第4話 汚部屋バレ
「さて兄さん、お腹は空いてますか?」
悟への不満はあれど、取り敢えず普通の会話はしてくれるらしい。
亜梨栖達が来たのは時計の針が頂点に来る時間だったし、それまで部屋の掃除をし続けていたので、何も食べていない。
彼女の問いに、昨日アルコールを摂取した胃がようやく空腹を自覚したようで、何でもいいから食べさせろと訴えてきた。
「空いてる。早めに起きたけど、飯は食べてないんだよ」
「……朝ご飯はちゃんと食べるべき、と昔言っていたのは誰でしたっけ?」
「いや、まあ、すまん」
亜梨栖の母である奏は非常に忙しく、朝早くに家を出て夜遅くに帰ってくる。
なので亜梨栖とはあまり顔を合わせられず、代わりに彼女は悟とよく朝食を食べていた。
その際に食欲がないと言う亜梨栖に「ほんの少しでもいいから、食べた方がいい」と注意していたのを思い出す。
刺すような視線に素直に頭を下げれば、呆れた風な溜息をつかれた。
「まあいいです。それでは、冷蔵庫の中を見ていいですか?」
「アリスが作るのか?」
「そうですけど、それが何か?」
「……いやいや、『何か?』じゃないって」
眉一つ動かさず首を傾げる亜梨栖に、今度は悟が溜息をつく。
いくら唐突に押しかけてきたとはいえ、それなりに長い時間電車に揺られた人に料理を頼むつもりはない。
「俺の家なんだから、それはおかしいだろ」
「朝から何も食べてない人が言える台詞ですか?」
「それを言われたら苦しいけど、それはそれ、これはこれだ。というか、客人に料理を頼むって家主失格だろ」
「一緒に暮らすんですから、客人扱いは止めてください」
「……というか、料理出来るようになったのか?」
以前は悟が料理を行い、亜梨栖がテーブル等の準備をする、というのが悟達の暗黙の了解だった。
亜梨栖を心配した奏から「小学生のうちは料理は止めさせてね」と頼まれていたからでもある。
悟が小学生の頃から料理が出来たのは、そうしなければならなかっただけだ。
ましてや悟が傍に居るのだから、わざわざ亜梨栖が料理を覚える必要などない。
何にせよ、そのせいで彼女は料理が出来なかったはずだ。
にも関わらず料理をしようとする亜梨栖に問いかければ、「失礼ですね」という素っ気ない声が飛んできた。
「あれからちゃんと練習しました。料理くらい出来ます」
「そうなのか。総菜とか、コンビニ飯じゃないんだな」
「……馬鹿にしてませんか?」
「いや、してない。でも悪かった」
どうやら亜梨栖は悟が居なくなってから、料理を覚えたらしい。
コンビニ弁当等で食事を済ませそうなものだが、きちんと自炊していたようだ。
極寒の声に頭を下げれば、彼女がやれやれと言わんばかりに肩を落とす。
「まあいいです。それで、冷蔵庫の中を見ていいですか?」
「分かった。でも、ハッキリ言って何もないぞ?」
「兄さんの事ですし、一食分の食材はあるでしょう?」
「いや、本当に何もないんだって。だから昼は外に――」
亜梨栖が立ち上がり、悟の言葉も聞かずにキッチンへと向かう。
ただ、その足がキッチンに入る直前で、唐突に止まった。
「どうした?」
不思議に思って問い掛ければ、亜梨栖の顔がゆっくりとこちらを向く。
錆びた機械のようなぎこちない動きに、頭の中の何かが引っ掛かった。
何に違和感を覚えているのかと首を捻りつつ、彼女の顔色を窺う。
ルビーの瞳には先程までの不機嫌さとは違い、憤怒の感情が浮かんでいるように見える。
「兄さん、これは何ですか?」
「これ?」
「このゴミ袋の山は何ですか、と聞いたんです」
「…………あ」
掃除の際にキッチンへとゴミ袋を押し込んでいたのを、すっかり忘れてしまっていた。
呆けた声を出した悟へ、刃物のように鋭利な視線が飛んでくる。
「さては普段部屋を掃除しなさ過ぎて、汚部屋にしてましたね?」
「ま、まさかぁ。ほら、ちゃんと綺麗にしてるだろ?」
「どうせ私達が来る前に大掃除したんでしょうが。では、このゴミ袋の説明は?」
「あーっと……。そう、ちょっとゴミを出すのを忘れてたんだ!」
「ふうん……」
悟の言い訳を話半分に流しつつ、亜梨栖がゴミ袋を退かして冷蔵庫へとたどり着く。
