人擬き
アルズグは暗い空に輝く星を頭上に捉えながら、老爺の指さした方向へと歩を進めていた。廃村はかなり小さな村だったようで、彼が歩き始めてから数分もしない内に村と外界を隔てる柵を超えた。それから歩き続けて体感では数時間が経過しているが、実際にそれ程までに時間が経っているのは分からない。何せ、空には赤い星だけがあり、太陽も、月も、その他の星も含め、時間を計る手段が一切ないからだ。これといって目ぼしいものも景色の変化もなく、ただ退屈な時間だけが過ぎていた。
村の外に広がっていたのは地平線の先まで続く荒野だ。干乾びた大地には枯れ草が点在しており、辺りには巨大な岩塊が幾つも転がっている。
星を正面に見て右手側の果てには山頂を雪で隠した巨大な山脈が連なっている。その頂は巨大な針が幾つも重なり合ったような形状をしており、外見からだけでもその山の過酷さを見て取れる。時折翼の生えた巨大な生物が山の周囲を旋回していた。過酷な環境でありながらその生物の縄張りだとするならば、山を越えることは命が幾つあっても足りないだろう。左手側には遠くに森が見えた。その森は赤い光のせいで中が真っ黒な闇に染まり、その昏さをより一層深くしている。
他の生物の気配はなく、野生動物どころか虫一匹すら見かける事はなかった。そのせいか世界は静寂に満ちており、まるで自分以外の生物が消えてしまったかのような錯覚に陥る。まともな人であれば、赤い景色と相まって時間と共に正気を失っていくだろう。
それから更に暫くが経った頃、アルズグはある事に気が付いた。最初は気にも留めなかったが、その違和感は時間が経つにつれ強まり遂には確信へと変わった。それは生理的な欲求が薄らいでいるという事だ。喉の渇きや飢え、おそらくは睡眠、排泄等に至るまで、生物として当たり前に必要なものが無くなりかけている。これも呪いの影響だろうか——とアルズグは星を見て思う。
だが、仮にこれが呪いだとして、アルズグはこの呪いにどのような目的があるものなのかは理解が出来なかった。呪いとは恨みや憎しみ等の負を以って相手を苦しめるものだ。生理的な欲求が無くなるという事は、それだけ自由に活動できる時間が増えるという事。彼にはそれがメリット以外の何ものにも捉えることができなかった。その為、彼は僥倖と言わんばかりに歩を進めた。
退屈な道中に変化が訪れたのは、その気づきから更に数刻が経過した頃。前方の岩陰から何かの声が聞こえて来たのだ。アルズグはナイフを構え、足音を立てないよう慎重に声のした方へと進む。微かに聞こえる程度だった声は近付くにつれはっきりと聞こえるようになる。その声は何かの呻き声のようだった。アルズグは最初野犬などの動物が居るのかと考えていたが、その声がより近くで聞こえるようになると、動物が発するようなものではないという事に気が付いた。声がする岩の真裏まで近づいたアルズグはゆっくりと、岩陰から覗くように声の主を確認する。
「これは……」
そこに居たのは三体の怪物。それらは人に近い姿をしていたが、しかし、決して人間とは呼べない様相だった。その内の一体は普通の人間よりも大きな図体をしている。それは歪な形で男女の身体がくっついているせいであった。頭部は二つで太さの違う手足が四本ずつ生えており、その身体は健常者のそれよりも醜く膨れた肉で覆われている。三本の腕と二本の脚が肉に埋もれ、歪に生えていた。もう一体は異様に肥大化した頭部に大きく裂けた口を携えていた。目には薄汚れた包帯が巻かれている。頭部に比べて身体は小さく、そのせいか常にふらふらと頭が揺れていた。その度に黄ばんだ歯がかちかちと軽く噛み合わさって音を立て、濁った唾液が地面に垂れている。最後の一体は他と比べればまだ人に近い見た目をしていた。ぼろ布をその身に纏い、背中から背骨が発達したような棘が幾本も突き出しているだけだ。そして何かを抱え、守るようにして蹲っており、その場から動く気配はなかった。
アルズグはその異形たちを一先ず観察する事にした。幸い知覚能力が低いのか、異形は誰一人としてアルズグに気付く様子はない。
