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『わたしが刻む精霊の詩』

作者: 石川零


 肌に刻まれた祈りの詩が、真白い光を放つ。

 彼の全身を搦めとる光の刺青。それは契約の(じゅ)。大願を抱いて挑む者へのみ許された、一度きりの賭け。

 祈りを。

 願いを。

 唱えよ。 

 されば、叶えられん。たった一つの犠牲と引きかえに──。

 求めるものを掴んだはずの彼の手が、宙にさまよう。

「俺は失うのか……? 失いたくない……俺は……を……奪われたくない……」

 伸ばされた手の行く先は、血溜まりの残像に掻き消される。

「俺は──」

 あてどを失った夢のこだまが、虚ろに響きつづける。逃げていく足音とともに。痛みをつれて。悲しみを殺して。

 ずっとずっと、その声は繰り返される。

 彼女の胸のなかで、いつまでも、咒いのように。



「蕾の数に意味があります。五つは商運。八つは長寿。十一の蕾は愛の成就を引き寄せるもの」

 少女たちが恥じらいと期待を込めてじっと見つめる視線の先で、咒師の女が絞り袋を用いてアラベスク模様を描いていく。やわらかい褐色の手の甲にぷくりぷくりと膨れ上がる、濃緑色のあざやかな染料。愛の祈りを秘めたつぼみたち。

藍朱(アイシュワリヤ)ったら、十年も幼馴染の彼を想いつづけて、仲はいいのにちっとも恋人同士にはなろうとしないのよ」

杏夢(アムバパリ)っ……十年も前から好きじゃないわよ、いくらなんでも……」

「仲が良すぎると、なかなかその関係を変えにくくなるものなのではないでしょうか? 何かのきっかけなしにはね」

 集中する筆先から顔を上げずに、咒師(まじないし)の女――銘韻(めいいん)は、幼馴染との一本道で立ち往生する幸せな迷子の少女の心境を汲み取ってやる。少女は小さく頷いた。付き添いの友達らを仰いだ途端、少女は四方八方から小突かれて、頬を染める。

 客商売は口が大事。

 でも、魂は手元の仕事に込めればいいのであって、客あしらいの言葉は言ったそばから銘韻がその内容を忘れてしまっている。客が残していく世間話を右から左につなげているだけだから。

「あなたの秘めた恋の熱が、肌の上で蔓草を鮮やかに発色させます。生き生きと茂るほどに願いは叶いやすくなりますよ」

 押甲花の葉をつぶして練った染料は半日ほどで乾いてきれいに剥がれ落ちる。あとには明るい赤褐色の柄が残る。数日で褪せていく気軽な刺青遊びであるメヘンディは、(まじない)であると同時に、美を競いあう女性のよそおいの一部でもあった。

 可憐なよそおいと恋の実りの期待を込めて両手の甲をためつすがめつ宙に翳し、きゃっきゃとお喋りを交しながら、金糸銀糸の刺繍もきらびやかな薄手の袖や裾をなびかせて店を出ていく少女たち。



「お待たせしました。奥様がた」

 大河阿蘭埜(アランヤ)の流域に無窮と謳われし繁栄を築いた帝国の都には、かの帝国の滅びたあとも、溢れるばかりの財と、欲望と、才能と、それらを持て余す人々が引きもきらず蠢いてあたらしい歴史を紡ぎつづけている。華やかさにおいて先客よりも幾分劣るが、充分に羽振りの良い身なりをした奥方たちを前に招いて、銘韻は少女たちが溶けていった日差しの強い大通りから眇めた目を引き剥がした。

 金髪碧眼をした、透き通るように肌の白い女たち。西方人。この奥方たちの肌には、より緻密な花蝶園模様の柄が映えるだろう。請われた願いも、花と蝶の群れを描く美貌維持の(まじない)であった。

「さいきんはまた宴が多くて、ぐっすり眠れる時間がないのですものねえ」

「草原の王のまつりごとはさぞかし野蛮だろうかしらと思ったけれど、玉座の主が押し出されて入れ変わったからといっても、混乱なんて一時のものでしたわねえ」

 銘韻は蝶の翅のとりわけ細かなところに意識を集中させていた。

「少しくらいひっくり返ればよかったんだわ。さっきの娘たちみたいな貿易貴族がいい顔できなくなるくらいにね」

 奥方の皮肉に、「しーっ」連れ立つ友人がふくよかな人差し指を立てる。幾つも重ねて嵌められた大ぶりな宝石が煌めいた。

「無闇に蛮族のやり方を持ち込もうとなさらないおかげでわたくしたちのお店も平和な都でお商売が続いているんですのよ。滅多なことを仰らないの。捧げの姫君がいっそう哀れというものですよ」

「ええ、そう、草原の王が本当は凶暴な改革の嵐を吹かせたくて吹かせたくてたまらないでいるのを、側近たちが必死に抑えているという噂もありますわね。それとそう、それこそ、捧げの姫君が」

 右手を咒師にまかせつつ左手で気だるげに頬杖をつく夫人が意味ありげに声をひそめたとき、店の奥の裏口の外から戸を叩く音がした。

「ちょっとすみません。たぶん出入りの注文聞きだわ」

 断って席を外した銘韻は、店と住居部分との仕切りに垂れさがる更紗の布をかきわけて、まっすぐ勝手口の戸に向かった。泥煉瓦を積んで建てられた共同住居の一階に、銘韻は小さな一人住まいを構えている。端から端まで十歩で終わってしまうような狭くて小さな家なのだ。

 戸をあけると、木の樽のふちに両手をついて、ひどく痩せた男が立っていた。俯いていた顔を上げて「ご注文の」と言った。顔中に塗りたくられて乾いた鼠色の泥から、雑草の匂いが漂う。それは非市民のしるし。──奴隷だ。

「中に運んで」

「へい」

 水売り屋の使いが樽を持ち上げるために敷居をまたぐ。客を待たせているからその場で代金を渡し、銘韻はあとを任せて店に戻る。樽にみたされた八アンフォーラの水のちゃぷちゃぷ跳ねる音が背中に聞こえる。外の荷車にはあと二つの大樽が載っているはずだ。

「すみません、お待たせしました。出入りの水売り屋を新しいところに変えたら、こうだわ。朝か夕に来るよう頼んだはずなのに」

「お水にはこだわりたいものですものねえ。美容のために」

「ええ……」

 話を合わせて相槌したが本当は、より安い店の噂を聞いてのりかえたのである。

 更紗の幕の奥から、ちゃぽんちゃぽんという水音と、床に擦る足音と、そして時折かすれた咳が聞こえてくる。痩せた奴隷の落ち窪んだ眼を思い出す。襤褸を着て、垢に汚れた肩を剥き出しにした男の血色の悪さを。安値を売りにしている水売り業者は、小銭に飛びつく貧困奴隷を使って利益を出しているようだ。

「嫌な咳ねえ」

 友人との談笑をやめ、金色の柳眉をひそめる夫人。だがすぐ、何にもなかったように奥方は楽しい社交のほうへ首を向き直る。濃い紫色をのせた唇が暇に任せて噂を紡ぐ。都があらたに戴いた覇王の噂を。厭わしげに、しかしどこか嬉々として。

 この絢爛の都を支配した草原の王の気性がいかに気まぐれか。旧支配者たちに対していかに無慈悲か。都を手に入れてもなお拡げられる彼の戦がいかに無軌道か──。

 ──ガタン! ゴロゴロ……

 台所から大きな音がして、銘韻は思わず立ち上がった。見てきたほうがいいわね、と鷹揚な奥方たちが言う。駆けつけた銘韻の視界に、うつ伏せに倒れた奴隷の男と転がる大樽が映った。倒した拍子に栓が抜けて、零れた中身が床を水浸しにしていた。

「……すんませえ」

 男は床についた腕を震わせながらすでに立ち上がる意志を見せていて、近づいた銘韻の気配に首を縮めて平謝りの姿勢をつくる。しかしすぐに身体の奥から突き動かされるような咳に苦しみ始めた。

「──」

 差し出された手に瞠目する男。その眼の表面は、熱のせいで膜が張ったようだ。

 そう、酷い高熱だ。銘韻は男の額から厳しい顔で手を離した。

「おまえ、そんな熱では働けないわよ。一日か二日は寝ていなければ」

「いやあ、無理ですんで」

 けほごほ、という咳の合間から即答する男。

 一日働けなければ一日ものが食べられなくなる。奴隷とは住居も蓄えも持たない者たちのことだ。持たないだけならまだましで、借金から非市民に転落した者などはさらに悲惨な日々を送る。

 思うように力の入らないらしい四肢を踏ん張って、もぞもぞともがく。健気な奴隷の姿に銘韻は心を動かされる。

「訊きたいのだけど、おまえ、借金がある?」

「っ……いまんとこ、ねえですが」

 鼠色の顔から怪訝な眼つきをよこしながら、彼は答えた。

 痩せ衰え、汚れてはいるがまだ青年という年頃の彼には、借金をもつ理由はないだろうという判断もできる。

「そう。じゃあ、そこで暫く寝ていなさい。店には戻らなくていい。私が話を通しておくから」

 水浸しの床に頭をついたまま、首を捻る。

「へい?」

「私の家で雇われなさい。そのまま戻ったらあなた、野垂れ死ぬわ。水売り屋と言えど、いいえ水売り屋だからこそ、あなたの雇い主は水も飲ませてくれないのでしょう? 戻ることはないわ」

 膜の張った眼が上下を逆さまになったまま、しばたたかれた。

「私の家も見ての通り小さくて、あなたを寝かせるところはこの台所以外にないわ。だからそのまま寝ていなさい。お客を待たせているから、あとの話は閉店後にしましょう」

 廊下兼居間となっている家の中央から、敷き詰めた糸織布の一枚を持ってきて乾いたところに敷いてやった。

 再び、いや、三たびか……店先へ向かって踵を返す。

 銘韻の耳に、

「へい」

 と気の抜けた返事が聞こえた。



 仄白く輝く綿毛(わたげ)の灯かり。

 わななく光。

 微かな燐光はすい、すい、と闇に泳ぐ。それは闇に棲む精霊と呼ばれていた。かつては、生も死もない力の結晶と思われていた。空に滲む星の光輪が剥がれて落ちてきたものだと考える者もいた。

 谷間の底にのみ棲息するその虫に誰の手も届かなかったあいだは。

 白玄蟲(ハクゲンコ)

 今ではそう呼ばれる虫は、羽音さえたてずに宙を流れて、優雅な舞に命を費やす。

 輝くわたげの群れが、闇をうめつくしていた。

 やわらかな光は、白日の元では、ないも同じこと。この虫は夜しかその本当の姿をあらわさない。



「眼が覚めたの? 何か飲んだほうがいいわ。口を湿らすだけは、しておいてみたけど、噎せてしまうのも怖くて」

 敷かれていた糸織物を身体の前にほとんど抱え込みながら、ぱちくりと眼をひらいた男。

 声をかけた銘韻は台所の小さな卓で夜食をとっているところだった。真正面に寝ていた男の挙動はつぶさに目に入る。

「……」

「熱で声がつぶれてしまった?」

 横倒しの寝姿勢でじっと固まっていた男は、問われてやっと口をひらいた。

「いえいや」

 起き上がった男はおそるおそるゆっくりと周囲を見回した。それは状況を警戒しているというより、目の前の銘韻にだいぶ気を遣うような態度だった。急に動いて銘韻を怯えさせないようにと……。銘韻のほかに人の気配がしないのを察して、小さからず驚いているようだった。夜の静寂につつまれた小さな家の中に、若い娘が一人で暮らしている。そして曲がりなりにも背丈でまさる男を足枷もつけず目の前に置いている……。