勢いよく扉を開けて中身を確認し、長く大きな溜息を吐き出した。
すぐに扉を閉めて、肩を怒らせながらリビングへと戻ってくる。
悟の真横に来ると、しなやかな指を床へ向けた。
「正座」
「はい?」
「正座です。早くしなさい」
「は、はい」
七歳もの差がある高校生からは、逆らっては駄目な圧が発せられている。
もう一度口答えすれば、命の危険があるかもしれない。
そそくさと椅子から降り、フローリングに正座する。
椅子の傍なのでカーペットがなく、慣れない正座で足が痛い。
おずおずと目の前の少女を見上げれば、後ずさりしそうになる程の怒気を纏った姿に、美しい鬼を幻視してしまった。
「兄さんには兄さんの生活がある。それは十分に理解しているつもりです。本来なら、私が口を出すべきではない事も」
亜梨栖が「ですが」と口にして一度言葉を切り、大きく息を吸い込む。
「あれでは体を壊してしまいます! コンビニ弁当やお酒が悪だとは言いませんが、やりすぎです! 冷蔵庫の中もお酒しか入ってないじゃないですか!」
「いやぁ。ははは……」
「今の会話のどこに笑える要素があったんですか!? あんなに美味しい料理を作れる兄さんが、まさかこんな風になってるなんて……」
社会人になってからは大学の友人が遊びに来なくなったので、部屋の掃除をサボりがちだった。
それだけでなく、仕事で疲れて晩飯を弁当や総菜で済ませる事も多く、酷い時にはアルコールとつまみだけで済ませていたのだ。
いくら亜梨栖と会う不安を忘れる為に昨日飲み潰れたとはいえ、それ以前からの怠惰な生活を指摘されれば、否定の言葉は口に出来ない。
亜梨栖はというと、感情が振り切れてしまったようで、今にも泣きそうに顔を歪ませている。
「お願いですから、自分の体を気遣って下さい……」
「ホント、ごめん」
今回、亜梨栖が怒っているのは、悟が心配だからだ。五年の溝がある悟でも、亜梨栖の言葉や震える声色から、それくらいは分かる。
両手を床に着けて深々と謝罪すれば、「許しません」という声が頭上から掛かった。
体を起こすと、再び怒りが戻ってきたのか、亜梨栖がやや眉をつり上げて腕を組んでいた。
「ですので、これからは私が料理します」
「いや、それは申し訳ない――」
「言い訳は聞きません。コンビニ弁当とお酒のゴミ袋を大量に作った人の言葉なんて、何の説得力もありませんから」
「う……」
反論をぴしゃりと封じられて、呻き声が口から洩れる。
体を縮こまらせた悟を見下ろしつつ、亜梨栖が額を押さえた。
「とはいえ、これではお昼ご飯どころじゃありませんね。何も食材が無いんですから。かといって、今から買い出しに行って作るとなると……」
「なら、昼はラーメンにしないか?」
とっくに太陽は真上を通り過ぎており、今すぐに買い出しに行っても昼飯には遅すぎる。
となれば、今回だけは自炊ではなく、別の手段を取るべきだ。
元々食材が無いのは分かっていたので、外食するつもりだったというのもある。
ご機嫌取りの意味も兼ねて、子供の頃の亜梨栖が好きだった料理を口にすれば、深紅の瞳がすうっと細まった。
そろそろ、視線だけで体に穴が空くかもしれない。
「……私の話を聞いてましたか? 今の兄さんは栄養が偏ってるんです。だからちゃんとしたものを作ると言いましたよね?」
「夜からちゃんと食べるから! 今から昼飯を作るとなると大変だし、今回だけ!」
「ですが――」
「美味しい豚骨ラーメンの店を紹介する!」
情けないと分かっていても、大人のプライドすら投げ出して懇願した。
あまりにもみっともない発言だったものの、亜梨栖の心には響いたようで、ぐっと喉に言葉を詰まらせている。
どうやら、未だにラーメンは好きらしい。
「…………仕方ありませんね。今日だけ特別ですよ」
「ありがとう、アリス!」
手を合わせて目の前の少女を拝む。
この光景を第三者が見れば、どちらの立場が上かなど一瞬で理解出来るだろう。
大人としての尊厳がなくなったのを自覚しつつも、この場を乗り切れた事に胸を撫で下ろすのだった。
明日からは一日一話に変更します。




