表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

狗児鏡面

作者: 七藤三樹

 門頭に施された、桃園に舞い遊ぶ仙女たちの精緻な透かし彫りを、夕陽が照らした。

 見上げるばかりの壮麗な朱門から、一体の屍骸が蹴り出されてきた。

 襤褸屑のように手荒く放り出され、白茶けた砂塗れになって往来に横たわる。瑠璃瓦を頂いた都路を行き交う人々は、物見高く足を止めた。

 くちなし色の形良い額は力任せに打ち割られ、殴打の痕も痛々しい相貌の半面を紅に染めている。溢れた血は、あらぬ方向にねじ折られた足を辛うじて覆っている裙子の裾にまで、とめどなく滴り落ちた。かつて海石榴の油でもってつややかに結いあげられていた高髻の金釵や歩揺は、虫が脚をもがれるように毛房ごと毟られている。蝶の翅のごとき羅の衫は千々に引き裂かれ、隠すすべもない豊かな胸乳の上にも縦横無尽の犬の噛み痕が刻まれていた。披帛の衣擦れと共に秘めきれぬ麝香の匂いをふりまいた肌は、今や露天でさえ鼻を覆いたくなるような死臭をまといつつある。

 酸鼻をきわめる落花狼藉だが、都城の街路に睨みをきかせているはずの衛士たちは、あからさまに見て見ぬ振りをする。丈高い煉瓦塀の続く、名立たる貴族の大邸宅が肩を並べる一画である。口封じの賄賂が横行しているのは元より、下手に詮議の手を伸ばせば、逆ねじを喰らわされて却って出世に響く。

 女は、邸宅の奥庭で、後継ぎのない主人の枕席に侍る、貧しい歌妓あがりの愛妾だった。ある時、正妻がめでたく懐妊した。主人は躍り上がって狂喜し、日頃顧みることのなかった政略婚の奥方に、何なりと望みのものを取らせると約束した。皇帝の妃嬪たちの喉から手が出るような翡翠の瓔珞でも、玳瑁の簪でも、玉の指輪でも――あるいは、宮廷料理人が腕によりを掛けた金絲猴の脳味噌入りの粥でも、鱶のひれの羹でも、殻の中のひよこを煮殺した卵料理でも――なみなみと茉莉花酒をたたえた池でも、屋根に黄金の鳳凰を頂いた亭台楼閣でも、大輪の牡丹で埋め尽くした園林でも――ずらずらと並べたてられる褒美の候補に、奥方は霞のような微笑を朱唇にたゆたわせる。何も言わない。高貴な夫人は自ら乞うことはない。

 僭越ながら、と言い置いて、輿入れの際に実家から付き添ってきた忠実な老媼が、脇からぐいと身を乗り出した。こうして、主人の寵に浴していた側妾は、街路に打ち棄てられた。

 見るも無惨な姿は、介抱も待たず既に息絶えているかに思われた。だが、騒動を聞きつけた死体漁りたちが取り囲んで覗き込むと、やにわに毒蛇のように跳ね起き、赫とばかりに両眼を見開いた。

「双つ児じゃ。双つ児が産まれるであろう」

 女は、かつて鶯のように囀った声で、喉も裂けよとばかりに邸に向かって絶叫した。

「父母に仇なす豺狼が、呱々の声を上げるぞよ。見やれ、見やれ――」

 呪詛を吐き終えるやいなや、女は悶え死んだ。



 粗布の包みを押し隠すように両腕に抱えた老媼は、ひと気のない長廊を足早に進む。

 殿舎から殿舎へ渡る高床の回廊は、碧玉の欄干をそなえた吹き放しで、古びた瓦屋根に覆われて日中でも薄暗い。

 邸のうら寂しい片隅にまで、風に乗り、陽気な楽の音と、酔いの回った哄笑と酌婦の嬌声が絶え間なく流れてきた。琵琶が撥に掻き鳴らされ、筝の絃が弾かれ、笛が軽快に吹き通される。鞨鼓の拍子に合わせ、舞姫が風に揉まれる蓬のように旋回する。

 山のように客人を招き、主人が催すのは嫡男誕生を祝う宴だ。招待客からの追従と贈り物は引きもきらず、主人の虚栄心と邸の蔵ははち切れんばかりだった。老媼が舐めるように溺愛してきた奥方も、産後の褥で会心の笑みを浮かべていた。まるで宝石の笠を被ったように愛らしい赤子は、三人の乳母にかしずかれてたっぷりと乳を呑み、清められた産着にくるまれてすやすやと眠っている。あつらえられた絹布団の上で、健やかな寝息をたてる若君の夢に、一片の夾雑物もありはしない……。

「あれらの幸いを損ねるものが存在してはならぬ」

 老媼は唐突に足をとめ、産屋から密かに運び出された粗布に向かって囁きかける。

「すなわち、そなたは在ってはならぬ」

 粗布に巻かれたものが、弱々しく蠢いている。

「双つ児であってはならぬ。死女の禍言の通りになってはならぬ。そなたは在ってはならぬ」

 腹を空かせた一匹の犬が、人影と見てとって物欲しげに軒先に寄ってきた。邸の主人は豪胆を誇り、宮廷でも並ぶ者のない狩猟狂いで知られている。皇帝や皇子の御狩には必ず随従を求められるほどだった。犬舎には熊をも恐れぬ獰猛な猟犬が溢れ、時に脱け出したものが邸宅の庭をうろついている。