(生まれつきの奴隷はそんな気遣いをしないわ。主人を襲うなど思いも寄らないものだから)

「水売り屋に話はつけたわ。こちらから出向く前に向こうの使いが怒鳴り込んできたのでちょうど良かった。……『荷車泥棒!』ってね」

 奴隷一人のことなど相手は大して気にしていなかった。あくまでも荷車の回収が大事なのだった。注文した水の倍の代金を支払うと大人しく使いは帰った。店に納められる金は注文分通りの額だろう。

「寒いの?」

 糸織布を首元まで引き上げ抱きしめて固まっている男をみて、銘韻は首をかしげた。砂漠の風が吹き溜まる都の夜は、当の砂漠の温度が極端に下がったあとも、空気に気だるく熱をはらんだままだ。男が寒気を感じているならそれは彼の身体の問題だろう。

 しかし、奴隷はふるふると首を振った。

 不精に伸びた砂色の髪から砂埃が落ちる。

「この通りの襤褸すがたですんで。きたねえ半裸の肌を、お食事中に見せるわけには……」

 恰好(みなり)を気にする奴隷も珍しい。

「困ったわね。この家には女物の服しかないから」

「いやいえ。ねだったわけじゃありませんので」

 眠りから覚めた身体は病を追い出すための咳にも目覚めて、男はしばらく苦しんだ。

 銘韻は立っていって樽から汲んだ水を男に差し出す。

「……めっそうもないことで」

 身体を丸めて咳き込みながら壁のほうに顔を背ける男に、

「おまえが運んできた水よ。いいから飲みなさい。奴隷は主の言うことを聞くものよ。そうでしょう」

 と陶器の椀を押し付けた。

 反射的に返ってきたのは、感動の眼ではなかった。

 毒でも入ってるんじゃないか、と言わんばかりの恐怖と警戒──。恐怖はまだしも、警戒の眼差しは何を意味しているのか。一人前の用心深さは、何も持たない奴隷にはやはりそぐわないものだ。

「それを飲んだら、羊の肉の汁物を飲んで。食べられるようなら炊米も食べて。がっついてしまわないよう少なくよそっておくわね。けちなわけじゃないのよ。食べたら朝まで眠るのよ。いいわね」

 竈の内と外の鍋からそれぞれ汁物と炊米を椀にもり、銘韻は男の前の床に揃えて置いた。

 湯気のたつ食べ物と銘韻の顔を交互に見ながら男はうろたえているようだった。

 不安が病を育てたか、咳の発作に身体を屈める。懸命にととのえる息の合間から、やっとのことで言葉を発した。食べ物に手をつける前に、どうしても聞いておかないではすまないと思ったらしい。

「……こ、この店は親切を売る店かなんかで?」

「ぜんぜん違うわ。私が売っているのは簡単な(のろ)い」

 ぎょっとしたように男の上目が銘韻を穿つ。

「のろ……」

「まじないとも言うけれど。まじないと言ってしまえば半端な術師にも言い訳がきくでしょう。わたしの施すものは、誰にも逃げられない咒いだから」

 とはいえ、どれも簡単で他愛ない願いのためのものだ。

 食卓にもどって、そこから前を見たとき、銘韻ははっとして瞳をひらいた。

 彼女を仰ぐ奴隷の男が、半笑いを浮かべていた。彼女に向かって、細く細く射抜くように眼を凝らして。

 熱にうかされる眼球の膜がてらりと、蝋燭の火影を映す。炎のひと揺れに揺さぶられた壁の影がおさまると笑みは幻のように消えていた。

 泥が乾いて罅割れた隙間に男は大粒の汗を浮かべている。遠慮と警戒から、まともな姿勢(なり)を保とうとしているが、本当はかなりつらいようだった。

(幻──だと思うわ)

 銘韻は空の椀に、肉をきれいに齧り終えた羊の軟骨を落とした。

「簡単な願いならわたしは叶えるのが得意なのよ。おかげさまで店は盛況。安くない値がむしろ富裕市民のお嬢様奥方様に好かれて予約が引きも切らない人気者。彼女たちに多少の対等な口をきいたって咎めを受けないくらいの地位を得ているの。それで少し傲慢になっているってわけ。屋根のあるところでゆっくり休みたいという奴隷の願いだってなんてことないのよ。さあ、これ以上お前を助けたことに言い訳の必要があるかしら」

 ある、と答えたのは銘韻の心の中の銘韻だった。

 奴隷の男はぽかんと口を開けているだけだ。

 銘韻は重ねた椀の上に目を伏せて、襤褸をまとう痩せた哀れな病人の姿を視界から外した。

「わたしも奴隷になりかけたことがあるからよ。すんでのところで拾われたの。あのとき拾われなければ、きっと虫けらみたいに死ぬか──虫けらよりも酷い人生を生きるか、していたはずよ」

 そして──。

(そして、わたしの(のろ)いが誰の願いも叶えなかったなら……)

 勢いのまま続けて紡がれようとした言葉が、口にのぼる前に銘韻の胸を刺す。焼くように。

 その痛みごと、今日運び込まれた新鮮な水で銘韻は飲み込んだ。




 書庫にだけは入らないで。他は何を触ってもいいし、どこにいてもいい──。ただそれだけを条件に、銘韻は痩せた奴隷を家奴隷として置くことにした。

「名前はあるの」

 と訊くと、男は首をすくめて答えた。

七衣(ナナイ)というんで」

 首をすくめるのもわかる。衣は財産を表す語だから、何も持たない奴隷には不相応に感じられもする名前だ。気性の悪い雇い主なら奴隷には贅沢な響きだというだけで殴りつけかねない。

 七衣は病からほどなく回復すると、細々(こまごま)と働いて銘韻から家事をほとんど奪ってしまった。病は栄養状態の悪さからくるものだった。いま現在の極貧さに、従来健常な彼の身体が打ちのめされて負けつつあったということだ。いま現在の……。立ち上がると七衣という男は銘韻よりも頭ふたつ分ほど背が高い。

 大人がままごとの家で遊ぶように小さな台所に立って、七衣は炊事すら器用にこなしていた。

「──お出かけで?」

 書庫から着替えて出ていった銘韻の日除け外套を目にとめ、七衣が眉を掲げる。額の泥に筋が寄り、皺のようになって残った。七衣は早朝必ず、運河沿いの土手に雑草を摘みにいき、泥と混ぜて奴隷の化粧を施し直す。

「ええ」

「行ってらっしゃいませ。書庫には入りません」

 仕立てたばかりの麻衣の上衣の裾で手を拭きながら頭を下げた。

「お前も連れていくわ」

 えっ、と七衣が顔を上げる。

「あぁ、買出しです?」

「もう少し遠くに」

 首を傾げて不安そうな表情をした。

「商売道具を仕入れにいくのよ。奴隷を売りにいくわけじゃないわ」

 あからさまに七衣はほっとした様子だ。

「広場で馬を借りるけれど、乗れるかしら」

「……乗れます、へぃ」

 銘韻は生まれて初めて持った家奴隷とともに街を歩いた。借馬を牽いて塔門の跳ね橋を渡り、城壁の外に出る。東南にひろがる田園地帯へ向かって馬を駆った。

 空の下にくっきりと稜線をえがく遠くの山並を左手に見ながら、馬は水田に引かれた水の源流、阿蘭埜河のほとりを目指す。

 帝国を生み育てた悠久の大河、阿蘭埜。

 その河は帝国の滅びのときにも穏やかに流れていた。その河を渡った覇王が、帝国将兵の血で河の下流を染めたときも。

 水辺にて馬に水を飲ませてから、丘陵地へ駆け上がる。

 花の盛りをとっくに終えた、人の背丈ほどの低木が、しなだれる枝々に青々とした葉っぱを茂らせていた。群生する押甲花。(まじない)模様で肌を染めるメヘンディの染料が、この葉っぱから精製される。乾期の訪れにそろそろ葉が落ちはじめる頃、まさに今頃がもっとも収穫に適した時季だ。

「籠をいっぱいにして帰るわよ」

 炎天下の葉摘みを宣言し、銘韻は七衣を群生地の端に追い立てた。

 端から端を征服する意気込みで。

 鞍の両側にひとつずつ、大籠を四つ提げてきてある。

「今の時期の葉っぱは、いちばん収穫量が多くて、色素も濃く出るのよ」

 枝切りの鋏を当てて葉を一枚ずつ摘むたび、蒸し茶の匂いに似た独特の香がたつ。銘韻は満足しつつ鼻腔を膨らませる。良質の葉のあかしだ。

 ぱちんぱちんぱちんぱちんぱちん──。

 直角線上で近づいては対角線上に遠ざかる働き者の七衣が、遠くで首をめぐらしながら、つい、という疑問を発した。

「ここ……一帯がご主人の土地なんで?」

 近くには二人の他に誰の姿もないというのに、口元に手を当てるなどして内証話の体裁をとる。

 そのわざとらしい仕草はともかく、だいぶ不思議に思っている様子だ。

 都周辺の肥沃地は以前なら帝国の権力者たちが、今なら覇王の息のかかった者たちが押さえているはずの莫大な収入源。ただの咒師には、どれほど金があったとしても所有の権利を許されないだろう。

「いいえ。借りているだけよ」

 簡潔に答える銘韻の首筋を、風が撫ぜる。かすかに水の匂いがする。江風。

 冷涼さにはぜんぜん足りなくて、こめかみから頬に垂れてくる汗を手首で拭う。そして、ぱちん。

「どうしたの、七衣。そっちは鋏の音が聞こえなくなったわ。遊んでいるのかしら」

 目の端で鋭い刃が陽射しに煌めく。

 すぐ背後で足音がして、銘韻ははっと振り返った。

(──)

 誰も、いない。

 地を這う低木の下枝(しずえ)を掻き分けて野鼠が走り去った。

 目で探した七衣は、いっぱいになった籠を取り替えに、つないだ馬の元へ歩いていくところだった。

 銘韻は小さく息を吐く。

(無駄に怖がるくらいなら拾わなければいいのよ……ばかね)

 遮るものなく照りつける陽射しの下で、めまいに似た孤独を感じたというだけだろう。見渡す限りの田園地帯に、人の姿は豆粒大でしか見えない。

「わたしの故郷は阿蘭埜河の上流にあった」

 空の籠を手渡しに歩いてきた七衣に聞かせるともなく、大河を見下ろして呟いた。上流を視線で遡り、霞の中へ消えていく行き先に目を細める。

「今はもう、ないわ」

 戸惑いながら真似をして七衣の眼が霞の中の幻を追う。そして、何も見つけられないことが申し訳ないというように彼はうつむいた。

「ええ、跡形もなく、滅ぼされたわ」

 銘韻は大河を見つめつづける。かたわらから強い視線を感じた。

 七衣の手元で、鋏が空しくぱちんと閉じた。

「おれもおんなじで」

「そう」

 国を追われて、あるいはなくして。何もかも失って何も持たない奴隷になる──珍しい話ではなかった。

 持ち前の飄々とした態度をすぐ復活させた七衣は、慣れた作業を再開して手を動かしながら、合間合間に都の方角を眺めていた。

「この場所は、こんなにもよく、宮殿が見えるんですねえ」

 城壁よりも高みにある丘陵からは、都の中央に七つの尖塔を聳えさせる白亜の宮殿のすがたが余すところなく捉えられた。陽光を浴びててらてらとなまめかしいような光を孕む石の宮。〈絹の天幕〉という別名で呼ばれる支配者の座。たったの三年前に主を替えたばかりの。

