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光陵学園大学附属病院 短編集  作者: 鏡野ゆう


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ある日の奥様と旦那様 前編 旦那様のお出掛け

とある奥様と旦那様のある日の出来事。

蒲公英さん主催【ひとまく企画】参加作品です。

ドンドンッ ドンドンッ


 皆様、おはようございます、土曜日の朝からお騒がせして申し訳ありません。目の前にあるドアを向こう側から叩いているのは私の旦那様、総一郎さんです。ちなみに私は今どこにいるかと申しますと、御不浄、厠、お便所、トイレット、つまりはトイレの個室ってやつですね。あ、もちろん自宅の、です。そこに朝から鍵をかけて篭城中です。飲み水と携帯電話と充電用のケーブルは持って入ったので御近所の奥様達と連絡を取ることは可能ですから万が一長期戦になっても大丈夫、そんなことになったら陣中見舞いの差し入れがやってくるかもしれません。


「めぐみさーん、いい加減に機嫌なおして出てきてくれませんかあ……」


 ドアの向こうから総一郎さんの声が聞こえます。


「朝からうるさいです、さっさと行っちゃってください。皆さん待ってますよ、私は引き止めるつもりはないんですからね」


 そう言い返すと一瞬だけ静かになりました。だけど安心は禁物。玄関でドアが閉まる音がするまではここから出るつもりはありません。


 ああ、申し遅れました。私、山口めぐみと申します。外にいるのはさっきも申しましたが旦那様の山口総一郎さん。大学附属病院で心療内科の先生をしています。今はいつもより口調が情けなくて頼りない感じに思えるかもしれませんが、同僚の先生達や看護師さん達曰く、少しおっちょこちょいなところはあるけれど優しくて、頼りがいのあるとってもいい先生だと患者さん達からはとても好かれているということです。



+++



 ことの始まりは昨晩のこと。


 二人で並んで映画を観ていた時に総一郎さんの携帯電話が鳴ったんです。最初は渋々といった感じで出たはずなのに何やら相手の方とのお喋りが盛り上がってきて遂に映画を観るのを中断してソファから立ち上がりました。


 もちろん相手が女性じゃないのは総一郎さんの話しぶりからも分かります。かけてきたのは職場の人ではなく総一郎さんの学生時代のお友達。海外の病院で外科医として働いていて日本にはここ数年帰国していない長澤君という人です。どうやら今は日本に帰ってきている様子で総一郎さんは嬉しそうに何やら話していました。ソファから離れたのは私に話を聞かせたくないというわけじゃなくて、自分の話す声で私が映画に集中できないだろうと考えたからです。その辺はとても気配りの出来る優しい旦那様なんですね、総一郎さんは。


「めぐみさん、明日、長澤がこっちに出てくるから皆で集まろうって話になったんだけど、顔出しに行っても良いかな」


 しばらくして戻ってきた総一郎さんがとても嬉しそうな顔をしながら私に声をかけてきました。


「明日?」

「うん、久し振りに大学の同期の連中で集まって飲まないかって話になったんだ」

「明日……土曜日ですね」

「うん、ほとんどの連中が休みだからさ。長澤も一週間ぐらいしかこっちにいないらしいから」

「……分かりました、どうぞ行ってきてください。長澤君に宜しく伝えておいて下さいね」


 私はテレビのスイッチを切ってテーブルに置いてあったマグカップを手に立ち上がりました。総一郎さんは久し振りにお友達が帰国したのがよほど嬉しいのかニコニコしています。


「めぐみさんも顔、出す?」

「いえ、やめておきます。私、明日は少し予定を入れているので」

「そう? だったら行ってくる。ああ、そんなに遅くならないから心配しないでいいよ」

「分かりました」


 明日は七月四日。私と総一郎さんにとって大切な日だったんですけど、目の前でニコニコしている旦那様はそんなことすっかり忘れているみたいで、悲しい気持ちになる以前にあまりに綺麗さっぱり忘れている様子にちょっと呆れてしまいました。だけどいつもはちゃんと誕生日も記念日も覚えていてくれるので、それほど長澤君が数年ぶりに帰国したのが嬉しいのかなと思ったり。


 そんな総一郎さんがそれを思い出したのは明け方近くなってから。急に何か叫んで飛び起きたものだから隣で寝ていた私も目が覚めてしまいました。


「めめめめめ、めぐみさん?!」

「……なんですか、こんな時間に……まだ早いですから静かにして下さい、ご近所迷惑ですよ?」

「明日は七月四日ですよね?!」

「もう日付がとっくに変わっているので今日ですけどね」

「七月四日ですよ!」

「そうですね。ですけどもう少し寝ませんか?」


 外は明るくなってきてますがさすがに活動を開始するにはまだ早い時間だと思いますよ、総一郎さん。


「七月四日なんですよ、めぐみさん!!」

「知ってますよ、それぐらい。私だってカレンダー見てますから」


 そう言いながらタオルケットに潜り込みました。だけど総一郎さんは隣で起きたまま固まってます。


「めぐみさん、怒ってます?」

「総一郎さんのせいでこんな時間に起こされてしまってちょっと不機嫌です」

「そうじゃなくて……結婚記念日なのにうっかり長澤達と飲みに行く約束をしちゃったことです」

「怒ってませんよ、ちょっと悲しくて呆れちゃっただけです」


 隣で総一郎さんがジタバタしている気配が伝わってきました。どうやら怒っていると言われるより悲しいって言われたことが相当堪えている様子です。


「別に私は構いませんよ。せっかく久し振りに会えるんだから気兼ねなく行ってきて下さい。じゃあお休みなさい」

「でもでも、めぐみさん、あんなに楽しみにしてたじゃないですか」


 一ヶ月ほど前から、その日には二人で初めてお食事をしたカフェレストランでランチして、ちょうど開催している二人が好きな画家さんの個展を見にいって、それから何か記念のものを買って……そんなデートしたいですねって話をしていただけで別に絶対にそうしましょうって約束していたわけじゃありません。あくまでもそうしたいですねって話を一方的に私が喋って、総一郎さんもそうですねえ……とのんびり笑っていただけですし私も約束したつもりはありませんでした。


