第1話「凍てつく地の果てにて」
登場人物紹介
◆ダンテ
人間の国の第三王子。19歳。
性別はオメガ。
王族でありながらオメガとして生まれ、家族から無能と虐げられて育つ。
植物の声を聞き、成長を促す稀有な魔法の持ち主だが、その能力を隠して生きてきた。
冷酷と噂される魔王への生贄として追放されるが、持ち前の優しさと魔法で荒れた魔王領を救っていく。
◆ルグラン
魔族を統べる魔王。25歳。
性別はアルファ。
漆黒の角と赤い瞳を持つ。
人間たちからは残虐な怪物として恐れられているが、実際は真面目で不器用な、領民の生活を第一に考える心優しい青年。
不毛の地である魔王領の食糧事情をどうにかしようと、自らクワを持って畑に出ることもある。
◆ローゼン
人間の国の次期国王。
ダンテの異母兄。
性別はアルファ。
傲慢で自己中心的な性格。
ダンテを蔑み、厄介払いとして魔王領へ追放した張本人。
のちに自身の愚かさによって国を滅亡の危機に追いやる。
灰色の空から舞い落ちる雪は、氷の刃のように鋭く冷たかった。
吹き荒れる北風が、薄手の外套を容赦なく通り抜け、ダンテの体温を無残に奪っていく。
足を踏み出すたびに、凍りついた大地が硬い音を立てて砕けた。
革のブーツはとうに雪と泥で濡れそぼり、かじかんだ足先はすでに感覚を失っている。
吐き出す息は白く濁り、すぐに冷たい風に混じって消え去っていった。
王都を出発してからどれくらいの日数が経ったのか、ダンテにはもう分からない。
馬車に乗ることを許されたのは国境までだった。
そこから先、魔王領と呼ばれる北の荒野へは、ただ一人で歩いて向かうようにと冷たく言い渡されたのだ。
護衛の騎士たちは、厄介払いできたとばかりに彼へ軽蔑の視線を向け、すぐに背を向けて去っていった。
その背中を見送った時の絶望感を、ダンテは今も鮮明に思い出すことができる。
人間の国の第三王子として生を受けながら、ダンテは常に日陰の存在だった。
アルファとして優れた能力を持つ兄たちとは違い、オメガとして生まれたというただそれだけの理由で、王族としての尊厳を剥奪されていた。
有益な政略結婚の道具になればまだしも、気弱で目立たない彼は、王宮の隅でひっそりと息を潜めて生きるしかなかったのだ。
そして今、深刻な不作に悩む祖国が魔王領との一時的な不可侵条約を結ぶための、名ばかりの生贄として、彼はこの地に放り出された。
死にに行くのだと、誰もが知っていた。
ダンテ自身も、自分の命がこの雪原で尽きることを静かに受け入れていた。
鉛のように重い足を引きずり、凍てつく風に身を屈めながら、ただ前へと進む。
視界を遮る吹雪の向こうに、巨大な黒い影がそびえ立っているのが見えた。
険しい岩山の頂にへばりつくようにして建つ、魔王城だった。
切り立った黒曜石の城壁は、天を突くように高く、近づく者を威圧するような冷たい光を放っている。
人間の世界で語り継がれる魔王は、血に飢えた残虐な怪物だという。
捕らえられれば、骨の髄までしゃぶり尽くされ、魂すらも永遠の苦しみに囚われるのだと。
恐怖がないと言えば嘘になる。
しかし、冷たい王宮で誰からも愛されずに生きるよりは、いっそここで終わらせてしまった方が楽なのかもしれない。
自嘲的な思いが、凍りついた唇の端に歪んだ笑みを作った。
城門へと続く急な坂道を登るにつれ、息はますます苦しくなり、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴る。
体力はすでに限界を迎えていた。
何度も雪の上に倒れ込みそうになりながら、その度に震える両腕で体を支え、這うようにして進んだ。
