた。

しかし、力を使う度に息が上がっているノエリアの様子に、彼らは聖なる力への認識が間違っていたと気付かされた。

早急に方針を変え、ノエリアには重病者への最低限の治療を任せ、基本的な治療は病院側が行うこととなった。

それからは安定した状態で患者を受け入れることができるようになり、ノエリアも忙しいながらも落ち着いて過ごせるようになっていった。


そんな日々が続いていた、ある日。




「…教会本部から、すぐに帰ってくるように、と」


ノエリア宛に届いた手紙の内容を、共に過ごしていた病院の面々へと伝える。

そろそろだろうな、と予想はしていたが、実際にその手紙を目にすると、心苦しさに苛まれた。

教会の者が何度か病院に来ているのはわかっていた。

ノエリアを、聖なる力を見定めるような、異質な視線。

おそらく、早い段階で教会本部には報告があがっていたのだろう。

安定した医療のおかげで町も落ち着きを見せてきたとはいえ、まだ病に対する治療方法が確立していない今、町を離れるのは躊躇われた。


「…当然のことでございます。我々が聖女様を独占するわけにはいきません。むしろ、このような長い期間この町に引き留めてしまったこと、申し訳なく思います」

「そんなことはありません!私がやりたくて、ここにいたのですから」

「聖女様のおかげで、たくさんの命が救われました。本当にありがとうございます」


ちくり、と胸が痛む。


当然のように、皆は私を”聖女”と呼ぶ。

けれど私は、選ばれなかったから…


「…私は、ただのシスターです。本物の聖女様は―――」


ノエリアが言い終わるのを待たずして、院長がまっすぐノエリアに近付き、優しく手を取った。


「貴女様が何者であろうと、我々の感謝の気持ちは変わりません。どうか、お体に気を付けて」


慈愛に満ちたその瞳に、ノエリアは涙がこぼれそうになるのをぐっと堪え、彼の手に自身の手を重ねる。


「必ず…必ず戻ってきます」


そう約束し、ノエリアはランシェルを後にした。




―――――




教会本部に着いたノエリアは、一息つく間もなく、枢機卿の部屋へと連れていかれた。

そこで待っていたのは、ノエリアの想像とは裏腹に、えらく上機嫌な枢機卿と聖女の姿だった。


「長い間の不在をお許しいただき、ありがとうございました」

「そんなことはいい。それで、聖なる力が出現したのは真なんだな?」


ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべてそう言った枢機卿に、ノエリアは僅かに顔を顰める。


「…はい」

「よくやった!」

「ふふ、これでますます聖女を信仰する者が増えるわ」


枢機卿はともかく、今回のことを現聖女であるティエルが喜ぶのは不可解であった。

ティエルは枢機卿の豪奢な椅子の背もたれにもたれかかりながら、誘惑するかのように首を傾け、真っ赤な紅に染まった口を開く。


「その力、私にくれるわよね?」

「な、何をおっしゃっているのですか…?」


さも当然のごとくそう言ったティエルに、ノエリアは目を丸くする。

枢機卿をちらりと見るが、彼もまたノエリアが断わるわけがないと言わんばかりに頬杖をついてこちらを見ていた。


「…申し訳ありませんが、力の譲渡の方法は私にもわかりません」

「そうだろうとは思っていた。まぁ、それは追々調べていけば良いだろう」

「しかたないわね」


一旦二人が諦めた様子を見て、ノエリアは小さく安堵の息をついた。


「それなら、しばらくは二人で組んで動いてもらうことになるな」

「組んで動く…とは?」

「聖なる力を使う場面がきたら、貴女が私のフリをして使うのよ」

「聖女様のフリ、ですか?」

「そうねぇ、ヴェールでも被っていればいいんじゃないかしら」


突拍子もない提案に、ノエリアは困惑の眼差しを二人に向ける。


「聖女ティエルが聖なる力に目覚めたとなれば、教会の支持は一層高まるだろう」


教会にとってみれば、聖なる力を宿したのがノエリアだということは隠したいのだろう。

そうでなければ、教会の選んだ”聖女”が意味のないものになってしまう。


そうだとしても、聖なる力自体が正しい使われ方をするのであれば、ノエリアにとってそれは大きな問題にはならなかった。

ただし、それをやるには一つだけ問題があった。


「…ランシェルの民は、私が聖なる力を使っている姿を見ております。私が本部へ戻った途端、ティエル様が聖なる力を使ったとあれば、疑問を抱くかと」

「あぁ、そんなのは問題ない」


枢機卿は簡単にそう言ってのけた。


「どうせその者たちが聖女を見ることは二度とないのだからな」

「…え?」

「これからは祈りの対価を必須にして、有力貴族だけを相手にする」

「そもそも、聖女が一般市民のためにわざわざ足を運ぶ方がおかしいのよ。そんなのはそのへんのシスターが行けばいいじゃない」

「い、祈りの前では誰もが平等にあるべきではないのですか!?」

「お飾りの教えに何の意味があるというのだ。我々は聖なる力を保有しているのだぞ?これは王家も欲しがる力だ」

「平等であるからこそ、国家と教会は分離されているべきだと…!」

「今まではな。これからは、我々を味方につけた者が玉座に座る時代が来るだろう。もはやそれは、我々が国家の軸であるといっても過言ではない」

「なんてことを…!」