 知らなかった、という響きが強くその声にはこもっていた。

 切れ味の落ちた鋏の刃を陽にかざしながら、

「すぐそこみたいに見える。──覇王の城が」

 七衣は困ってしまったように首を振った。



 ──書庫には入らないで。

 書庫、と呼んでいる部屋は作業場で、染料倉庫で、そして今は銘韻の私室だ。簡単な掛け鍵しかかからないが、七衣を雇う以前も今も不安を感じたことはない。この家は表にも裏戸にも錠はついていない。用心の必要は頭ではわかっていたが、心が動かないからなおざりのままだ。

 毎晩寝る前にはここに籠って(まじない)の図案を研究している。壁面にうずたかく積み上げた綴じ本や羊皮紙の束には、古の術、東の紋様、西の図案、南北の染料植物などなどの知識が埋まっている。銘韻は貿易路を渡って都の誇る〈大図書館〉に持ち込まれるそれらを、つてを頼って〈大図書館〉から借り出しては、日夜解読し、写本し、術を磨く。

 つてを強固にしておくためにも、羊皮紙や草紙を切らさずにおくにも金がかかる。知識を得るために銘韻は商売に励む。励んで増える金で商売のための知識を得る。

 知識も金も、なければ生きていけないと銘韻は思っている。

 だがどちらを得ても、幸せにはなれない。

   じじじ……

 燭台の風防の中で、ちいさな悲鳴のような煙が上がった。

「何故かしら、光に集まる虫ではないのに」

 炎で翅を焼いて燭台皿に落ちた虫。その無残なすがたを、訝しんで見つめた。

「何故かしら……」

 銘韻は筆を置いて、虫の死骸を手に取るため濁り硝子の風防を外した。そしてすぐ違和感に気付く。硝子に触れた手がべたべたするのだ。指は甘い香りがした。何かの……蜜の……そう。

 蟲たちの餌にしている押甲花の蜜だ。花の季節に採取した蜜の瓶詰は文机の下に並べてある。

 燭台に火をつけるとき、風防には触れない仕組みだ。

 蜜がなぜ、燭台の風防に、塗られて?

「──」

 首筋に冷たく、刃が当てられていた。

「っ!」

 腕をまわして押さえられた肩が乱暴に後ろへ引かれ、何がどう、という順番もわからないうちに仰向けに押し倒されていた。圧倒的な力が銘韻を組み敷いた。圧し上げられる喉元の刃に、悲鳴も出ない顎を仰け反らせる。

 見知らぬ男が銘韻を見下ろしている。

 見たことのない顔が。

「声を上げないように。騒いだりしたら僕の道連れにして広場で首をくくってもらうので、そのつもりでね?」

 上からそそぐ火影が男の肌を黄金色に照らしている。気品に秀でてなめらかな額。まっすぐに彫り上げられたような鼻筋。銘韻の耳元にそれは近づいて、聞いたことのない声が耳を打った。

 その顔を見たこともその口調を聞いたこともない男の、名前だけは、銘韻は知っていた。

「七衣……」

 抵抗するすべもなく全身をただ強張らせるだけの銘韻の様子をみて、押し当てられた肉切りの刃がわずかに緩む。

 呼ばれた男がじっと銘韻の瞳の中を見つめる。

「本当にそれだけなんだろうか。僕のこと、他にもっと知っているんじゃないかな? とっくに気付いていただろう」

 銘韻は刃の冷たさを感じながら、小さく首を振った。

「何のことかわからないわ」

 問い返す銘韻の芯の強さは、七衣を驚かせない。互いに、よほど相手をよく観察していたのだろう。

「僕が新帝国のお尋ね者だという、こと?」

 自ら言っておいて語尾を疑問調に撥ね上げる。口元に軽薄な笑みが零れる。これまでの銘韻の観察は、奥に秘められた性格までは見通すことができなかった。七衣は徹底的にそれを表には出さず、奴隷らしさに徹していたからだ。 

「そうなの?」

「生きていることが知られれば、という条件の元では、だ」

 銘韻は瞼を閉じた。

 知識の海から、符合する情報をさらいあげるために。

「帝国では世継ぎのことを七衣の皇子と呼ぶこともあるのだったかしら……そう、生きていたのね。処刑されたって聞いていたけれど、偽者だったのかしらね。──それで、死に損ないの亡国の皇子はわたしを虜にしてこれから何をしようというの」

 銘韻は呟きながら文机のほうへ頭を仰け反らせた。やっと先ほどの謎に答えを見出す。蜜の塗られた風防。七衣が言いつけを破って書庫へたびたび入り込んでいることを銘韻はうすうす知っていた。店に出ているあいだや、そう多くはなかったが銘韻一人で外出していたあいだ、七衣が書庫を調べる機会はいくらでもあった。

 七衣は今夜のために、あらかじめ小細工を仕掛けておいたのだろう。甘い匂いに誘われて燭台の灯火に飛び込む蟲と、風防の蜜に銘韻が気をとられている隙に、戸の隙間から道具を使って掛け金を上げ、気配を殺して近づいた。隙間に差し込めるものなら何でも──肉切りの刃でも外せる簡単な鍵だ。

「ちっとも怯えないんだね。男に慣れているとはわからなかった」

 七衣の声音はまるでからかうようだ。

 冷めた心で銘韻は呟く。

「四十日目よ」

 え? と七衣が首を傾げる。

「小さな欲望を満たすだけなら、四十日もかけて機会を窺う必要なんてない。あなたが持ち込みたいのはもっと厄介で大それたことなんでしょう」

 ふと七衣の顔つきが揺らぐ。素直な奴隷の面影を一瞬にして取り戻したと思うと、表情は誠実なままに、軽薄な本性そのものの含み笑いを喉の奥で転がして、それから──。

 七衣は肩をすくめてみせながら刃を捨てた。銘韻の喉は紙一重の痛みから開放される。

 伏せ気味にした七衣の眼のなかで、虚ろな真実が彷徨っていた。

「その通りだ」

 抑揚を抑えた声は、魂に激烈な目的を抱える者が出す声だと、銘韻は知っていた。

「小手先の脅しは君には通じない。わかってたよ」

 それは心からの敗北の笑みに思えた。

「頼みがある。君に頼みがある。君とは、つまり、辺境の蒼国を勝利者にした、草原の王の(イレ)──」

「七衣」

 真面目に話しはじめた男の声を遮り、銘韻は視線を使って天井へ彼の注目を誘導した。

「きっとあなたは、あれを見たのでしょう」

 (いざな)われて七衣が頭上を仰ぐ。と、眼を剥いて彼が叫んだ。

「わっ!」

 驚愕して七衣は背を反らし、後ろに倒れこむように飛びすさった。

「なんだ、なに?!」

 天井を埋め尽くす無数の光。

 わななく燐光の、群れ。

 異様なまでの密集と、ありえないまでに美しい発光。白い光の氾濫に、男の双眼は釘付けられたまま動かなくなる。声を失って。

 眼下で起きているどたばた騒ぎの振動によって、蟲たちはにわかにさざめきはじめていた。淡い光につつまれた翅を震わせて、点々と、落ちてくる──。

 ふわり。

 ふわり。ふわり。

 ふわり。ふわり。ふわり。

 天から星の光が剥がれ落ちるように、零れ、零れて。

 二人の周りを埋め尽くした。

「夜の白玄蟲を見るのは初めてでしょうね」

 のしかかる重い拘束から自由になった銘韻は、白々しいと自覚しつつも清々として、言った。



「完咒の刺青を僕に施してほしい」

 七衣の皇子の頼みは簡潔だ。

 簡単ではないが、単純だ。そして、彼にとってそれは最後の希望だ。

「手がかりは白玄蟲──伝えられる覇王の武勇譚では、その刺青師は蟲を飼っているはずだった。草原の王の刺青師は女で、しかも若い娘で、最近では草原の王の元を離れたという噂が、まことしやかに街に流れていた。よく耳を開いていなければ掴まえられもしないような頼りない噂だけど、僕にとっては金より貴重な情報だ」

 つねに笑いを片隅に置いているような眼で銘韻を見据えながら、七衣はここに辿り着くまでの事情と経路を語った。濃い茶色の虹彩と、同じ色の柔らかい髪と、けして中身の透きとおらない大理石めいた真白い肌が、旧帝国の主流を占める民族の特徴だ。亜蘭埜河上流の少数民族だった銘韻や、辺境騎馬民族から出でた草原の王の肌は黄色い。黄色い肌と黒髪は蛮族の色とされていた。三年前の征服劇までは。

「まさかとは思った。草原の王が、手中の秘策そのものである君を街中(まちなか)に晒しておくとは考えられない。宮殿に閉じ込めて守っておくはずじゃないか」

 ──メヘンディを生業にする草原民族の女、その年頃と、(まじない)の腕前についての評判を耳に挟んで、七衣皇子はそれでも、もしや、という希みを抱いたという。それはちょうどあの水売り屋で働きはじめた頃のことだ。そこに運良く、本当に幸運なことに、銘韻が水売り屋に注文を入れてくるという偶然が起こった。

「奴隷は噂を知るにはいい身分だ。誰かの家に出入りするのにも」

「病は芝居じゃなかったわ」

「ああ。本当に熱を出して参っていたんだよね。おかげで時間をかけずまんまと君の家に入り込んでしまった。君がお人好しだったおかげで」

 えくぼに届く笑みじわを、皮肉げによじらせながら……。

 その片手は、適当に拾い上げた仮面を弄ぶ。全体にくまなく波形の刺青模様を施された木彫仮面。古代の儀式に神官が被ったとされるものだ。今では滅びた異教のものだ。

 仮面が用いられるようになる前は、おそらく神官の肌に実際に刺青が彫られていたと推測されている。

「奴隷の仮面を被るのは苦もない」

 戯れにそれを当ててみる七衣のしぐさの意味を、銘韻は冷たく受け流す。

「というより、それって僕にとってはもう仮面でもない。僕はその通り何も持たないものなのでね。たった今も、これから先も」

 銘韻は鋭く七衣を見返した。

「これから先も……? では完咒の刺青をもってあなたは何を願うというの」

「やはり願いを教えなければだめかな。術には願いの中身も必要?」

「そういうことはないわ」

 淡々と首を振って、銘韻は否定した。

「ただ、私がよほど納得できなければあなたの依頼を受けることは無理だわ。完咒の刺青の施術は私にとって、もう封印したものだから。前もって言っておくけれど、よほど納得できる願いというのが私には一つも思いつかない。だから、限りなく無理だと思って」

 わかっていないね、と七衣がわらう。

「刃を捨てたのは君が混乱して叫び出したりしないと認めたからで、君への脅しは凶器がなくても成立しているんだよ。僕が草原の王に捕まって、君を反逆の共犯者だと言えばどうなるだろう」