彼らには目的がないのか、その場から大きく動くような事はしなかった。行き場を失った迷子のように、時折呻き声を上げながら右往左往しているだけだ。動かない個体を心配しているのかと思えばそちらの方を見向きもしない為、そういった感情があるわけでもないようだった。
もしかしたらと友好的な存在である可能性をアルズグは僅かに考えたが、良く見れば彼らの足元には砕かれた骨の欠片が多く散らばっていた。その中には明らかに人骨も含まれていたので、その可能性は泡沫の如く消え去った。
彼らの外見は三者三様で似ても似つかない。共通点としては人に近い姿をした怪物であるという部分だけだ。だが、互いに襲い合わないという事は、つまり彼らは同種の存在であり、更にそこから解るのはその程度の仲間意識はあるという事実。
見るからに高度な知性があるわけではなさそうだが、観察から得られる情報には限りがある。こればかりは、危険を冒して直接相対する他ない。
アルズグはナイフを握る手に力を込めた。無論、無理に関わる必要はなく、無視して先に進むのも手だろう。しかし、今アルズグに必要なのは情報だ。彼は自分の事だけではなく、この世界の事も知らなければならない。星に願いを叶える力があるという情報など、今の段階では無価値と同等である。それに、アルズグの頭には逃げるという選択肢は初めから存在していなかった。
アルズグは勢い良く岩陰から飛び出すと、最も近くに居た言葉の通り雌雄同体の異形の元へと駆けた。背後から心臓を目掛けてナイフを突き刺す。続けざまに肝臓や歪に生えた腕の脇など、所謂人体の急所を幾つか刺し、最後に項を深々と斬りつけて距離を取る。異形の傷口からは生臭い液体が溢れ、それぞれの頭部から音域の違う呻くような悲鳴を上げた。
人間相手ならば既に命を落としているであろう状態にも関わらず、その異形は闇雲に腕を振るってアルズグを牽制する。
「やはり、普通の生物とは違うか」
こうなる事を予想していたアルズグは冷静に呟いた。
遅れて事に気が付いた大口の異形が雌雄同体の異形と共にアルズグへと迫る。その表情は無表情のもう一体とは違って、不気味に口角を上げにやけ顔にも見える笑みを象っていた。歯の隙間からは絶え間なく唾液が溢れ、その口元を汚している。久方ぶりの獲物に歓喜しているという事は一目瞭然だった。
三体目の異形は相も変わらず蹲っている。全ての個体が好戦的ではないようだ。アルズグは動かない個体の事は無視し、残る二体へと意識を集中させる。どちらも身体のバランスが悪くその動きは緩慢だった。
アルズグは再び駆け、先程急襲した雌雄同体の異形へとナイフを振るう。同時に振り下ろされる二本の右腕を躱し、脇腹を刺す。肉を抉りながらナイフを引き抜き、払うように降り戻された右腕を身を引いて避け、空いた右胸と腹部へ一度ずつ攻撃を加える。身体の正面に来たアルズグを抱き潰そうとする四本の腕から飛退くと、彼はそのまま間合いを離した。すぐ側まで大口の異形が迫っていたからだ。
アルズグは改めて異形を観察する。既に辺りが生臭い鉄錆の匂いに包まれているというのに、異形は何食わぬ顔で活動を続けている。異様に頑丈なのか、それとも死なないのか。痛みを感じている様子はなく、傷や失血により緩慢な動きが更に遅くなる事も期待は出来そうになかった。
ナイフに着いた血を払い、アルズグは思案する。動きは緩慢、知性は低く、戦闘においても大きな脅威は感じられない。しかし、その頑丈さも相まって複数体居れば脅威度はそれなりに高まり、少なくともナイフのような小型の武器で戦う相手ではないように思えた。それに逃げる事も容易にできるだろう。寧ろ、それこそが賢明な判断であると言える。この異形たちは門番でもなければ仇でもない。簡単に逃げられる相手であるという事が分かった以上、危険を冒してまで戦闘する必要は全くない。
しかし、そこまで考えても尚、アルズグは逃げる事を選ばなかった。
大口の個体を近づかせないよう雌雄同体の異形の身体を壁にしながら立ち回る。幾ら攻撃を加えても倒れない異形を前に、アルズグにも疲労の色が浮かんできていた。