ようやく辿り着いた巨大な鉄の扉の前で、ダンテは足を止めた。
見上げるほどの高さがある扉には、おぞましい魔獣の彫刻が施されており、表面は酷く錆びついている。
長い間、誰も開け閉めしていないかのような古びた匂いが漂っていた。
ダンテはひび割れた冷たい両手を重ね合わせ、大きく息を吸い込む。
『ここで、すべてが終わるんだ』
胸の奥で小さくつぶやき、覚悟を決めて扉に手を伸ばした。
凍りついた鉄の感触が、手のひらから全身へと伝わっていく。
力を込めて押し込もうとしたその時、重厚な扉が内側からゆっくりと開き始めた。
錆びた蝶番が耳障りな音を立てて軋み、冷たい風が城内から吹き抜けてくる。
ダンテは弾かれたように後退りし、身構えた。
暗い城内から姿を現したのは、身の丈をゆうに超える巨大な魔族の門兵だった。
灰色の肌と鋭い牙を持ち、手には無骨な槍を握りしめている。
門兵は、雪にまみれて震えるダンテを見下ろし、怪訝そうに眉間にしわを寄せた。
言葉は通じないかもしれない。
すぐに殺されるかもしれない。
ダンテは恐怖で震える膝を必死に押さえつけ、枯れ果てた喉から声を絞り出した。
「に、人間の国から、参りました」
声は風にかき消されそうなほど弱々しかった。
門兵はしばらくダンテをじっと見つめていたが、やがて何かを悟ったように小さく頷き、顎で城の中へ入るように促した。
予想外の反応に戸惑いながらも、ダンテは重い足取りで城内へと足を踏み入れる。
外の吹雪から遮断された城内は、不気味なほど静まり返っていた。
石造りの床は冷たく、高い天井にはクモの巣が張っている。
血の匂いも、悲鳴も聞こえない。
ただ、ひたすらに古びて、寂れた空気が漂っていた。
門兵に案内されるまま、長い廊下を歩いていく。
壁に掛けられた松明の炎が、ダンテの心細い影を床に長く伸ばしていた。
案内されたのは、玉座の間とは思えないほど質素な部屋だった。
装飾品はほとんどなく、巨大な石の机と、古びた椅子がいくつか置かれているだけだ。
部屋の奥にある暖炉では、細々とした薪が赤い火の粉を散らしている。
その暖炉の前に、一人の男が立っていた。
漆黒の髪に、頭部から伸びる二本のしなやかな黒い角。
背は高く、引き締まった体躯は分厚い革の衣服に包まれている。
振り返った男の瞳は、燃えるような真紅だった。
その視線がダンテを射抜いた瞬間、心臓が冷たい手で鷲掴みにされたような錯覚に陥った。
この男が、魔王なのだ。
アルファとしての強い威圧感が、肌を刺すように伝わってくる。
ダンテは耐えきれずにその場にひざまずき、冷たい石の床に額をこすりつけた。
「人間の国より、生贄として参りました。どうか、我が国への怒りを鎮め、私を好きにしてください」
震える声でそう告げると、部屋の中に重い沈黙が落ちた。
暖炉で薪がはぜる音だけが、静寂の中で響いている。
どれほどの時間が経っただろうか。
頭上から、深く落ち着いた声が降ってきた。
「顔を上げろ」
命令されるままに、恐る恐る顔を上げる。
魔王はダンテの目の前まで歩み寄っていた。
残虐な怪物の顔を想像していたダンテは、その表情を見て息を呑んだ。
真紅の瞳に宿っていたのは、怒りでも飢えでもなく、深い戸惑いと、隠しきれない疲労の色だった。
男の頬には土汚れがわずかに付着しており、その手は剣を握るためというよりも、土をいじっていたかのように荒れていた。
「生贄だと?」
男の言葉には、あからさまな困惑が混じっていた。
ダンテは目の前の現実が理解できず、ただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。