「だけど長澤君達とはっきり約束してしまったんですよね? 良いんですか? 次に長澤君が日本に戻ってくるのは何年後になるか分からないですよね?」


 タオルケットの中にもぐっていても総一郎さんの気持ちが揺らいだのが分かりました。


 総一郎さんって本当に嘘をつくのもごまかすのも下手くそなんですよね。そんな性格でよく心療内科の先生が勤まりますねって言ったことがあります。それに対して総一郎さんは、患者さんは自分の気持ちや思いをさらけ出してくれるのに僕が隠し事するわけにはいかないでしょう?だから良いんですってちょっと恥ずかしそうに笑ってました。


 私も約束した相手がいつも顔を合わせている同じ心療内科の森永先生とか病院の若先生達だったらきっと怒ったと思うんです。ですけど長澤君は殆どを外国で過ごしていてなかなか会えないのが分かっていたから、今回だけは許してあげようかなと思ったんですね。ただ、あそこまで綺麗さっぱり忘れていたとは思いませんでしたけど。



+++



 こうやって発端を話してみるとどうして私がトイレに篭城しなくてはならないのかますます謎になってきました。


 だって私は総一郎さんが出掛けることに対して反対してないんですよ? こういう場合、行ってほしくなくて拗ねた私がトイレに篭城するのが普通なんじゃないかって思うんですけど皆さんのお宅ではどうなんでしょう。


 私てきには私の顔を見ていると行きづらいんじゃないかと思って総一郎さんが出掛けるまでトイレに篭っていようって思っただけなんですけどね。洋式ですし便座は温かいし、総一郎さんが利用した直後なので長時間居座っても問題ないですし。だけど総一郎さん的には私が物凄く怒ってトイレに篭ってしまったと思っているようなんですよね。やっぱり篭城している意味が無いような気がしきました。出て行って無理やりにでも押し出した方が良いんでしょうか?


「めぐみさん……」

「総一郎さん、そろそろ待ち合わせの時間ですよ?」

「でも……」

「でもじゃありません。行きなさい」

「……はい。あの、できるだけ早く帰ってきますから。それと、お詫びに西風さんのケーキを買ってきます」


 私がお気に入りのケーキ屋さんの名前はしっかりと覚えているのに、どうして結婚記念日は忘れてしまったんでしょうね、人間の記憶って本当に不思議です。


「じゃあ、行ってきますね」

「はい、行ってらっしゃい」


 いつもなら玄関まで一緒に行ってお見送りする筈の行ってきます行ってらっしゃいが今日はトイレのドア越しです。


「あの……」

「はい?」

「行きますから出てきてもらえませんか?」

「総一郎さんがお出掛けしたのを聞き届けてから出ます」

「……そうですか、じゃあ……行きます」

「長澤君に宜しくお伝え下さいね」

「……はい」


 しばらくして玄関のドアが開いて閉まる音がしました。ドアだけ開け閉めして総一郎さんは出掛けていないとかいう小説や漫画のような展開の可能性はありません。そういうところはとても正直なので出掛けると言ったらちゃんと出掛けていった筈です。だけど念のためにスマホに入っている音楽を一曲聞いてからそっとドアを開けました。人の気配はしません、どうやら本当に出掛けたようです。


 ダイニングに行くとテーブルの上にメモ書きが置いてありました。


『本当にすみません。今日はめぐみさんの大好きなオレンジパイを買って出来るだけ早く帰宅します。総一郎』


 本当に。どうしてケーキの名前も覚えているのに……以下省略。


「さて……」


 総一郎さんと出掛ける約束はしていなかったものの、本当はデートしたかったんですよね今日。だからそれなりに頭の中で予定を立てていたんですけど最初から練り直しをしなければならないようです。一人でお出掛けするのも何となくつまらないし急に外に出る意欲が削がれてしまったので、今日は家で一日中季節外れの大掃除を開始することに決めました。たまには掃除に熱中する休日があっても良いですよね?


「あ、オレンジパイも良いけれど……」


 キッチンの掃除をしかけてから別のケーキが頭に浮かびました。グレープフルーツのタルトも食べたいかもしれません。一応リクエストをメールで送っておきましょう。


『もしグレープフルーツのタルトがあったらそれも買ってきて欲しいです』


 直ぐに返事が返ってきました。


『どちらもあるだけ買って帰ります!!』


 そんなに買ってきても食べきれませんよ、総一郎さん。我が家はまだ私と総一郎さんの二人家族なんですから。それに買い占めてしまったら他のお客さんが困るんじゃないでしょうか。


 ……あと、実はもう一人増える予定なんですけど、それも今日のデートで話そうと思っていたのでしばらくは総一郎さんには内緒にしておきましょう。ほら、うっかり言い忘れることって誰にだってあるでしょう?



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