第13話 暗闇の中で
二十三歳の童貞がバレるという、男の恥のような出来事はあったものの、それ以降は慌てるような事など起きず、寝る時間となった。
そして、今は亜梨栖がどこで寝るかという問題で揉めている。
「だから、リビングで寝かせる訳にはいかないって言ってるだろ?」
残念ながら来客用の布団など無いので、どちらかはリビングのソファで寝なければならない。
一応、薄いブランケットがあり、エアコンを点ければ風邪は引かないはずだ。
となれば、誰がそこに寝るかなど決まりきっているはずなのに、亜梨栖は決して頷かない。
「兄さんは明日仕事があるんですから、ベッドで寝て疲れを癒すべきです。私がリビングで寝ます」
「一日リビングで寝た程度じゃ何ともない。平気だって」
「そういう油断が駄目なんです。しっかりと寝てください」
「油断も何も、本当に大丈夫なんだが?」
床で寝るなら疲れは取れないかもしれないが、ソファで寝るのだ。疲れはある程度取れるだろう。
疲れが多少残った程度で仕事が出来なくなる程、貧弱な体はしていない。
ただ、亜梨栖も譲れないようで、唇を尖らせている。
「……このままでは平行線ですね」
「だな。どうしようか……」
「いっその事、一緒に寝ますか?」
「それだけは絶対にない」
うっすらと笑みを浮かべた亜梨栖の言葉に一瞬だけ動揺したものの、即座に却下した。
昔は偶に亜梨栖の家に泊まりに行っていたが、その際は彼女が駄々を捏ねて一緒に寝ていた。
その時の事を持ち出したのだろうが、悟も亜梨栖も成長したのだ。
もう一緒に寝るような歳でもないので、必ず別々の場所で寝なければならない。
素っ気ない態度が不服なのか、亜梨栖がほんのりと眉を下げる。
「そこまできっぱり言わなくていいじゃないですか」
「……ごめん。でもこういうのはきっちりしないと駄目だ」
「それは、理解出来ますけど」
決して喧嘩したくて口論をしている訳ではないのだ。
お互い溜息をつき、思考を冷ます。
改めて亜梨栖へと向き合い、頭を下げた。
「俺の我儘だってのは分かってる。でも、亜梨栖をリビングで寝かせられないんだ。頼む」
「……そんな風にお願いされたら、何も言えないじゃないですか」
どうやら、今回は折れてくれるらしい。
仕方ないな、というような声に顔を上げれば、苦笑の中に嬉しさを混ぜた亜梨栖がいた。
「気遣ってくれて、ありがとうございます」
「こんなの普通だっての」
女性を優先するのは当たり前だ。それは幼馴染の亜梨栖であっても変わらない。
呆れ交じりの賞賛が気恥ずかしくて、頬を掻きつつ視線を逸らした。
「ほら、もう寝ろ。カーテンはちゃんと閉めるんだぞ」
「分かってますよ。おやすみなさい、兄さん」
「おやすみ、アリス」
寝室の扉がパタンと締まり、リビングに一人となった。
部屋の中は過ごしやすい気温なので、わざわざエアコンを点ける必要はない。
ソファに寝そべり、布団代わりのブランケットを被る。
電気を消して目を瞑るが、眠気はやって来ない。
「……アリス、本当に成長したなぁ」
目を開けて暗闇の中で考えるのは、五年ぶりに再会した幼馴染の事だ。
昔も可愛かったが、今の亜梨栖は可愛いというより美人になった。それこそ、誰もが目を奪われるであろう程に。
どれほど意識しないようにしていても心が簡単に揺さぶられてしまうのだから、他の人であれば一目惚れしてもおかしくはない。
おそらく、学校では相当の人気を誇るのだろう。
にも関わらず、亜梨栖は悟の家に来た。となれば、悟と同じように恋人がいないはずだ。
「いっそ彼氏でも作って、俺なんか忘れた方が良かっただろうに」
ズキリと胸を刺す痛みを無視し、乾いた笑いを零す。
唐突に居なくなり、五年も会わなかった幼馴染など、忘れてしまえば良かったのだ。
なのに五年が経過しても泣いて感情をぶつける程に、悟という存在は亜梨栖の心の中に残っていた。