ノエリアは震える体を抑えるように、右手で自身の左腕をぐっと掴む。

今まで感じたことのない、激しい憤り。

シスターとして生きてきたノエリアにとって、始祖の聖女の想いを踏みにじるような発言は、到底許せるものではなかった。


「…わかりました」


ノエリアの返事に、ティエルが嬉しそうに飛び跳ねる。


「早速先日の伯爵様のお宅に行きましょう?ほら、格好いい跡取り息子がいたじゃない―――」

「今限りで、教会を離れさせていただきます」

「…は?」


ノエリアは手に持った鞄を肩にかけ直し、二人に頭を下げる。


「今までお世話になりました」


踵を返して出ていこうとするノエリアを、慌てて枢機卿が立ち上がり呼び止める。


「本気で言っているのか!?」

「はい。もうここへは戻りません」

「お前、自分が何をしているかわかっているのか?」

「えぇ、わかっております」


枢機卿の鋭い眼光を、まっすぐに見返す。


「何よ!聖女は私なのよ!」

「…そうです。”教会に選ばれた聖女”はティエル様です」

「貴女が何をしたって、聖女は私一人なんだから!」

「ティエル様はこれからも聖女を全うすれば良いのです。私はただ、始祖の聖女様の教えに従い、聖なる力を使うだけです」


悔しそうに歯ぎしりするティエルの横で、枢機卿が声を低くして呟いた。


「…これから先、無事でいられると思うなよ」


それには何も返さず、ノエリアは部屋を出ていく。

自室に立ち寄り、少ない私物を鞄に詰め込むと、振り返ることなく教会の正門へと足早に向かった。

シスターたちの訝し気な視線を気にも留めず、正門を出たところで聞き慣れた声に呼び止められた。


「先輩!」


ノエリアが足を止めて振り返ると、そこには上着を着て大きなカバンを背負ったリネッタがいた。

走り寄ってきたリネッタが、ぜえぜえと息を切らして肩を上下させる。


「リネッタ、貴女、その姿…」

「先輩、私も連れて行ってください!」


そう言ったリネッタの朝焼けのようなオレンジ色の瞳は、キラキラと輝いていた。


「…教会は、私を許さないわ」

「はい」

「きっと、危険な旅になる」

「承知の上です」


リネッタはその場に膝をつき、ノエリアに頭を下げる。


「どうか、私を貴女と共に行かせてください。…聖女ノエリア様」


”聖女”

私がずっと憧れ、信じてきた、呼び名。

例え私が否定しても、聖なる力を授かった今、人々は私をそう呼ぶのだろう。


それならば、私は聖女と呼ばれるに相応しい存在にならなければいけない。


「…リネッタ、顔を上げて」


ノエリアは腰をかがめてリネッタの頭に手を置き、優しく頬をなぞる。


「私と一緒に来てくれる?」

「…はい!」


リネッタは喜びを全身で表すかのように、ノエリアに飛びついて抱きしめる。


「私がずっと一緒にいますからね!先輩!」

「ふふ、頼りにしてるわ」


穏やかな笑い声に包まれながら、二人は並んで歩いていく。

今までの苦悩も、これから待ち受ける困難も、今だけは忘れられた。

木々に囲まれた石畳の道は、二人の行く末を表すかのように、温かな日差しに照らされていた。




―――――




―――声が、聞こえる…


ゆっくりと重たい瞼を持ち上げると、そこは自室の窓辺だった。

どうやら本を読んでいる間に眠ってしまったらしい。

窓の外では、幼い子供たちが無邪気な笑い声をあげて走り回っている。


いつもの風景。

温かく、穏やかな日常。


それを打ち破るかのように、部屋の外から慌ただしい足音が聞こえてくる。

足音の主は扉の前で止まり、一呼吸置いた後、コンコンとノックする。


「どうぞ」


そう答えると、キィと音を立てて扉が開き、少女が顔を覗かせる。

部屋に入ってきたものの、今にも泣きそうな顔で両手を胸にぎゅっと握ったまま、立ち尽くしていた。


ノエリアは傍らにあった杖に手を伸ばし、すっかり言うことを聞かなくなった体に鞭を打ってゆっくりと少女に近付く。

少女の前に自身の手を差し出すと、少女は恐る恐るその手をとった。


ぼんやりと、少女の体が光に包まれる。

少女の腕を、手を伝い、ノエリアの体に何かが注ぎ込まれていく。

静かで、温かくて、まるで母親の腹の中にいるような感覚。

長い旅で負った体の傷が、癒えていくようだった。

幾度となく触れてきたはずなのに、与えられる側がこんなにも心地の良いものだとは。


あぁ、これが、始祖の聖女様から受け継がれた”聖なる力”なのだ―――


光が収まり、ノエリアは震える少女の手を優しく包む。


「―――貴女に、”聖女”を託します」


その言葉を聞いて、少女の目から大粒の涙が零れ落ちる。


「わたしっ、聖女ノエリア様の教えを守り、始祖の聖女様の想いを、必ずっ、受け継いでいきますっ!」


祖母譲りの太陽のような瞳は、確かな決意に満ちていた。

その顔を見て、ノエリアは安心したように頷く。


新たな聖女の誕生を祝福するかのように、始祖の聖女像が優しい笑みを浮かべていた。


お読みいただきありがとうございます。

誤字脱字のご指摘、大変助かります。

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原初の聖女より聖なる罰を愚か者たちに!
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