第6話「甘い熱と理性の境界」
豊かな収穫の喜びに満ちた日々が続く中、ダンテの身体に微かな異変が表れ始めたのは、冷たい雨が城を叩きつける鬱々とした朝のことだった。
目覚めた瞬間から、全身に鉛を乗せられたような重だるさを感じていた。
手足の関節が鈍く痛み、頭の奥で微かな耳鳴りが続いている。
風邪でも引いたのだろうかと思い、ベッドから起き上がろうとした瞬間、視界がぐらりと大きく揺れた。
咄嗟にシーツを掴み、ベッドの端に座り込んで荒い呼吸を繰り返す。
自らの呼気が、異常なほど熱を帯びていることに気づいた。
そして、何よりもダンテを恐怖させたのは、自分の皮膚から立ち上り始めた、あの独特の匂いだった。
熟しきった果実がさらに発酵したような、むせ返るほどに甘く、濃密な香り。
オメガとしての本能が目覚め、アルファを惹きつけるためのフェロモンを放出し始めた証拠だった。
発情期が、訪れようとしていた。
『どうしよう、薬が、ない』
絶望的な事実が、ダンテの脳裏を駆け巡る。
人間の国にいた頃は、発情を抑えるための高価な薬を強制的に飲まされていた。
オメガの発情は、周囲のアルファの理性を狂わせ、獣のような争いと暴力の引き金になるからだ。
生贄として追放されたダンテに、そのような薬が持たされているはずもなかった。
熱は急激に上昇し、皮膚の下を火が這い回っているような錯覚に陥る。
額からは大粒の汗が流れ落ち、シーツを握りしめる指先は白く痙攣していた。
頭が朦朧とし、理性が甘い熱に溶かされていくのが分かる。
『誰にも、知られてはいけない。もし知られれば、私は……』
王宮で見た、薬を与えられずに発情期を迎えた下働きのオメガの末路を思い出す。
複数のアルファに組み敷かれ、理性を持たない獣のように扱われた悲惨な光景。
恐怖で歯の根が合わず、カチカチと音を立てる。
ダンテは震える足でなんとか立ち上がると、よろめきながら部屋の扉へと向かった。
重い木製の扉に体重をかけ、内側からかんぬきを力任せに下ろす。
金属がこすれる冷たい音が響き、ダンテはそのまま扉に背を預けて床へと崩れ落ちた。
冷たい石の床に火照った頬を押し付け、乱れる呼吸を必死に押し殺す。
自らが発する甘い匂いが、狭い部屋の中に充満し、首を絞められるように息苦しかった。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
意識の輪郭が曖昧になり、ただ身体の内側で燃え盛る熱と格闘していたダンテの耳に、重い足音が聞こえてきた。
廊下をまっすぐにこちらへ向かってくる、迷いのない足音。
そして、扉の向こう側でピタリと止まる気配。
「ダンテ、中にいるか。朝食に姿を見せないから、様子を見に来たのだが」
ルグランの声だった。
普段の落ち着いた声色が、分厚い木の扉越しに響く。
ダンテは声を出すこともできず、ただ両手で自分の口を強く塞いだ。
ルグランは、強力な力を持つアルファだ。
扉を隔てていても、この濃密なオメガの匂いに気づかないはずがない。
もし扉を破られれば、ルグランもまた、本能に支配された獣と化してしまうのだろうか。
あんなに優しかった彼に、恐怖と絶望を与えられることなど、耐えられなかった。
扉の向こうで、不自然な沈黙が落ちた。
「……ダンテ」
再び呼ばれた名には、明らかな緊張と、微かな震えが混じっていた。
廊下側に漏れ出した匂いを、ルグランが感知したのだ。
扉の隙間から、ルグランの放つアルファの匂いが流れ込んでくる。
雨に濡れた深い森の香りが、今は鋭く攻撃的な気配を伴って、ダンテの嗅覚を強烈に刺激した。
身体の奥底に眠るオメガの本能が、その匂いに反応してさらに激しく熱を帯び、下腹部を甘く疼かせる。
『だめだ、来ないで』
声にならない悲鳴を上げながら、ダンテは身体を丸く縮めた。
ルグランが扉の取っ手に手をかける音が聞こえた。
かんぬきがかかっていることに気づき、乱暴に扉が揺さぶられる。
「ダンテ! 開けろ、大丈夫か!」
切羽詰まった声には、獲物を求める飢えではなく、純粋な焦燥だけが滲んでいた。
しかし、ダンテにはもう扉を開ける力すら残っていなかった。
全身の力が抜け、意識が暗い淵へと引きずり込まれていく。
直後、凄まじい衝撃音が響き、分厚い木の扉が蝶番ごと吹き飛んだ。
木片が床に散らばる音とともに、強烈なアルファの気配が部屋の中へと雪崩れ込んでくる。
ダンテは床に倒れ伏したまま、霞む視界で入り口に立つ巨大な影を見上げた。
ルグランの真紅の瞳は、これまでに見たことがないほど暗く、深い色に濁っていた。
荒い呼吸を繰り返し、その視線は床に倒れるダンテを獲物のように捕らえている。
『終わった』
ダンテは抵抗を諦め、固く目を閉じた。
暴力的な本能に引き裂かれる痛みを覚悟し、身体をこわばらせる。
重い足音が近づき、頭上から熱い吐息が降り注いだ。
巨大な手がダンテの肩を掴む。
しかし、次にダンテの身体を包み込んだのは、暴力でも苦痛でもなかった。
ルグランの手は、異常なほど震えていた。
彼自身のアルファとしての本能が、オメガを組み敷くようにと狂い叫んでいるはずだった。
だがルグランは、その抗いがたい衝動を、自身の強靭な理性で必死に押さえ込もうと血を吐くような努力をしていたのだ。
「ダンテ……すまない、俺の力が、足りなくて……」
耳元に落ちた声は、苦痛に歪み、掠れきっていた。
ルグランはダンテを乱暴に扱うことなく、恐ろしいほどの慎重さで抱き上げた。
腕の中に収まったダンテの熱い身体を、ベッドの上へと静かに下ろす。
ルグランの額には滝のような汗が浮かび、歯を食いしばる顎の筋肉が限界まで隆起していた。
甘い匂いが充満する密室で、正気を保つことがどれほどの苦行であるか、ダンテにも容易に想像できた。
それでもルグランは、ダンテの衣服を剥ぎ取るようなことはせず、冷水で濡らした布をダンテの額にそっと乗せた。
「俺は、お前を傷つけない。絶対にだ」
血の滲むような決意が込められた言葉だった。
本能よりも、ダンテへの敬意と愛情を優先してくれている。
その事実が、ダンテの恐怖を急速に溶かし、代わりに深い感動の涙を溢れさせた。
ルグランは荒い呼吸を繰り返しながらも、ダンテが熱に浮かされて暴れないよう、自身の手でダンテの手をしっかりと握りしめていた。
そのごつごつとした指先から伝わる痛いほどの力強さと、不器用な優しさが、ダンテの心を甘く満たしていく。
燃えるような発情の熱の中で、ダンテは初めて、誰かに守られているという絶対的な安堵感に包まれていた。