それは嬉しい事のはずなのに、素直に喜べない。
「口調とかは変わったけど、中身はあんまり変わんなかったな」
子供っぽい喋り方から、非常に丁寧な喋り方へと。感情豊かだった表情は、大人びた淡いものへと変わった。
しかし、ラーメンが大好きだったり、慌てた際の姿は昔のままだった。
どうしてあんな風に変わったのかは分からないが、亜梨栖なりの考えがあるのだろう。
「一週間のお試し期間があるけど、同居、か」
奏や彩、亜梨栖に押し切られる形で妥協したが、決して嫌ではないのだ。
むしろ、亜梨栖と再び親密な関係になれる事を嬉しく思う。
最初はどうなる事かと思ったが、何だかんだで昔のように仲良くやっていけるはずだ。
そして、その為には心を固く縛らなけらばならない。
「俺は亜梨栖の保護者代わりだ。そうでなくちゃいけない」
亜梨栖の高校に近いから。悟の部屋が空いていたから。知らない関係ではないから。
そんな理由で亜梨栖を住まわせる事を承諾したのだ。それ以上があってはいけない。悟のような人間に、その資格はない。
なのに鈴を転がすような声が、美しい笑顔が、魅力的な肢体が、悟の心を容赦なく揺さぶる。
「……あと一週間で、覚悟を決めないとな」
明日の朝さえ終われば、亜梨栖は一度家に帰る。
それから一週間で決してブレないように、幼馴染としての心構えをすればいい。
意気込みを新たにすると、寝室からぎしりと物音が聞こえた。
「アリス、起きてるのか?」
悟の声がリビングに反響し、静寂だけが残される。
亜梨栖が反応しなかっただけだとしても、先程までの独り言は小さかったので聞かれてはいないだろう。
これ以上悩んでも意味がないと、思考を切って再び目を瞑る。
暫くすると、寝室の扉が小さな音を立てて開いた。
「……」
やはりというか、起きていらたしい。
寝室から出た人物が、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
声を掛けるべきかと思ったものの、悟を起こさないように忍び足をしており、バレたくないのだろう。
薄く目を開けて様子を窺うが、外の光を完全に遮断しているせいで、距離が開くと表情が見えない。
「……っ」
寝たフリをしていると、銀色の少女がソファの前に座った。
まさか堂々と座られるとは思わず動揺に呼吸が乱れたが、恐らくバレてはいないだろう。
その証拠に、ゆっくりと少女の顔が近付いてくる。
体に触られたら起きようと思っていたが、意外にも彼女は触れる事なく、暗闇ですらお互いの顔がハッキリと見える距離で止まった。
薄目をしていては危険だと思い、しっかりと目を閉じる。
「あぁ……」
視界を瞼に遮られた中で、万感の思いがこもった溜息が耳に届いた。
悟の嘘の寝息と少女の小さな呼吸音が聞こえる中、時間だけが過ぎていく。
(ずっとこのままだと、絶対に寝れないな)
もしかすると、普段寝ているベッドではないから寝辛く、悟の顔を見に来たのかもしれない。
あるいは先程の溜息からして、久しぶりに会った幼馴染の顔を目に焼き付けたかったのか。
何にせよ、目を閉じていても圧力を感じるくらいに、強い視線が向けられ続けていた。
そしてこの状況で寝られるような強い心臓など、悟は持っていない。
起きるべきかと迷っているうちに、少女が顔を離してくれた。
(良かった。これで寝られる……)
間近でないのなら大丈夫だろうと、再び僅かに目を開ける。
顔を離したとはいえ、部屋に戻る気はないらしい。
座り込んでいる亜梨栖の顔が視界に入り、どくりと強く心臓が跳ねた。
「……ふふっ」
近くに居る悟ですら、注意しないと聞こえない程の小さな笑い声。
そんな笑みを零した亜梨栖は、今が一番幸せだと断言出来るような、溢れんばかりの笑顔をしていた。
その笑顔を見続けていられず、また目を閉じて思考を真っ白にする。
ようやく眠気が襲って来た時でさえ、亜梨栖は悟の側に居続けたのだった。