 銘韻は少し考える間をおいて、答えた。

「わたしも絞首されるわね」

「ふーん。なるほど草原の王はそういう性格か。いまのはカマをかけたというか、賭けだったんだけれど。だって、君の持つ力は簡単に切り捨てられるものではないだろうに」

「覇釈王は簡単に人を殺すわ。だから私は王の元を去った」

 ふいと七衣が立ち上がり、掌をかかげ、宙を舞うわたげの光の一つをつつんだ。

 ぎゅうと握りつぶされる拳。

 銘韻は白玄蟲のちいさな命を惜しんで顔を強張らせる。

「もし僕が真面目な皇子だったら、今の君の言葉に激昂するだろうね。でもご存知のとおり、僕も僕の周りも帝国の皇族貴族はすべて堕落と腐敗を謳歌していたからなあ」

 口調は当時の彼のどうしようもない軽薄さを再現するかのようだ。

 近づいた銘韻の鼻先でひらかれた掌から、わたげの光がふうわりと飛ぶ。

「その、堕落の都を落として、僕の身内を皆殺しにしたのは君の(まじない)の力。いや、べつだん僕は君を怨まない。腐敗は排除されるべきだったと思うし、惰性にまかせて侵攻する帝国のあくなき膨張に黙ってられなくなった草原の王のきもちもわかる。まあ、あれは、あの最後は国の歴史の長すぎたことによる自壊みたいなものなんだと思う。さいわい草原の王は帝国のいいところをすべて残して統治しているし……」

 言葉は途切れて、しばらく視線が彷徨った。

 なぜ七衣がそこで言い淀んだのか、銘韻は眼を逸らしながら理解していた。今はまだ七衣が語ったとおり、変化は与えられていない。〈絹の天幕〉の玉座についた覇釈王は政治を大きく動かしていない。

 永遠を見据えるほどの栄華を維持しつづけた帝国には、ありとあらゆる民族と文化が混ざりあって息をしている。帝国の統治法は、法と財の二柱から成っていた。人々を分けるのは市民か市民でないかという法であり、市民になれるかなれないかは財を所有するかしないかによって決定される。残酷にして厳格なる公正さ。それが生むのは法と金に保証される成り上がりの自由だ。併呑されていく国の支配者の敵は帝国ではなくて、彼らが虐げてきた者たちだった。

 ありとあらゆる言語、文化、習俗がその地そのままに生き残り、帝国のおおらかな庇護の元に爛熟した。

 貿易の道がひらかれ、豊かに栄えていく侵略地。そこから吸い上げた富で皇族貴族政治家たちは肥え太り乱れきり歴史に比類なき頽廃を極めていた──。

 草原の国は、頽廃とは無縁である。だが代わりに、洗練された法がない。草原の王の統治は力によるものだ。

「話を戻そう。僕が取り戻したいのは過去の腐乱した栄華なんかじゃないのさ。欲しいのは九石の皇女の未来だ。そのために僕は草原の王を殺したいのだ」

 七衣の皇子が皇太子の異名ならば、九石の皇女はその妹姫の尊称だ。生まれながらに九つの貴石を両手に飾って生まれてくる娘。

「あなたの妹は──」

 銘韻の声はかすれた。

「妹は亜蘭埜の都が堕ちてからずっと、草原の王の慰み者になっている」

 わざわざ言葉にしなくてもいいだろうことを、平然と七衣は口にしてみせた。

 双眸の片隅にとどめた笑みは消えない。

「妹は君と同じくらいの年頃だ。三年前、妹は腐乱とは程遠いまだほんの青い蕾だった。妹には幼なじみの許婚があって、二人は実の兄妹よりもよほど兄妹みたいで僕はとてもとてもとても恥ずかしくて見ていられないくらい仲がよかったんだよ。彼も草原の王に殺されたけれどね」

 犠げの姫君、といま呼ばれている皇女は、その当時から、帝国貴族の良心と敬われる聡明さをそなえた乙女であった。

 幾つかの重要な法が覇釈王によって廃されようとしたとき、彼女の果敢な諫言によって、王の翻意が決まったとも噂されている。文字通りに身を挺して帝国の遺産を守る彼女。

 しかし彼女はけして、覇釈王の夫人の一人とは扱われない。かつて帝国が帝国であるゆえんは、君臨する帝室の存在によって証されていた。『丈夫な袋がいるのかい。ありとあらゆる民族と文化を掴んでは放り入れても破れない袋は、皇帝の焼き印入りの革袋だけ』という冗談があったほどだ。

 皇族の血筋が生き残る限り、覇釈王の新帝国はいずれ旧帝国に呑み込まれるだろう。

 ほかの皇族方と同じように、九石の皇女も処刑されるはずだったのだ。だが覇釈王は皇女に死を与えず、〈絹の天幕〉の最奥部に幽閉し、草原の部族が被征服者を戦利品とする同じやり方で彼女を我が物とした。あれほど美しい姫ならさもあらん、と都の人々は言う。そして蛮行への苦々しさを隠しきれずに唾を吐く。都の九石の姫君が蛮族の妾にされようとは世も終わりだ、と。

 犠げの姫君は愛妾の身分すら与えられていない。

 彼女はこれまで覇釈王とのあいだに二子を孕んだが、二人とも産声を上げる間もなく殺されたという話だ。皇族の血は残してはならない──。

「復讐でもなんでもないんだ。ただ妹のために草原の王にいなくなってもらうことが必要というだけなんだ」 

 縦のものを横に倒すだけの、とても簡単で単純なことだと。

 からりと乾いた望み。

 少なくとも、いま目の前の七衣は悲劇を語りながら欠片の憎悪も表してはいない。怒りも悲嘆もその眼の中にはない。あるのは自嘲に歪んだかすかな笑みだけ。

 それも彼の仮面だろうか。銘韻を動かすには理屈があれば充分だと知るからだろうか。そう、確かに、銘韻は納得が必要だと先に言った。

 これでどう? と言いたげな七衣の視線に、何もかも見透かされているような気がした。

「……咒いに魂を浸す覚悟があるのかしら」

 メヘンディとはわけが違う話だ。ささやかな願いに力添えする(まじない)ではない。完咒の刺青は逃れえぬ咒いなのだ。咒い。咒いをこの世に持ち込む者はその身のすべてを罪に蝕まれる。罪そのものとして生きる覚悟がないならば、それを求めてはならない。

「もちろん」

 七衣の覚悟が本当かどうかは、どうせ咒いの完成までにわかる。願う心にわずかでも嘘や歪みがあるならば勝手に音を上げて逃げだすことになるだろう。だから──。

 そっと差し出した手で銘韻は、宙を舞う白玄蟲を目的を持って掴まえた。



 心奪われるほどうつくしいものには必ず陰惨で禍々しい裏側がある。輝く金銀は腐った膿から生成される。かつて銘韻にそう教えた男がいた──。

「都のことを言っているわけだ。なかなか真実を射ておもしろいじゃないか」

 神秘の光として謳われた谷底の蟲もまた、汚れた一面を持つ。

「草原の王は都の絢爛と澱みを嫌っていたのかな」

 彼を保護した最初の夜のように、清潔な糸織布の上に身を横たえている七衣。

 最初のその夜と違うのは、いま彼は襤褸すらまとわずに総身の肌を赤裸々に晒していること。

 洗い上げた肌が乳白色の若さを輝かせている。だが広い背中にはところどころ木通(あけび)の実が破裂したような傷痕が目立つ。奴隷が受ける鞭の痕だ。

「嫌っていたとしても、そのころの彼は阿蘭埜の都を見たことがなかったわ。攻め上がるまで一度も」

 木綿の綿に消毒用の酒を浸し、初めに針を入れる肩甲骨のあたりを拭き清めながら銘韻は七衣の疑問に答えた。

 うつ伏せた七衣の首がわずかに返る。

「君は覇釈王と親しかったのか? もしかして友達?」

 銘韻は綿を捨て、刷毛に持ち替えた。

「……いいえ」

 深皿に溶いた〈墨〉を刷毛の全体で混ぜる。きらきらと反射を返す透明なそれは普通にいう墨ではない。便宜的に銘韻は〈墨〉と呼んでいるだけだ。

 刷毛をしごいて取り出し、――〈針〉を浸した。

「わたしの故郷は覇釈の父親に滅ぼされたのよ。部族の男たちは皆殺しにされた。女子供はほとんどが奴隷に売られた。彼らが攻めてきて集落に火を放ったとき、母と姉は毒を飲んで死んだ。わたしはどうしても飲みきれずに、もたもたするあいだに捕まったの」

 糸織物の傍におかれた墨皿を見やりながら、七衣はちょっと考えるような間を置いた。

「あの話は実話?」

 あの話とは、銘韻が奴隷の彼を家に保護したときの言い訳のことだろう。

「そうね」

「じゃあ、君を奴隷の運命から救った男っていうのは──」

「落とすわよ、いい?」

 利き手に針を持ち、銘韻は平らな七衣の背肌に手を添える。

「ああ。どうぞ。さっさとやって」

 針は十二本を束にして一つに巻いたものだ。墨に浸された針で肌を刺し、色を沈着させる――そうして肌に直接図柄を彫り込んでいく入れ墨という手法は、太古から人間の生活に密着して存在している。世界の各地で入れ墨の意味するものは種々様々であるが、阿蘭埜河流域では、肌に消せない色を残す入れ墨は古くから罪人の識別に用いられてきた。逆に、肌にあとを残さないメヘンディは、その習俗が阿蘭埜下流から持ち込まれていらい富裕市民のたしなみとして定着した。

「――」

 背中が隆起する。たまらず息を詰まらせた七衣は敷布を掴んで耐え、かろうじて床に身体を落とし直す。 

 銘韻が用いるのは特に〈羽彫り〉といわれる皮膚下で深く抉る技法だ。一筆一筆が、凄まじい痛みを伴う。

「無理なようなら、やめにするけど」

「全然」

 へらりと口角をあげて七衣が返す。

「続けてくれ。全然たいしたことはない」

 銘韻は加減も速さも緩めることなく淡々と針を穿ちつづける。針の下で七衣の肌は、痛みに震えまいとして張り詰めている。首の向きを向こう側に変えて七衣は喉の奥から漏れようとする呻きを抑え込んだ。背中全体に朱がさした。

 七衣は潰れた姿勢のまま首を振った。何かの発作みたいに、むちゃくちゃに。

(やはり駄目かしらね)

 だが、やがてくつくつと噛み殺すような笑いがつづく。

「──僕が覇釈王に敵うわけがないって思っていたかい?」

「これを乗り越えなければどうせ覇釈には勝てないわ」

 〈墨〉を含ませては針を運ぶ。力を抜いていられるなら座ってくれてもいい、と銘韻は彼に自由な姿勢を許した。七衣があぐらをかいて座り直すと、彫師にとっても背中の上部は力を入れやすい位置にくる。

「耐えるよ、僕は。僕は快楽には慣れているからね。ありとあらゆる快楽にね」

「快楽?」

 嘯く目の前の背中。銘韻の家奴隷になってからの四十日でその身体はだいぶ健康な肉付きを取り戻していた。元々が痩せ型だから見た目にそう変わらないと思っていたが、衣服を剥いだ肌は、手を這わせれば力強い筋肉の峰を感じられる。

「痛みだって立派な仲間だ。世の苦しみと無縁の〈絹の天幕〉の内側でわざわざそれを好んでいた者たちを知っている。苦痛を娯楽として楽しめる人間がいるならそうなんだろう。たぶん──」

