第4話「芽吹きの波紋と交わる視線」
灰色の空の下、乾ききった大地の中心で、緑色の小さな命が風に揺れていた。
ダンテの指先から放たれた温かな魔力が、ひび割れた土の奥深くへと浸透し、死にかけていた植物の根に脈打つような活力を与えた結果だった。
ほんの数分前まで黄色く変色し、崩れ落ちる寸前だった茎は、今やすっかりと水分を取り戻している。
表面には細かな産毛が銀色の光を反射し、力強く天を仰ぐようにして新しい葉を展開していた。
生命の匂いがした。
それは、長く雨の降らなかった土地に、恵みの驟雨が降り注いだ直後のような、濃密で湿った土の香りだった。
周囲を取り囲む魔族たちは、誰も言葉を発することができなかった。
彼らが手にしていた農具は、とうの昔に硬い地面へと転がり落ちている。
大きく見開かれた瞳は、ただ一点、ダンテの足元で奇跡のように芽吹いた緑色の双葉に釘付けになっていた。
荒々しい呼吸音だけが、静寂の落ちた畑に不規則に響いている。
ダンテは自身の引き起こした現象の大きさに、後ずさりしそうになる足を踏みとどまらせた。
『やりすぎてしまったのだろうか』
不安が胸の奥で冷たい渦を巻き始める。
人間の国にいた頃、この力を見せた時の周囲の反応が、鮮烈な記憶として脳裏に蘇ってきた。
気味の悪いものを見るような視線。
オメガの分際で得体の知れない妖術を使うと、遠巻きに囁き合った家族たちの冷ややかな声。
その記憶が、ダンテの細い肩を小刻みに震わせる。
視線を落とし、ただ冷たい風に吹かれるままに立ち尽くしていた。
「ダンテ」
低く、ひどく落ち着いた声が、風の音を遮って耳に届いた。
ルグランだった。
魔王と呼ばれるその男は、ゆっくりとした動作でダンテの正面に立ち、片膝をついて視線の高さを合わせた。
真紅の瞳が、ダンテの怯えた双眸を真っ直ぐに捕らえている。
そこには、過去に人間たちから向けられたような嫌悪も、恐怖も、微塵も存在していなかった。
あるのは、深い湖の底を思わせるような、静かで温かな光だけだった。
ルグランの大きく、泥に汚れた手が伸びてくる。
それはダンテの震える両手を、ひどく壊れやすい硝子細工でも扱うかのように、そっと包み込んだ。
分厚い掌からは、土のざらついた感触と、アルファ特有の高い体温が伝わってくる。
ダンテの冷え切った指先が、その熱に触れてわずかにこわばりを解いた。
「お前は、自分がどれほど素晴らしいことをしたのか、分かっているのか」
ルグランの声は、かすかに掠れていた。
感情を抑え込もうとしているような、震えを帯びた響きだった。
ダンテは言葉を返すことができず、ただ小さく首を横に振った。
「この土地は、もう何年もまともな作物を育てることができなかった。俺がどれだけ土を掘り返しても、水を運んでも、命は根付かずに枯れていくばかりだった」
ルグランの視線が、ダンテの手から、足元で風に揺れる新芽へと移る。
その横顔には、長年の重圧から解放されたような、深い安堵の影が落ちていた。
「お前は、死にかけていたこの土地に、そして飢えに苦しむ領民たちに、希望を与えてくれたのだ」
ルグランの言葉が終わると同時だった。
周囲を取り囲んでいた魔族の一人が、不意に地面に膝をついた。
それに続くように、次々と屈強な魔族たちが土の上にひざまずき、深く頭を垂れ始めた。
彼らの口からは、言葉にならない感嘆の息が漏れ出している。
ある者は両手を組み合わせて天を仰ぎ、ある者は芽吹いたばかりの土に額をこすりつけていた。
彼らの目からこぼれ落ちた涙が、乾いた土に濃い染みを作っていく。
それは、ダンテへの明確な感謝と、畏敬の念の表れだった。
誰からも必要とされず、ただ捨てられるためだけに生きてきたダンテにとって、それは全く未知の光景だった。
胸の奥で、固く閉ざされていた氷の扉が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
「私で、お役に立てるのでしょうか」
絞り出した声は、ひどく頼りなく揺れていた。
ルグランはダンテの手を包み込んだまま、力強く頷く。
「お前がいなければ、俺たちはこの冬を越えられなかったかもしれない。お前の力が、必要なのだ」
必要だと言われた。
そのたった一言が、ダンテの心をどれほど救い上げたことか。
瞳の奥から熱いものがこみ上げ、視界が急速に歪んでいく。
ダンテは堪えきれずにうつむき、ルグランの大きな手の中で、声を出さずに泣きじゃくった。
ルグランは何も言わず、ただダンテの涙が枯れるまで、その温かい手で包み込み続けていた。
その日の午後から、魔王領の風景は劇的な変化を遂げ始めた。
ダンテはルグランに付き添われ、広大な畑を端から端へと歩いて回った。
枯れ果てた作物の前に立ち、深く深呼吸をしてから、両手をかざす。
身体の奥底から引き出した魔力を、指先を通して大地の血管へと流し込んでいく。
ダンテが歩いた軌跡を追うように、ひび割れた茶褐色の土は豊かな黒土へと変わり、萎れていた茎はピンと張り詰めた。
枯れ葉は鮮やかな緑色を取り戻し、次々と新しい葉を空に向かって広げていく。
灰色の絶望に支配されていた大地に、色彩が戻っていく。
それはまるで、春の女神が足早に通り過ぎていくような光景だった。
魔族たちは歓声を上げ、生き返った作物の周りを飛び跳ねて喜んだ。
ダンテは額ににじむ汗を腕で拭いながら、次々と魔法を行使し続けた。
体力の消耗は激しかったが、不思議と苦痛は感じなかった。
背後には常にルグランが控え、ダンテの足元がふらつくたびに、その強靭な腕でそっと背中を支えてくれたからだ。
ルグランから漂う、深い森の樹木を思わせるような落ち着いた香りが、ダンテの乱れた呼吸を整えてくれる。
太陽が西の岩山に沈みかけ、空が燃えるような茜色に染まる頃には、見渡す限りの畑が瑞々しい緑の絨毯で覆い尽くされていた。
ダンテは最後の畝に魔力を注ぎ終えると、大きなため息をついてその場に座り込んだ。
指先はかすかに震え、膝にはもう立ち上がる力すら残っていない。
だが、見渡す景色は、朝の絶望的な光景とはまるで違っていた。
風が吹き抜けるたびに、無数の葉が擦れ合い、心地よい音を奏でている。
土の匂いと、植物が放つ甘青い香りが、冷たい空気の中に満ちていた。
ルグランが静かに歩み寄り、水筒を差し出してきた。
「よくやってくれた。だが、無理は禁物だ」
ダンテは水筒を受け取り、冷たい水を喉の奥へと流し込んだ。
乾いた身体に、水が染み渡っていく。
ルグランはダンテの隣に腰を下ろし、夕日に照らされた緑の畑を静かに見渡した。
その横顔は、朝見た時の疲労に満ちたものとは違い、穏やかな希望に満ちていた。
「美しいな」
ルグランの口から漏れたつぶやきは、景色に向けられたものなのか、それとも別の何かに向けられたものなのか、ダンテには分からなかった。
ただ、隣に座るルグランの大きな身体から伝わってくる熱が、ひどく心地よかった。
ダンテは自分の居場所が、この凍てつく地の果てに確かに存在していることを、深く実感していた。




