第11話「自滅の足音と崩れゆく王冠」
人間の軍勢が魔王領の結界の前から完全に姿を消してから、数週間の月日が流れた。
結界の外は本格的な冬を迎え、大地は分厚い雪と鋭い氷に閉ざされているが、魔王領の内側は依然として豊かな春の気配と、実りの秋の豊穣を同時に保ち続けている。
畑にはダンテの魔力を受けた植物たちが次々と新しい葉を広げ、魔族たちは毎日のように籠いっぱいの作物を収穫しては、満面の笑みを浮かべていた。
かつて死の大地と呼ばれていた場所は、今やこの大陸で最も豊かな楽園へと変貌を遂げていたのである。
ある日の午後、暖炉の火が赤々と燃える城の執務室で、ダンテはルグランの隣に座り、収穫された野菜の目録を羊皮紙に書き写す作業を手伝っていた。
インクの匂いと、薪がはぜる心地よい音が部屋を満たしている。
ふいに、重厚な木の扉が控えめに叩かれ、偵察任務に就いていた魔族の兵士が足早に入室してきた。
彼の身にまとう革の鎧には外の冷たい冷気が染み付いており、部屋の温度がわずかに下がったように感じられた。
兵士はルグランの前に深くひざまずき、険しい表情で顔を上げる。
「ルグラン様、南の人間の国から戻りました。報告事項がございます」
ルグランは羽ペンを置き、姿勢を正して先を促した。
ダンテも手を止め、兵士の口から語られる言葉に耳を傾ける。
「人間の国は、完全に崩壊しました。極度の飢饉に耐えかねた民衆が暴徒と化し、王都へと押し寄せたのです」
兵士の報告は、簡潔でありながらも、凄惨な情景をありありと思い起こさせるものだった。
王族たちは城の備蓄庫に食料を隠し持ち、自分たちだけが生き延びようと門を固く閉ざした。
しかし、飢えに狂った数万の民衆の怒りを、少数の近衛騎士たちで抑え込めるはずもなかった。
民衆は手に手に農具のクワやスキ、カマを持ち、素手で城壁をよじ登り、分厚い鉄の扉をこじ開けた。
魔王領への無謀な遠征で軍事力を失っていた王都は、あっけなく陥落したのだという。
「ローゼンをはじめとする王族たちは、民衆の手によって城の広場に引きずり出され、そのまま……」
兵士はそこで言葉を区切り、ダンテの方をちらりと見た。
これ以上は詳細に語るべきではないと判断したのだろう。
ルグランが短く頷き、兵士に下がるように指示を出す。
扉が閉まり、執務室に再び暖炉の火の音だけが戻ってきた。
ダンテは膝の上で両手を組み合わせたまま、じっと炎の揺らめきを見つめていた。
自分の家族であった者たちが、凄惨な最期を遂げたという事実。
かつてダンテをゴミのように見下し、冷笑を浮かべていた異母兄の顔が脳裏をよぎる。
彼らが民衆に囲まれ、恐怖に顔を引きつらせて命乞いをする姿を想像しても、ダンテの心に喜びや復讐の達成感は微塵も湧いてこなかった。
ただ、ひどく冷たく、空虚な風が胸の奥を吹き抜けていくだけだ。
悲しみからくる涙も、溢れることはない。
あの日、雪降る荒野に一人で放り出された瞬間に、ダンテの中で彼らに対するあらゆる感情はとうの昔に凍りつき、死に絶えていたのだ。
「ダンテ」
ルグランの大きく温かい手が、ダンテの冷えた指先をそっと包み込んだ。
その体温に触れた瞬間、空虚だった心にじんわりと血の気が戻ってくるのを感じた。
「お前は、なにも悪くない。彼らは自らの傲慢さと愚かさの重みに耐えきれず、自ら崩れ落ちただけだ」
ルグランの声は、どこまでも優しく、ダンテの心の傷を丁寧に撫でるように響いた。
ダンテはゆっくりと顔を上げ、ルグランの真紅の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
そこにあるのは、どんな過去もすべて受け入れ、未来永劫守り抜くという揺るぎない覚悟の光だった。
「分かっています。私はもう、彼らのことで涙を流したりはしません」
ダンテはルグランの手に自身の両手を重ね、静かに微笑んだ。
「私が守りたいのは、この手の中にある温もりと、外で笑い合っている領民たちだけです。私の過去は、あの雪原に捨ててきました」
過去との完全な決別を口にしたダンテの表情には、もう一片の迷いもなかった。
祖国の滅亡という知らせは、ダンテを縛り付けていた最後の見えない鎖を完全に断ち切ったのだ。
ルグランはダンテの強さを讃えるように目を細め、その身体を引き寄せて固く抱きしめた。
ダンテのうなじに残る番の証に、ルグランの熱い唇がそっと触れる。
執務室の窓の外では、雪雲の隙間から一筋の黄金色の陽光が差し込み、魔王領の豊かな大地を美しく照らし出していた。




