第2話「温かなスープと冷たい現実」
重厚な石造りの部屋に、戸惑いの色が満ちていた。
魔王と呼ばれる男は、ひざまずいて震えるダンテをじっと見下ろしている。
その視線には、噂に聞くような冷酷さも、獲物をいたぶるような嗜虐心も微塵も感じられない。
ただ、突然現れた厄介な客を持て余しているような、困り果てた色が浮かんでいた。
男は大きなため息を一つこぼすと、乱れた漆黒の髪を無造作にかき上げた。
「人間どもが勝手に送りつけてきたのか。不作の腹いせをこちらに向けられても困るのだがな」
つぶやく声は、どこか疲れ切っているように聞こえた。
ダンテは冷たい床に手をついたまま、どう反応すればよいのか分からずに身をすくませる。
生贄として殺されるはずだったのに、目の前の魔王はダンテに刃を向けるどころか、ひどく困惑している。
予想外の事態に、恐怖で張り詰めていた心が少しずつほどけていくのを感じた。
だが、安堵よりも先に、限界を迎えていた身体が悲鳴を上げた。
凍てつく雪道を何日も歩き続けた疲労と、極度の緊張から解放された反動が、一気にダンテを襲う。
視界がぐらりと揺れ、床の石畳が不自然に傾いて見えた。
冷たい床に身体が崩れ落ちる寸前、強い力で肩を支えられた。
「おい、大丈夫か」
焦ったような声と共に、温かい体温が伝わってくる。
見上げると、すぐ間近に真紅の瞳があった。
魔王の大きな手が、ダンテの細い肩をしっかりと抱き留めている。
その手はごつごつとしていて硬かったが、不思議なほど温かかった。
ダンテは抵抗する気力もなく、身を任せるように目を閉じた。
次に目を開けた時、ダンテは柔らかい寝台の上に横たわっていた。
部屋は薄暗く、石の壁に囲まれてはいるが、空気がじんわりと温かい。
近くの暖炉で火が燃えているのが見えた。
身体には分厚い毛布が何枚も掛けられており、凍りついていた手足にも少しずつ血の気が戻ってきている。
ゆっくりと身体を起こそうとすると、部屋の隅の木製椅子に座っていた人影が立ち上がった。
「目が覚めたか」
ルグランだった。
彼は静かな足取りで寝台に近づき、ダンテの顔色をうかがうように覗き込んだ。
「あ、あの……」
「ルグランだ。魔王などと大層な名で呼ばれているが、ただのこの領地の責任者に過ぎない」
ルグランと名乗った男は、無骨な手で小さな木製の椀を差し出してきた。
椀からは、湯気とともに素朴な匂いが漂ってくる。
「飲めるか。少しは身体が温まるはずだ」
ダンテは戸惑いながらも、両手で椀を受け取った。
指先に伝わる温もりが、冷え切った心まで溶かしていくようだ。
椀の中には、少し濁った薄茶色のスープが入っていた。
具材は細かく刻まれた根菜がわずかに浮いているだけで、決して豪華なものとは言えない。
人間の王宮で出されるような、澄み切った黄金色のスープとはまるで違っていた。
それでも、ダンテは少しずつ口をつけてスープを飲んだ。
土の香りが強く残る、薄味のスープだった。
だが、空っぽの胃の腑に落ちていく温かい液体は、今まで食べたどんなご馳走よりも美味しく感じられた。
一口飲むごとに、生き返るような心地がする。
夢中でスープを飲み干すダンテを、ルグランは静かに見守っていた。
「すまないな。このような粗末なものしか出せなくて」
ルグランの言葉には、深い申し訳なさが込められていた。
ダンテは驚いて顔を上げる。
粗末だなんてとんでもない。
これほど心に染み渡る食事は、生まれて初めてだった。
「いいえ、とても、美味しいです。ありがとうございます」
本心からそう答えると、ルグランは少しだけ安堵したように眉尻を下げた。
「ここには何もない。人間の国のように豊かな土地ではないからな。作物も育たず、領民は常に飢えと戦っている」
ルグランの言葉に、ダンテは魔王城に辿り着くまでの光景を思い出した。
枯れ果てた木々、ひび割れた大地、そして骨と皮ばかりになった魔獣たち。
城内も薄暗く、かつての栄華の欠片も見当たらなかった。
残虐な魔王が富を独占しているという噂は、完全に間違っていたのだ。
目の前にいる男は、ただ領民の飢えを憂い、不毛の地で苦悩する一人の不器用な青年だった。
彼の手が荒れていたのも、土汚れが付いていたのも、自ら土をいじり、何とか作物を育てようと足掻いていたからに違いない。
ダンテの胸の奥で、何かが小さく疼いた。
オメガとして無能の烙印を押され、誰からも期待されずに生きてきた自分。
そして、魔王という名ばかりの恐怖の象徴として恐れられ、孤独に領地を支えるこの男。
種族も立場も全く違うはずなのに、どこか似ているような気がした。
「人間の国に帰る当てはあるのか」
唐突な問いかけに、ダンテは肩をびくっと震わせた。
帰る場所など、とうの昔に失われている。
家族の冷ややかな視線、兄のあざけるような笑い声が脳裏をよぎる。
ここから追い出されれば、今度こそ行き場を失い、雪原で凍え死ぬしかない。
「……ありません。私は、国から見捨てられました。オメガとして生まれた、ただの役立たずですから」
自嘲するようにつぶやいた言葉は、自分でも驚くほど乾いていた。
ルグランはダンテの言葉を聞いて、少しの間黙り込んだ。
その赤い瞳が、ダンテの瞳の奥を真っ直ぐに見透かそうとしているかのようだった。
ダンテは視線を逸らすことができず、ただじっとその深い赤を見つめ返す。
「役立たずかどうかは、俺が決める」
静かだが、力強い声だった。
「帰る場所がないなら、ここにいればいい。ただし、ここでは誰もが働く。生贄としてではなく、一人の領民として、自分の食い扶持は自分で稼いでもらうぞ」
それは、冷たい突き放しではなく、不器用な彼なりの歓迎の言葉だった。
ダンテは胸の奥が熱くなるのを感じながら、深く頷いた。
こうして、捨てられた王子の、魔王領での新しい生活が静かに始まったのである。