「毎晩夜半までつづけても、完成するまで二ヶ月と半かかるから、覚悟して」

 首筋に玉の汗を並べながら強がりを通す男に、彫師は冷徹に計算した事実を告げた。見事に激痛への追い討ちとなったようだ。

「……ッ」

 銘韻の術は、罪人の刻印とも富裕層の装飾とも起源をともにしない。

 とっくに滅び、忘れ去られ、今ここに存在してはならない秘術――。

 人一人をまるごと呑み込む、禁じられた(じゅ)

 この(のろ)いは一針一針の刺青が総身を覆うまで完成しない。

 まだ。

 うなだれるのはまだ、まったく早い。

 完咒の刺青が要求するのは苦痛だけではない。

「最初にも言ったけれど、この咒いはけして割のいいものではないのよ。必ず被術者の願いを叶えるかわりに、奪い取るものが多いわ」

 立てた膝を支柱にして銘韻も長期戦の姿勢をとっている。

 「背中じゃ見えないな」と七衣にぼやかれたが、そもそも針を進める銘韻にも、一向に〈墨〉のあとは見えてこない。

 使う〈墨〉は色を持たないものだ。透明な粉。──白玄蟲の、鱗粉だ。

 夜になると発光する白玄蟲の鱗粉だが、水に溶かすと光を失う。それを針先に付着させて肌に沈着させる。だから色はない。色が出ないということは、彫師にとっては針跡だけを手がかりに完成図に迫っていかねばならない難易度の高い作業だ。

 銘韻は下絵も書かない。図案は銘韻の頭の中にある。

 完咒の刺青──その古い古い究極の(まじない)は、銘韻が銘韻ひとりの力で発掘したものだ。 

「〈その命か、その心か、あるいはその者にとって最も大切なもの〉、か……」

 願いが叶えられる完咒の瞬間、その中でどれか一つ、その者がいちばん奪われたくないものを咒いは奪っていく。人は自分自身の真の欲望を把握できやしないから、三つのうちどれを奪われるかは、まったくの博打だ。

「ならば、草原の王もそのうちのどれかを失くしたわけだ。生きてるってことは命ではないから、あとの二つのうちどちらか。最も大切なものか、心か。彼はどっちをなくした?」

 銘韻は答えなかった。



 焦げ付く匂いが流れてきた。風が焦がされているのだろうかと思った。熱を帯びた嫌なにおいが扉の隙間から侵入して家中に充たされていく。隅の壁際でメインヤは母親の顔を見上げた。隣に肩を並べて座る姉がメインヤの手を痛いほど握ってくる。

「さあこれを」

 木製の椀に茶色い汁が小さな泡を浮かべて揺れていた。

「飲みましょうね」

「かあさま、とうさまのお帰りを待たないの」

「とうさまは皆のために声明(しょうみょう)をつづけています。わたくしたちの魂のよき旅立ちも、とうさまがお祈りくださっていますよ」

「とうさまはもう……」

 霊性に恵まれた姉が遠くを見る目を呆然と見開いて呟いている。

「さあ、わたくしたちも精霊の谷底へと向かいましょう。立派な精神を示すのですよ。精霊筋の家の者として」

 両頬をとめどない涙で濡らしながら姉が椀を煽った。

「ねえさま、顎に垂らした。お行儀わるい」

 姉はとつぜん背にした壁に頭を激しく打ち付けはじめて、びっくりして固まるメインヤの前で、ぐわ、ぐわ、と潰れた声とも咳ともつかない音を喉から発した。メインヤの手に爪を食い込ませたまま横に倒れて、そのまま動かなくなった。

「メインヤ、わたくしの真似をしなさい」

 家の戸が黒い煙を吹き上げる隅から赤く燃えはじめていた。

「かあさま、おうちが燃えてしまうわ、書庫と一緒に……」

「彼らがくる前に、メインヤ。わたくしたちの力を外の者の手に渡してはなりません。知恵はすべて火にくべました。あとはわたくしたちが──」

「かあさま、誰かが入ろうとしている」

 メインヤの手を支えて母が無理やり椀を持ち上げた。唇の隙間から流れ込む苦い汁。メインヤは噎せてしまった。

 どっと音を立てて大勢の男が家の中に入ってきた。外れた戸の倒れる音があとから響く。白煙を掻き分けて姉よりも少し年上というくらいの少年が近づいてくる。メインヤは噎せたくるしさと沁みる煙で涙を零す。かあさま、肩が重たいわ……。

「毒を──。すぐ助けてやる」

 近くで声が聞こえたと思ったら、真っ赤な血にまみれた手が目の前に迫った。次の瞬間、硬い指が口の中に入ってきてメインヤは目を見開く。景色が天地をひっくり返し、わけがわからないまま、腹の底からえずいていた。誰のものか知れない他人の血の味が拡がった。メインヤは胃の中のものをぜんぶ吐いた。



「蒼国はおまえを、国の占術役として迎え入れる」

 二度めに少年がメインヤの前にあらわれたとき、彼は口を開くなりそう言った。

「年は幾つだ」

「八っつ」

 メインヤはずっとぼんやりしていた。自分がどこにいるのか、どうしてそこにいるのか、わからなかった。それでも、ついさっきまでよりはだいぶ、目が覚めていた。

 異国の天幕式住居(ユルタ)の中だった。

 ついさっきまで、メインヤはずっと、ぼんやりしていた。朝が来て明るくなった、夜が来て暗くなった、くらいのことがぼんやりとわかるだけの、はっきりしない長い時間を過ごしていた。何日そうしていたのかも覚えていない。

 少年が目の前に立ったとき、メインヤは目覚めた。煙と火のにおいがしたように思って。

 だがここには、煙も火もない。

 日差しの強い外を透かして、天幕の布壁には忙しなく行き交う人々の影絵が踊っていた。

「年のわりに幼い。俺は十五だ」

「ねえさまの二つ上?」

 メインヤが訊いたのに、なぜだかちゃんと答えようとしてくれずに目を逸らした。逸らしたまま彼のほうから質問を重ねた。

「名前は」

「メインヤ。睨国のメインヤ」

「俺はハジャク」

 ハジャクは蒼国をまとめる部族王の息子だった。

 蒼国。その名を聞いてメインヤは身体を震わせた。蒼国が攻めてくる。睨国を呑み込もうとして駆けてくる、騎馬の草原部族たち──。国の男たちは戦いに出て、精霊筋であるメインヤの父は戦勝を呼び込む声明をあげに、彼らとともに行った。

「生き残ったのはお前だけだ」

 それは、ハジャクの嘘だった。たしかに男たちの多くは死んだ。女子供と老人にも様々に悲惨な理由で死者は出た。だが、すべての命が消えたわけではなかった。

 それはまた、ハジャクの真実だった。国を攻められ、戦に敗け、王を殺され、敵国に呑まれた国と民は、死んだも同然だ。ある者は売られ、ある者は奴隷以下の境遇に貶められる。勝つか滅びるか。呑むか呑まれるか。それが草原の部族の考え方だった。

「睨国の人間の血を残したければ、俺に従え」

 敗者は人間ではない。ほかは皆、人間ではないものに落とされた。メインヤだけが、生きて睨国の誇りを守れるとハジャクは言った。

「ハジャクに従う……? 奴隷になるの?」

「違う。お前は占術役として、精霊筋の知恵を継承する。俺に精霊の術による勝利をもたらす者になれ。学を究めようとする者は奴隷ではない」

「知恵──」

 メインヤはそのとき、とても喉が乾いていると感じた。胸がひりひりするくらいの渇きを、唐突に思い出したのだ。

「わたし……」

 埃に汚れた指で、ハジャクに縋りついていた。

 ハジャクの精悍な戦士の無表情が乱れたのは、メインヤの反応が予期しないものだったからだ。

 メインヤはハジャクが与えてくれようとするものに飛びついた。精霊に仕える精霊筋の家に生まれたのに、メインヤは霊性に恵まれなかった。精霊に愛された姉と違い、メインヤは視えざるものを視たことがない。視えないものを視せてくれるのは文字だった。知恵の詰まった書物だった。精霊筋の家にはあふれるほどの書物があった。すべて母が燃やしてしまった。大人になるまでに、あれをぜんぶ読みたかったのに──。

 餓えた知識欲を抱えて、仇の伸ばした腕の中へと飛び込んだ。

「わたしの国が……燃えてしまった……」

 メインヤの国は書庫だ。

「書が……書がぜんぶ……っ」

 小さな肩に、両手が置かれた。

「亜蘭埜の都の大図書館ほど、とまではいかないが、お前のために書を集めてやる」

 草原の民は誰もが、手に何かしらの技を持って遊牧の暮らしを生きている。技は誇りだ。ハジャクの極める技が武芸であるように、メインヤの技は知恵と知識を深めることなのだと、彼は瞬時に悟って、メインヤにそれをそのまま語りもした。

「俺の武芸と武勲は、草原の部族の誇りを守るためにある。いつか帝国は亜蘭埜の大河を越えてくる。誇りなき腐敗した帝国に、呑まれるわけにはいかない。侵略を払いのけ、打ち勝つための武力だ。生きるための力だ。同じ力が、学ぶ技を持つお前にもある」

 黒い双眸が見下ろした。

「いつか、亜蘭埜の大図書館もお前のものにしてやる」

 そのときだけ、ハジャクの表情は少しだけ子供めいて見えた。後にも先にも、そのときだけ──。

「いつか。おそらく、戦いはすぐそこだ」

 亜蘭埜の都では、何の技ももたない人間が民に(かしず)かれて生きている。栄華の頂には退廃がまかり通る。十を過ぎたばかりの世継ぎの皇子が宮殿内につくりあげたのは、極限まで太らせ飛べなくした鳥と毒花だけの鳥花園だ。不毛な楽園で世継ぎの皇子はひがな少量の毒に酩酊しつづけるという。

 滅ぶべきは誇りなき帝国だ。と、ハジャクは遠くを射抜く瞳をして呟いた。



 蒼国はハジャクの祖父の時代に草原の五つの部族を束ねて成り立った国だ。現王の仕掛ける戦で亜蘭埜上流東岸の草原地域を瞬く間に荒らし尽くし、国の規模を拡げた。

 メインヤの睨国は草原の民だが遊牧をしない少数民族の小さな(さと)だった。

 ──滅びた国の、その先に精霊の谷がある。

「完咒の刺青の染料がわかったの。とうとう突き止めたわ。昨日あなたが連れてきた商人。彼が持っていた亜蘭埜の大図書館製の写本のなかに、あったの。五十年前の学者が旅して聞き取った伝承を書き残したものらしいわ。(まじない)を刻む刺青の染料は、思ったとおり白玄蟲の鱗粉だわ」

「白玄蟲」

 受け取った羊皮祇の束をめくりながら、ハジャクはメインヤが用意した座床に腰を下ろした。

 メインヤは蒼国の王都に住まいを与えられて日々を知識の探究に費やしている。この街もまた、元々は蒼国のものではない。

「あれは、精霊の谷の底にしか棲まないのだったな」

 紙束の詰め込まれた書棚にぐるりと囲まれた空間に、火影が揺れる。

 メインヤが住まう家は、元々この地にあった王書庫を改造した建物だ。滅ぼされた国の王書庫に、同じ運命をたどった国々の書が持ち込まれた。ひとつ戦が終わるごとに、書物はごっそりと増えていった。ハジャクが簒奪して持ち帰る書物には、潰えた国々の無念がひそかにこもっている気がした。