 廊に立つ老媼は獣を一瞥し、皺ばんだ腕からためらいなくみどりごを投げ捨てた。



 老媼が立ち去った後、犬は天から投げ与えられた肉を用心深く嗅いだ。

 犬は、突如として目の前に落ちてきたご馳走にやや混乱している。落ち着かなげに足踏みをする。屍肉ではない。まだ息があるようだ。でも、じきにこのまま死ぬだろう。口腔いっぱいに広がる柔らかな生肉の感触を思って涎が垂れ、息を荒げた。どこから噛み砕こうか。食いちぎろうか。

 ようやく狙いを定め、脆く壊れやすげに震えている小さな腹に牙をあてた時、背後の草叢が押し分けられた。小さな毬のようなものがいくつも跳ね出てくる。犬の脚にまとわりつき、柔毛に覆われた全身をなりすつけて揉みくちゃにする。甲高く甘やかな鳴き声と、立ちのぼる淡い皮脂の臭い。途端に犬は、温かな湯に浸かったような弛緩した気持ちになる。我知らず尻尾が揺れる。

 首を差し伸ばし、丹念に一匹ずつ舐めてやろうとする。けれども、あどけなく耳の垂れた仔犬たちは片時もじっとしていない。すぐに取りまぎれてしまう。そうしているうちにも、赤黒い円錐に垂れ下がった乳房へ、仔犬たちが我先にと吸いついてくる。犬は夢見心地になる。我が身を搾り、我が子の養いとする。そこで、犬はかすかな違和感を覚えた。乳をむさぼる口の数が、常より増えているような……。

 だが、犬は長く悩むことはしない。一つ先のことを考えると、一つ前に考えていたことは忘れる。生き餌のことは忘れる。母犬は餓えたみどりごの渇きを癒す。



 睡房の螺鈿細工の牀の上で、一人の少年が死に瀕していた。

 高熱に浮かされ、しきりにうわ言を呟いていたが、その声は水の面で消え失せる泡沫のようにかすかで、誰にも聞きとることができなかった。一人息子の父母は、金に糸目をつけず幾人もの道士や僧侶を召し寄せたが、若君の病身から悪霊を追い出せた者は一人もいなかった。薬を煎じ、灸を据え、蛭に血を吸わせて、ほうぼう手を尽くしたが、ただでさえ衰弱した若君の体力をいたずらに奪うばかりだった。

 若君の容態がついに重篤なものとなると、ふと昔日を思い出した古参の使用人たちは、訳知り顔に袖を引きあい、額を擦り合わせるように「祟り」「障り」「血みどろの女」と囁き合った。それを聞きつけると、奥方付きの老媼が即座に駆け付けてきて、柳の笞をふるい、軽口の代償を思い知らせるのだった。

 だが、どれほど見せしめを吊るし上げようと、肝心の若君が快癒することはなく、口さがない噂を封じることはできなかった。やがて、老媼は無実の奴婢までむやみに罰するようになり、しまいには誰もいない長廊で一人わめき散らしながら笞を振り回しているところを、犬に吠えられ、従僕たちによってたかって取り押さえられて、そのまま尼寺へ送られた。

 俗塵にまみれた者たちをよそに、青黒い瞼を閉ざした世慣れぬ少年の心はすでに、病み衰えた肉体からも、贅を尽くした邸からも遠く離れていた。

 虚ろに澄んだ彼の瞳は、存在も明かされていなかった片割れの辿った道を、芝居でも観劇するように追っていた。もう一人の彼は、産声をあげるやいなや大きな腕にさらいあげられ、人の世界から墜落した。叩きつけられた場所で、犬の乳を吸い、犬に養われた彼の舌に言葉はなく、想いを伝える手立ても知らない。みどりごから少年に変容した後も、人でありながら人にまじわれず、半ば追われるように都を後にしたのだった。あてどなく草木の生い茂る山河に分け入り、沢で口を漱ぎ、石を枕とした。険しい崖を登り、深い谷底に潜った。鳥獣を噛み裂き、竹林のざわめきに心乱され、月に孤独を訴えて吠えた。

 羊歯に縁取られた沼に、彼は縹渺たる虚空を背負った我が身を映す。もう一人の己が見返してくる。沼底には、睡房の螺鈿細工の牀と、そこに身を横たえた彼がいた。

 触れようと手を伸ばすと、細波が鏡像を乱し、壊した。彼は、都に残した身体がついにはかなくなったのを知った。



 純白の喪服の裾を蹴立て、奥方が獣のごとき奇声を発して逃げ出したのに対し、主人は石化したように腰を抜かした。

 耳を聾さんばかりに銅鑼や鉦を打ち鳴らし、柩は輿に担がれて運ばれた。葬列に同行する泣き女たちが胸を叩いて慟哭し、箒持ちは墓所を掃き清めて邪を払う。死者が妖物に取り憑かれて蘇らぬよう、また一族に不幸が続かぬよう、念入りな魔除けがほどこされた。

 宝蓋幢幡を飾り付けた菩提寺での大仰な葬儀には、山のような弔問客が詰めかけた。冥器や紙銭も焼き尽くし、重苦しく押し黙った夫妻は轎子を並べて邸に戻ってきた。すると、無人であるはずの留守宅の院子に、忽然と、一人の少年がたたずんでいたのだった。

 邸じゅうの猟犬が彼を取り囲み、群れている。仔犬たちが母犬を慕うように、彼の傍らに憩うている。百枚の毛皮を綴り合わせたような蠢きに膝を埋めた少年は、埋葬されたばかりの彼らの息子に瓜二つだった。いや、死せる息子そのものだった。母は貴婦人の淑徳をかなぐり捨てて叫び、父は血の凍るような恐怖に豪傑らしからず色を失った。

 少年はゆるりと首をめぐらせ、二親を見た。

 猟犬たちもまた、糸で手繰られたかのように一斉に凝視した。牙と牙の間に柔らかな肉を予感して涎を垂らし、生臭い息を荒げた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