刺し、斬りつけ、抉る。
それをひたすらに繰り返し続けこいつは殺せないのだと諦めかけた時、ようやく事態は変化した。
いつまで経っても獲物に近付けない大口の異形がしびれを切らし、アルズグたちの間にその口を限界まで開きながら割って入ってきたのだ。小鹿程の大きさなら一口で事足りそうな程の大きさを誇るその口が、標的を捉え勢い良く閉じる。骨の砕ける音がした後、がちりという音が辺りに響いた。
夥しい程の血が荒れた地面を濡らし、より一層濃い鉄錆の匂いがアルズグの鼻腔を貫く。
大口の異形はその場にしゃがみ喰い千切った肉を一心不乱に貪る。そして左肩から脇腹までを失った雌雄同体の異形が耳障りな悲鳴を上げながら狂ったように暴れている。大口の異形は無理矢理動いた結果、仲間の身体を見事に喰らったのだ。そして口に入れば餌はなんでもいいらしい。
突然の出来事にアルズグは一瞬動きを止めたが、彼はこのチャンスを逃すような事はしなかった。即座に大口の異形へ詰め寄り、その無防備な首に深々とナイフを突き刺す。それから項を通って反対側までを力任せに引き裂いた。異形はその間も一切の抵抗を見せないほど食事に夢中だったが、巨大な頭部の重さで切り口が段々と開き、皮一枚を残してしゃがんだ体勢のままその顔面を地面へと落とした。半ば以上首を落とされれば流石に死ぬようで、大口の異形がその後に動く事はなかった。
その事から少なくとも首を落とせば葬ることができると理解したアルズグは、残る異形の方へと向き直る。容易に近づけない程に暴れていたその異形は、今や弱弱しくふらつき呻き声を上げるだけとなっていた。その足元には血液で濡れた大きな染みができている。アルズグはそのまま仕留めようとナイフを握るが、彼が近付くより前に異形はばたりとその場に倒れ臥した。重傷が原因か失血が原因かは定かではないが、これで異形たちは不死身ではないという事が証明された。
アルズグは倒れた雌雄同体の異形に警戒しながら近付く。そして、念には念を入れ既に動かなくなっているその二つの首にナイフを入れ、完全に止めを刺した。一仕事を終えた彼は荒れた息をゆっくりと整え満足げに息を吐くと、残る異形へと目を向ける。
仲間が倒されたというのにその異形は逃げる事も戦う事もせず、未だに蹲ったままだ。それはアルズグが近付くにつれ大きくなる足音にびくりと震えたかと思うと、更に背を丸めて鋭利な棘を突き出す。
戦う気の無い、無抵抗な異形。先程の二体と比べれば身体も小さく、脅威にはなり得ないだろう。何か大切なものを守っているかのようなその行動は、人の親が命を賭して子を守ろうとするそれに近く——それを見たアルズグはいやに虫唾が走った。
彼は棘の生えていない脇腹へ鋭い蹴りを放つ。その異形の身体は軽く、蹴られた衝撃で数度地面を転がった。その拍子に背中の棘が幾本か折れ、辺りに破片が散らばっている。異形が蹲っていた地面には小さな革袋が落ちていた。袋からは小さなガラス片や木片、金族の欠片が毀れていた。
アルズグは袋をゴミのように蹴散らしながら異形へ近づくと、震えながら袋へと伸ばされていた手を踏みつける。そして彼は一切の慈悲も容赦もなく、その細い首へ血濡れのナイフを突き刺した。一度、二度と刃を受ける度、異形の身体から力が抜けていく。そして三度目で異形は息絶え、他の異形と同様、只の醜い肉塊と化した。
彼はナイフに着いた血を足元に転がる異形が身に着けているぼろぼろの服で拭う。それからベルトにナイフを仕舞い、近場にある手頃な岩に腰掛けた。視線の先には異形の骸が並んでいる。
人に近い姿をした異形。それが明らかにまともなものではない事は、記憶が無いアルズグにも分かっていた。恐らくは世界が赤くなってから現れた存在。
完全に知性を失くした個体と、妙に人間臭い個体。
強い悪意と、世界を染める呪い。
アルズグは異形について考えを巡らせていたが、己の目的には関係のない事だとその思考を途中で放棄した。奴らの正体が何であれ、やる事は変わらないのだから。
彼は徐に立ち上がると最後に異形たちを一瞥し、その場を後にした。