「確かなことか」

「必ず絶対、ということは知識の世界にはないわ。おそらくそう、と自信を持って記せるかどうかの問題なのよ」

 メインヤのいつもの調子にハジャクが微かな笑みを見せた。

「忙しいハジャクをわざわざ呼びつけていいほどのものか、という問題でもあったわ」

「東の境で諍いが起きかけていて、しばらく顔を出せなかった。何か困ったことはなかったか」

「べつに。でも、そういう意味で言ったのではないわ」

 探究の話をしている最中に子供扱いを受けてメインヤは鼻白む。天涯孤独のメインヤにとってハジャクが唯一頼れる人間であることは紛れもない事実だが、メインヤは自分から彼を頼りにして甘えることは一度もなかった。

 それでもハジャクはたびたびこの家を訪れ、そのつど、まるで書物の黴が戦疲れした体を回復させる薬ででもあるかのように無為な時間を過ごしていく。

「次は、俺の順番か?」

 その言葉に、メインヤは首を傾げた。羊皮紙に目を落としたままのハジャクが、独り言のように一文を読み上げる。

「『いまだ誰もその姿を間近に見たことがない……』」

 峻厳な岩山に走る精霊の谷の底は、いまだ未踏の領域だが、夜な夜な浮遊する光の正体がそこにしか棲まない希少種の虫であることは確かだ。交易路は南から珍種の虫や動植物を運んだ。発光する虫の存在することを現代の人間は知識として知っており、誰も間近に見たことのない谷底の虫にはいつしか白玄蟲という名が付けられた。

 紙束から顔をあげてハジャクは精霊の谷周辺の地形図を見せろといった。言われた図面を所定の書棚から取ってきて、メインヤは彼のそばに座った。

「どういうこと」

「手に入れなければ、お前の探究が先へ進まない」

 こともなげに言うハジャクの地図を読み込む横顔を、メインヤは目を細めて見つめた。

「白玄蟲を手に入れるの?」

「そうだ」

 大きく火影が揺れた。立ち昇る煤煙が天井にとどくまでのひととき、メインヤは瞬くのも忘れて彼を凝視しつづけた。

「……」

「どうした?」

 あんまり長く見つめていたら、鋭く見返されてしまってメインヤは目を逸らした。まっすぐに強い眼差しは彼特有のものだ。

「なんでもないの」

 ハジャクがメインヤを蒼国に迎え入れたのは、メインヤが睨国の抱える精霊筋の者だったからだ。精霊筋は古い時代の精霊術を受け継ぐ家系。亜蘭埜流域で精霊信仰はすでに廃れて久しいが、精霊の谷に近い睨国だけは、精霊とともに生きた古来からの草原人の生活を守っていた。精霊術は、ほかの国では占術という形で名残った。

 精霊筋を彼が欲したわけは、王都に連れてこられてすぐに打ち明けられた。ハジャクが求めているのは、草原に伝わる精霊の禁咒だ。どんな望みでも叶えるその代わり、命か、心か、最も大切なものを奪うという、完咒の刺青。

 本当に存在したのかどうかはわからない。それは草原世界の伝承だ。

 どうしてハジャクみたいな強い男が、とメインヤは思う。どうして咒いなど求めようとするのだろう。

 睨国が滅ぼされた日から、もう四年が経つ。ハジャクの体つきはあの頃よりもっと逞しくなった。初めて会ったあの頃だってメインヤからすれば遥かな年長者に見えたのに。今はメインヤも背が伸びて、異国の暮らしで心の齢も一足飛びにしわを重ねて、年の差をあまり感じなくなったけれど。

 八つのメインヤは年頃よりもだいぶ幼かった。恐怖を感じて暴れる子供はそれだけ心が育っているということだ。メインヤは泣き叫ぶこともできないほどに幼かった。毒を飲み損ねるほどに幼かった。はしこさは欠片もなくて、ただ単純にものを知りたがるだけの子供だった。何の目的もなく。怒りや悲しみの感情につなげることもなく。

 いや、今でもそれは変わらないのだ。

 一足飛びに心の(よわい)を重ねたメインヤは、結局、家族と国の仇であるハジャクへの憎しみを充分に体験することができないままここにいる……。

「目がおかしいぞ」

 おかしいって? と首を傾げるより先にハジャクの腕が持ち上がる。

 額に手を当てられた。

「熱があるんじゃないか? この一枚に辿り着くまで、相当に根を詰めたに決まっている」

「普通よ」

「お前の普通は眠らずに文字を読みつづけることだ。……熱はないな。俺の手のほうが熱いくらいか。お前はいつ病気になっているんだろうな。寝込んだところを見たことがない」

「寝込んだことがないもの」

「咒術でも使っているのか?」

「練習ならしているけれど、自分で自分に施すのは難しくて、完璧にはならないわ」

 メインヤは脚を崩して右のくるぶしを晒し、そこに自身の手で彫った、無病を祈る(まじない)の刺青を見せた。

 冗談が本当になって返ってきたことにか、墨のたどたどしさに対してなのか、ハジャクはしばらく無言で険しく不機嫌な表情を浮かべた。

「いくらでも奴隷を連れてきてやるのに」

「そんなことより、本当に白玄蟲を捕まえるつもりなの」

 メインヤの声の中にある戸惑いになど気づかない様子で、ハジャクは書棚に背をもたせかける。

 当然だ、というふうに、大きく頷いた。

「でも、あの断崖の谷は誰も降りられたことが──」

「俺が行く」

 他に誰が決められることでもない答えを、ハジャクは揺るぎなく、もう出してしまっている。

「俺が持ち帰る。星の光を盗むのは無理だが、虫くらいなら簡単だ」

 いつもの寛いだ微笑を浮かべて、今まで一度も嘘になったことのない約束を口にする。

 束の間の休息にハジャクは目を閉じた。

「……」

 嘘になったことがない。

 ハジャクはいつでも勝ち残ってきた。どこからも生き残ってきた。ハジャクは手に入れるべきものを全て手に入れてきた。

 メインヤもその一つだ。

 メインヤは戦利品だ。

 メインヤの生命力は怒りや悲しみの感情を燃やすことには向き合わなかった。感情はメインヤを動かさない。知識に対する欲だけが、彼女を生き生きと動かす。メインヤはハジャクに与えられるまま、書物に夢中になり、そして──禁咒の発掘という使命に憑りつかれた。

 メインヤの生家が焼け落ちていなかったら、手がかりどころか核心がそこに蓄積されていたのかもしれない。母が守ろうとしたもの、道連れに消失させようとしたものこそ、今の世に流れ出してはいけない禁咒の知識なのではなかったか。

 だとすれば、メインヤのしていることは母への、一族への、故郷への裏切りということになる。それでも、メインヤは禁咒の探求に突き進むことをやめられない。ハジャクが保護し、ハジャクが与えてくれるからメインヤは書を読むことができる。ハジャクの元でしか、メインヤはメインヤらしく生きることができない。だから。

 例えば戦の悲惨をハジャクは知っている。けれど彼は戦を止めようとはしない。それは彼が草原の戦士だから。──同じことではないか?

 彼が戦を通して蒼国の民の誇りを守ろうとするように、メインヤも、散り散りの知識を掻き集めて再構築することで、故郷の書庫を取り戻そうとしているのじゃないか?



 抱え込んだ腕の主が小さく呻いたため、銘韻は我に返って視線を持ち上げる。集中しているうちに、刺しにくい箇所にきて、つい無理な角度に捻り上げてしまったらしい。

 こちらから座る位置をずらして作業を再開した。

 透きとおらない大理石の肌に描かれる象形咒言(じゅごん)

「それは絵なの、それとも文字? どっちなんだろうね?」

「絵から文字になる途中のものよ。法則をもつ文字というものを人間に教えたのは精霊だといわれている。おそらく精霊とは知恵を宿した自然の霊のことなのだと思う。人に精霊の知恵は残念ながら備わっていないけれど、精霊から与えられた文字は唯一、彼らとのじかの対話を可能にする。精霊の気を引くために謳われる声明(しょうみょう)よりも確実に」

 完咒の刺青の正体はひとつの詩だ。精霊への祈りの詩を身体の隅々まで刻んで纏うことで、己れ自身を贄に投げ出すという意味が生まれる。

「あからさまに訳せば、万能の力を一瞬だけわけてください、という祈りの詩よ」

 詩そのものは、草原にいまなお伝わる祈りの歌だ。声明でも謳われる一つだ。

 完咒の刺青の探究でもっとも難航したのは、伝えられる詩を古の象形文字に翻訳することだった。だが銘韻は……少女メインヤは、寝食を置き去りに、執念でそれを成してみせた。

 八つで蒼国に連れていかれたメインヤが、約束の(じゅ)を草原の王に施したとき、彼女は十五になっていた。

「一瞬。ほんの一瞬、本当にたった一つの願いしか叶わないのよ。覇釈は亜蘭埜の大河を渡るために使った。亜蘭埜河は確かに割れた。騎馬の軍勢が駆け抜けるまでのあいだ──。でも、それで終わり。それだけ。それだけのことで後の人生は虚ろになる。空っぽになってしまう。前と同じではいられなくなってしまう。わりにあわない咒いよ」

 静寂が長くつづくことに顔を上げた銘韻は、興味深げに見下ろしている七衣の視線とぶつかった。

 七衣は表情をさらりと消した。

 そこから少しだけ考える間をおいて、 

「──充分だ」

 悲壮さのかけらもない軽薄な笑みを口元にのせた。

「宮殿に忍び入るのはそう難しくないんだよね。奥の奥に入ってからが問題。妹のいる場所まで辿り着けても、帰りがね。草原の王が望もうが望むまいが追われるだろうし。だから王に死んでもらって、混乱の隙に僕らは逃げるって算段だよ。どうだい?」

 完咒の刺青を王殺しに使うと、七衣は言う。

 〈絹の天幕〉への侵入がそんなに簡単だろうかと思うけれど、でも、こうして七衣が逃げ延び、新帝国の目を逃れて奴隷に紛れて生きていたことを考えれば、彼という皇子はよほどの悪運か、狡知さを持っているのかもしれない。

 頽廃の天辺では使い道のなかった才能。

「雲の上の構造は、わたしにはわからないわ」

「宮殿に入りもしなかったの? 君は覇釈王のそばで完咒の瞬間を見届けていたという噂だよ」

「宮殿の中はどこもかしこも血塗れで、目を開けてはいられなかった。そこらじゅうで腐臭がしていて、息ができなかった。わたしは逃げ出したわ」

 目の裏にやきついた赤。蛆の記憶に結びついた悪臭。耳にこびりつく、あのひとの──。

「きみが掘り返して完成させた咒いの結果なのにね。戦の姿を知らなかったわけじゃないだろうにさ。別にこれは皮肉じゃないよ。僕なぞ戦どころか、自分の国の人間たちがどんなふうに生きているかさえ、そこに落ちてみるまで知らなかったから。人をどうこう説教できる立場じゃないんだ」

「奪われたくないという想いはわたしも覇釈も同じだった。帝国は必ず亜蘭埜河を越えて草原を侵すと覇釈は言っていた……」

 針は喉元にさしかかっていた。鎖骨の上にも、その窪みにも、わずかな隙間も残さずに祈りの詩句が刻まれていく。

「やられるまえに、やる、ね……」

 呆れるような溜息が、銘韻の額にかかった。

 すぐ近くで瞬く睫毛。

 昼間は奴隷の泥を塗って家奴隷としての労働に身を費やしている七衣だ。

 七衣の皇子は夜しかその本当の姿をあらわさない。

「奪われるまえに、奪うっていうこと、だよね」

 ふいに七衣がみじろぐ。自由な右手を銘韻の頬にあてがい、親指で頬骨をなぞった。

「何をしているの」

「気を紛らわせたいんだけど」

 へらりとした笑みを絶やさずにいる七衣だが、彼に与えられる一針一針はけして慣れる痛みではない。部位が移るたびに、新しい痛みの感覚を発見することになる。無限につづくようにも思える夜の静寂がより痛みをあざやかにする。

 銘韻は悪戯なその手を淡々と押しのけて拒絶した。

「集中できないわ」

「君はおもしろいね。僕の他愛なくて(たち)の悪い戯れのために、どんな貴族を集めても、ほうぼうの領内から奴隷をさらってきても、君みたいに低温な人間はどこにもいなかった」

 あわい燐光を放つ白玄蟲が天井からふうわりときまぐれにおりてきて、二人のあいだをただよう。

 膝を立てていないほうの、横に投げ出した右の踝に一匹がとまった。七衣の視線がおもしろそうに、たどたどしく滲んだ踝の入れ墨に落ちた。

 七衣の右手は、その白玄蟲を指先にすくいとった。

「娘らしくないほど賢いところは僕の妹に少し似ているけれど」

 蟲はまた、気まぐれに飛び立つ。

「ひとつ訊いておくけど、君は覇釈王のこと、好きだったの、嫌いだったの」

 ──銘韻の針が、動かなくなった。

 ほんのひととき。

 火影が揺れて黒い煤煙を立ち昇らせるあいだだけのことだ。

「言ったでしょう。わたしの故郷は覇釈の国に滅ぼされたの。前の王から国を継いだ覇釈も戦をつづけたわ。いつもどこかの誰かの人生を奪い尽くして、血潮を浴びることで生きている人だったわ。……憎むべきよね。でも、わからないわ」

 わからない。わからなかった。あとになってやっとわかることが、この世にはたくさんある。奪われ、滅ぼされた故郷だって──両親と姉との暮らしだって、失われる前まではけして特別な何かではなかったのだから。

 だけど、と銘韻は呟く。

「ハジャクはもういないわ」

 深く抉られた痛みをこらえて、七衣が小さく呻いた。

「腐り落ちる寸前の抜け殻なら、いっそ殺してあげたほうがいいんだわ」



 闇にあぎとをひらく谷の底から這い上がってきた男の背中に、葦の編籠が背負われている。

 その籠が、夜空に滲む星の輪郭に似た、ほの白い燐光をまとわせていた。

「ハジャクっ!」

 崖の突端にメインヤは近寄った。

 広くはない岩棚の降下拠点。草一つ生えない不毛の岩山の片隅に四肢をつき、ハジャクが荒れた息に崩れようとしている。

「ハジャク」

 王の元へ集まる蒼国軍の屈強な精鋭をくぐって、メインヤはハジャクの傍らに身を屈めた。

「……灯りを消せ」

 咳とともに小さく吐き出された主君の命に、兵士たちはそれぞれ掲げた灯を吹き消す。

 峻厳な幽谷の隅に、月明かりだけが注いだ。

「メインヤ」

 外した編籠に手をかけながら身を起こしたハジャクが、まっすぐにメインヤを見る。

「染料だ」

 差し出された編籠の蓋をメインヤはおそるおそる開けた。細く開けて覗いた中には、蠢く無数の白い光──。

「白玄蟲……これ、が」

「灯りを」

 ハジャク王の声で一斉に火打石の火花が散り、再び岩棚が炎に照らされる。

 燐光は火の明るさに負けて目立たなくなり、虫の素のすがたが現れた。

 醜怪だった。

 小さな醜い虫たちだった。

 薄茶色の羽。節だらけの躰。ささくれた六本の脚。

「美しいものには必ず禍々しい裏側がある」

 疲労から回復したハジャクの声は、やり遂げたこととは別のところで満足げだった。これがもし、無垢でかわいらしい姿の虫であったら、彼は特別な感心を持たなかっただろう。

 メインヤはいつかハジャクから教えられた言葉の続きを口にのせた。

「輝く金銀は腐った膿から生成される……?」

 ああ、と薄く笑ってハジャクが頷く。

「毒をもって毒を制する、と言うだろう。虚飾の虫の力で、虚飾の都を落とす、というのも悪くない」

 谷底に押甲花が群生していることをハジャクはつきとめていた。白玄蟲は、メインヤの元で生態を観察され、繁殖させられることになった。

 精霊の谷から帰還したハジャクには、また戦が待っていた。

 若き覇王を戴いた蒼国は、ほどなく亜蘭埜河の東側一帯を平定した。

──一つの願いと引き換えに、命か、心か、もっとも大切なものを失う。

 伝承が現実味を具えてハジャク王に決断を迫るときがきた。

「河の向こうでは、俺は蛮族の王と呼ばれている。草原の王というのもあるが、どちらも侮蔑を込めたものだ。彼らに言い訳をさせないためには、異国の者でも呼びやすい名が必要だな」

 何となくそれを聞いていたメインヤは、これから行う作業のための準備の手を止め、肌の晒されたハジャクの背中に指で文字を書いた。覇釈。

「ああ。いい名だ。亜蘭埜を渡ったら、俺はハジャクから覇釈になろう」

 河を渡りきったとき、おそらく彼は彼ではなくなる。命など最初から捨てているハジャクだから、きっと咒いが奪っていくのは残る二つのうちのどちらかだ。

 失う未来がわかっていてなお、彼は亜蘭埜の都へ駈けのぼるというのだ。

「はじめてくれ。メインヤ。俺はこの長い夜の間、お前の向こう岸での名前を考えておく」

 この瞬間になっても、やはりメインヤは思うのだ。──どうしてこの人が、咒いなどを。

 天涯孤独のメインヤにこんな気持ちをくれる人が、どうして禁咒を用いてまでも、戦を起こすのか。なぜ人々から何もかもを奪い尽くす戦いへと向かうのか。

 彼自身のその人生を犠牲にしてまで。

 理屈ならわかり切っているはずの問いをそれでも心の中で繰り返しながら。

 震える手で最初の針を、落とした。


          ◆


 そして、目に見えない咒いの詩が完成したとき、彼女の手は最初の一針の震えを思い出す。

「……」

 いつか覗いた精霊の谷の底よりもなお深い心の底から、得体のしれない恐怖が指先にまで拡がって、歯の根も合わないような震えになった。

 父の唱える声明が聴こえた。母が燃やした書物の断末魔が大きく爆ぜた。

 誰かが力強く彼女の手首を掴んで、耳元に何か囁いた。低温な彼女の身体が、熱を持った裸身に包まれる。

 その肌の隅々に刻まれた痛みが、すべて刺青師に返って魂を責め苛む。

 それは、彼女がつきつめ、彼女が施した咒い。

「どうしてこんな……こんなもの……っ」

 家族を裏切り、故郷を踏みにじり、憎むべき仇の元に庇護されてまで、どうして止められなかったのだろう。どうして近付いてしまったのだろう。どうして求めてしまったのだろう。爪を食い込ませるその肌、その咒いを。

 錯乱する少女を抱き留めて落ち着かせる声は、罪を掻きたてて暴く声でもあった。

 お前の願いを叶えてやると、男は言った。

 亜蘭埜の都の〈絹の天幕〉は、もうすぐそこに。手の届くほど近くにある――。



「正直ご主人様の部屋の天井を見たときは、度肝を抜かれましたんで。なにしろみっちりびっしり張り付いて蠢く茶色い虫の光景なんて、貧民窟でもそうそうありゃしないんでさ」

 青果市場は人で溢れている。

 目の色も肌の色も纏う衣装も様々な者たちがやってきて、東西南北の異郷から運ばれてきた収穫物に手を伸ばす。

「夜の発光にも驚かされたんですが、その前にあの光景を見ていれば、ご主人様の胆力に恐れをなしましたわけで。こりゃ只者であるはずがないな、てなわけで」

 よく喋る奴隷だと見咎める者はいない。朝の市の人出と喧騒は、それがそのまま亜蘭埜の都の栄えを体感させる。呼び込みと品定めが入り混じって、顔を近づけなければ連れの声も届かないほどだ。七衣が抱える空の籠に、みずみずしい不断草の束を放り込む。

「旧帝国の七衣の皇子はもっと悪趣味だったと聞いているわ」

 毒花と肥えた鳥の花鳥園で、酩酊と淫蕩にあけくれる皇子は腐敗した都の象徴だった。

 もっとも、〈絹の天幕〉が蒼国軍によって落とされたときに、七衣皇子の花鳥園はどこにも見つからなかったそうだ。

「そんなひともいましたねえ」

 泥の塗りたくられた奴隷の表情を銘韻は見通そうとする。昼間の七衣はただの頼りなげな奴隷だ。生地を裏返すように本当の姿は隠されている。店先で奴隷をあまり見つめつづけていればさすがに不審に思われるかもしれない。新鮮な青果を見定める目を辺りにやりつつ歩き出した。

 書を集めるために湯水のごとく金を注ぐ銘韻だが、それでも暮らしに困らないほどメヘンディの店が繁盛しているため、安物買いはしない。身の程を越える買い物もしない。ほどほどに手頃で新鮮な食材を選んでは、七衣の持つ籠に入れていく。まるくて青々しい水瓜を三つ買おうとしたら、七衣がほんの微かな笑いの気配をまじえて、後ろから耳打ちした。

「重くなりますよ」

 持つのは七衣だろう──不審に振り返りかけて、銘韻はふと動作を止め、そして気付いた。

「……そうね」

 いつの間にか家奴隷の七衣を連れて買い物に出ることが当たり前になっていて、自分一人で持ち帰る荷物の重さの感覚を忘れていたことにも気付いた。

「水瓜は重いわね」

 東の尖塔で祈祷の鐘が鳴り、南の拝礼教会から信者の合唱が響いてくる。異教の祈りがよりあわされて、混沌の響きが空を埋めた。

 広場に出ると、全身を石畳に投げ出しては一つずつ数珠を数える西の教徒の群れに出くわす。

「帝国の残したものの中では、この朝の光景がいちばん好きなんで。ずっと残るといいや」

 立ち止まって、七衣が眼を細めた。

「奴隷になってから、この地上の素晴らしさを知ったんでさあ。破産や争いや、飢えや病の悲惨はなくならないとしても。ここは雑多で、バラバラで、自由があって、そして平和だ」

 草原の国の掟は、帝国とは違っていた。よそ者はよそ者。商人は蔑まれる存在で、勇猛で高潔な軍人がもっとも尊敬を集めた。群れをなす宗教は害悪とされていた。

(蒼国の王は、すべてを奪う。覇王の国に飲み込んで、一色に染め上げる。それが草原の王の戦……)

 そして、その獰猛な風を鎮めているのが、捧げの姫君。

 朝日に灼かれる〈絹の天幕〉を銘韻は見上げた。

「……」

 活気のある街中をしばらく歩いた。

 人ごみを掻き分けるようにして、長身の七衣が前に出る。その方向は、家へと帰る道ではない。黙って視線を持ち上げると、広い背中にぶつかりそうになる。手ぶらの銘韻の手に籠の持ち手が握らされた。後ろ手で。

「じゃあ」

 少しだけ、ほんのわずかな角度、振り向いて、七衣が告げる。

 そして、二人の距離が離れた。

「七──」

 からからに乾いた喉が貼り付いて、その先が言えない。銘韻は石畳の上で躓きそうになり、踏みとどまって、立ち尽くした。

 籠が重くて。

 動けない。

 行き交う人の波が奴隷の後ろ姿を押し流す。どこか遠くへと連れていく。銘韻はそこから動けない。引き留められる理由はない。銘韻の仕事は、すべて終わっていた。祈りの詩は完成していた。

 もう、通りのどこにも、彼の背中は見えなくなっていた。人が多すぎる。あちらの路地から、こちらの商店から、次から次へと、ありとあらゆる色彩が通りへ流れ込み、絶えず入れ替わる。

 人が多すぎる。この都は、大きすぎる。何もかも、溢れんばかりで、耳を塞ぎたくなる。


         ◇


「とうとう恋人になったと思ったら、さっそく手綱をとったのは藍朱(アイシュワリヤ)なのよ。この子ったら立派な奥様になれるわ」

 貿易貴族の娘の褐色肌に、濃緑色の染料で描かれていくのは、浮気防止の蛇柄のメヘンディ。

「やめてよ、杏夢(アムバパリ)っ」

「軍服の彼をつかまえて昨日も喧嘩してたじゃない?」

「宮殿で何かあったらしくて、警備舎もこのところ忙しいそうなんだもの。約束しても来てくれないから……」

 すると杏夢(アムバパリ)は声もひそめず無邪気に噂話を引き合いにだす。

「それって、捧げの姫君が亡くなられたらしいことと関係があるのかしら」

 曖昧に藍朱(アイシュワリヤ)が首を傾げる。捧げの姫君は少女たちと年代も近く、遠く噂にしか知れない存在ではあっても、いたわしさを感じずにいられないのだろう。

「さあ……」

 絞り口を止めた咒師が、初めて聞いたというふうに瞳をひらいた。

「亡くなられたのですか? 捧げの姫君が?」

「ええ、そういう噂よ。ご病気だったのかしら。突然よね」

 それ以外の事件の噂は、街に聞こえていなかった。

(……)

 銘韻はメヘンディの絵付けに集中することで、心の中に巡ろうとする思いを無視した。

 午前と午後をかけて引きも切らぬ客を捌き、陽が落ちると店を閉めて夕食の支度をする。

 いつもと変わらぬ日常。

 変わらぬ日々。

 再びの、一人の生活。

 それは八つのときに天涯孤独の身になった銘韻にとって、慣れ親しんだもの。だから、ほどなく違和感は消えるはずだった。まだ、七衣がいなくなってから七日も経たない。

 彼がいなくなったあとの変化といえば、肉切りの小刀が一つ消えていたくらいだ。正体をあらわした七衣が銘韻を脅すために使ったそれが……。

「誰?」

 薄暗い台所で一人、夕食を取っているときだ。

 銘韻は店先に気配を感じた。

 垂れ布をくぐって店に出ると、金銀刺繍の縁取りが都の宮廷風である小奇麗な衣装を纏った、見知らぬ子供が立っていた。

 子供は挨拶とともに、携えた手紙を差し出した。



『銘韻へ。

 草原で暮らしていた頃の君の名前の響きをいつか教えてもらったけれど。でもそう、銘韻へ、と書いた方がいいのだろうと思う。何故なら今の君はもう亜蘭埜河の東のメインヤじゃなくて、河を渡った銘韻だ。

 完咒の刺青を使う前と後で、変わってしまったのは覇釈王だけじゃない。君もなんだろうね。

 僕は草原の王の刺青師である君を見付け出し、君を脅して完咒の刺青を僕の全身に刻ませた。だが、ここに一つだけ些細な謎が挟まっていることに、僕は気付いてた。

 君は身の程を越えた贅沢はしないけれど、安かろう悪かろうの新参な水売り屋にわざわざ乗り換えたりするほど、がめつくもないよね。家奴隷をやってれば主人の生活感覚はわかるよ。あれはけして偶然じゃなかった。

 客商売をしていると噂が集まりやすい。どこどこに、どういう肌の色、年格好の奴隷がいるとか。ああ、(まじない)と刺青の話を集めている変わった奴隷がいることも。

 君もまた僕を見つけた。

 君はわざと僕を誘き寄せて、君自身の願いを込めた駒にしようとしてた。

 君の罪をあがなうための刺客に。

 だけど、それが君の本当の気持ちではないことすら、僕は知っている。

 僕はこれから、君の心が本当に憎んでいるものを殺しにいくよ。

 おそらくそれが、僕の心が本当は憎んでいるものへの最高の復讐になるのだろうから。

 さよなら、銘韻。偶然だろうとわざとだろうと、行き場のない奴隷の命を親切に救ってくれて、ありがとう。痛みは全く快楽にはならなかったけれど、君との夜はもう少しつづいてほしかったよ。もしかしたら、永遠にさ』



 白玄蟲に見下ろされる書庫で銘韻はくずおれた。

 その本当の名も知らない男に、何もかも見抜かれていた。降りしきる光の中で燃えていく手紙を、曇りのとれない瞳で見送った。

 家を出た銘韻の足は都の中心へと向かった。

 顔見知りの近衛を通せば、王の占術師は求める場所へとすぐに通される。

「……来たのか」

 玉座の間に覇釈は一人だった。

 灯火をそばには寄せつけず、薄闇の中で俯く横顔は、玉座の肘についた頬杖で支えられている。

 開かれているはずの眼はどこも見ていなかった。

「手紙を読んだの?」

 覇釈はどうでもよさそうに首を振った。

「俺は帝国人の文章を解さないからな」

 読めずとも翻訳させればすむことだ。読めないというのもほとんど嘘だ。帝国風の銘韻という名はほかならぬ覇釈がくれた当て文字なのだから。

「そう」

「その手紙を身につけていた奴隷は、九石の皇女の寝室に忍び入り、あれを刺し殺してのち、自分の首を切って果てた」

 何故お前の名前に宛てた手紙を持っていたのかは知らないが、と、問い詰める意志もなさそうに言った。

 七衣の皇子は、公式にはとうに絞首されて死んでいる。

 いまさら当時のそれが身代わりであったとは、新政府の沽券に関わる以上、公表できない。いずれにせよ七衣は死んだのだから、必要もない。

「それで、あなたは哀しいの? 今?」

 覇釈は首を振った。

「わからない」

 そう呟くと、頬杖をやめて玉座の背に頭をもたせた。

「わからない。あれからずっと、俺は、自分が何を失ったのか。何をしたいのか。何も……」

 精霊は、願いを一つ叶える代わりに、その人間から一つだけ奪う。

 その命か、心か、最も大切なものを──。

 実のところ、これは、一種の謎かけだ。

 命をいちばん大切なものとする者もいるだろうし、そもそも命を失えばほかの二つも同時に失う。

 あるいは、心を失えば大切なものを大切と思うことさえできなくなるだろう。

 成立しない三者択一なのだ。

 そもそも、最も大切なものが何かを、はっきりと決められる人間がどれほどいるというのだろう。人の心は曖昧だ。

 これは、そういう曖昧さを逆手に取った謎かけ。

 最初に完咒の刺青を編み出した人間の残した、冗談じみた警告なのではないかと銘韻は考えている。

 本当は、何も奪われなどしないのではないか。

 いや、精霊が奪う、奪わないに関わらず、その三つのどれかを犠牲にしてもいいと思うほどの願いを叶えたとき、人は、──失うのではないか。

 命か、心か、いちばん大切なもの。

 人が人であるための、何かを。

「あの戦に、意味があったのか?」

 かすれた声で問われ、銘韻は目を伏せた。

 蒼国のハジャク王は、侵略をつづける帝国の脅威を目の前に、刺青の力で亜蘭埜河を渡った。奪われる前に奪うために。

 だが、彼がのぼりつめた頂上で掴んだものは、勝利などではなかった。

 皇室という頭を食いちぎっても、そしらぬ顔で自由と多彩な文化を謳歌しつづける民たち。ありとあらゆる人種、宗教、言語が生き生きと飛び交う絢爛の都。その裏側を、底が見えぬほどに埋め尽くす腐敗と爛れ。

 巨大な帝国はそれ自体が生き物のようだった。

 何を倒したのか。何と戦ったのか。そもそも何を恐れて戦をしたのか。

 いつかハジャクが新たな敵に倒されたとて、帝国は今と変わりなくそしらぬ顔で生きつづけるだろう。

「教えてくれ、メインヤ。俺の問いに答えられるのは、昔から、お前しかいなかった」

「九石の皇女には、それができたのでしょう?」

「ああ。でも、あれはもう、死んだ」

 捧げの姫君は死んだ。七衣が殺した。

 『誰か』の身代わりにされて囚われつづける彼女の苦しみを終わらせるために。

 七衣は完咒の刺青を使わなかった。

 それは彼の総身に彫られて完成していたのに、彼は使わなかった。

 彼は使わなかった。

──僕はこれから、君の心が本当に憎んでいるものを殺しにいくよ。

(わたしが本当に憎んだのは)

(わたしの本当の願いは)

 袖口に違和感を覚えて、銘韻は目を落とす。こそこそと動いた袖の中から、白い光が這い出てくる。

 いつの間に忍び込んでいたのか。

 淡い光を纏って飛び立とうとする醜く小さな虫。

「俺は何を失った? 心か、命か、最も大切なものを咒いが奪いとるとは、確かなことなのか? 絶対はないとお前は言ったな……」

 救いを求める王の眼が、答えを探して、揺らいでいる。虚ろな心が、それでも希望を見出そうとして足掻いていた。

「俺は何もなくしていない。命も、心も、お前もこうしてここにいる。何も奪われなかったんだ──」

 銘韻は玉座へ向かって歩き出す。

 いつか背を向けた罪に、向き合うために。

「いいえ、奪われたのよ」

 奪われるまえに、奪う。七衣の残した言葉だ。

「わたしが、心を」

 昔のハジャクはもういない。そして、──昔のメインヤも、もういないのだ。

(奪われてしまった。わたしの本当の願いが叶えられるのと引き換えに)

「けれどこれ以上、何も奪われないように」

 彼が好きだと言った自由の帝国を守るために――。

「覇釈。わたしがそばにいるわ。ずっとあなたのそばに」

 伸ばされた手を銘韻は今度こそ、取った。

 指に指を、絡めて。

 かつてメインヤの命を救った手だ。どんなに血の味がしようと、奪った命の罪にまみれていようと、メインヤはその手の持ち主をきっと好きで、愛していた。

 ……草原に暮らしたメインヤは。

 抱き寄せられて銘韻は、そっと覇釈の頭を包み込む。

 その胸の中で、孤独な王が小さく溜息をついた。

「いつかわたしが願ったように。あなたと一緒にいるわ」

 目を閉じて。

 固く誓う約束をささやいて。

 憎んだ罪のあかしの刺青に、くちづけを落とした。



 わたげの命が、絹の天井へと舞う。

 ふわり、ふわりと。

 淡い淡い光はそして、儚く遠ざかる――。


                             〈おわり〉

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