目覚め
とある廃村の、とある廃墟の中。埃に塗れ、劣化し、黄ばんだシーツの敷かれたベッドの上で、一人の男が目を覚ました。
まず男の視界に映ったのは赤く照らされた天井。その天井には視線を動かさなくても見える範囲に穴が開いていた。上から何かが落ちて来たかのように垂木や梁を貫いて開いているその穴からは、何処までも深く続いている闇が見える。穴から差し込んでいるのは赤い光だ。男はその闇が空である事に遅れて気が付き、そして興味なさげに視線を動かした。
一通り天井を眺めた後、男は右手を自身の顔の前へと動かした。顔に影が差し、掌は薄闇に染まる。それは何の変哲もない手だった。ごつごつとし、厚い皮膚に覆われた人間の手。男は何かを確かめるように手を動かした。拳を握り、それを開く。指を順番に曲げ伸ばし、手の甲を見る。
そして男は右手を降ろし、上体を起こした。男はそこで初めてベッドに寝ていたのだと気が付いた。辺りは埃に塗れているにも関わらず、自身の身体には埃が積もっていない。男は訝し気に片眉を上げ、部屋の中を見回す。
割れた窓ガラス。上部の蝶番が外れ歪んだドア。乱雑に転がっている机と椅子。所々に穴の開いた床に、血の染みた包帯の残骸。小さな棚には濁った液体の入った瓶が並び、その内の幾つかが床の上で無残に砕けている。
「ここは……何処だ?」
それらを見て、男は静かに呟いた。その問いに答えは返って来ない。低い声が頭蓋に響き、ただ静けさに呑まれて消えていった。見覚えのない部屋に、見覚えのない品々。血濡れの包帯を見て怪我でもしているのだろうかと自身の身体を確認するが、痛む所も具合の悪い部分もなく、健康体そのもののように思える。
服は着ており、靴も履いていた。男は服の名や目利きには明るくないが、これらが革で作られ丈夫であるという事だけは理解ができた。
未知に囲まれた現状で、男は静かに思考を巡らす。ここが何処なのか。何故ここにいるのか。そして一つの事実に気が付いた。
記憶の欠落。
男は自分自身の事を名前も含め何も覚えてはいなかった。自分の事を思い出そうとしても、頭の中は濃霧に覆われ必要としている記憶を探る事が出来ない。まるで何者かが彼の正体に関する記憶だけを秘匿してしまったかのようだった。
見ず知らずの場所で目覚め、挙句の果てに記憶もない。常人ならば錯乱しても何らおかしくはない状況にも関わらず、当の本人は至って冷静だった。無様に取り乱す事もせず、只々この現実を受け入れている。記憶が無いからこその冷静さなのかもしれないが、彼の様子は何処か人間らしさを感じさせない。
男は静かにベッドから降り立ち上がる。包帯を容赦なく蹴散らし、ある物の元へと向かった。先程部屋を見回した際に見つけた不自然な物。それは大量の包帯に塗れた床に突き刺さっている。男が歩く度に静寂の満ちた室内には鈍い靴音だけが響いた。そして彼は躊躇うことなくそれを掴み、引き抜く。
それは一振りのナイフだ。柄があり、片刃の刃が備わった簡素な作りのナイフ。特別な意匠や作り手の拘りなどは一切感じられず、量産品の何処までも凡庸な代物。刃は若干錆びついている部分が見受けられるが、しかし刃毀れはしておらず大部分は確かな鈍色が残っている。彼はナイフを持つ手を動かし、観察するように眺める。外の赤い光に照らされ、僅かにナイフが煌めいた。何処も彼処も汚れ廃れきった室内で、その光は最も美しいものだった。
その後、男はナイフを片手に持ったまま廃墟の中を歩く。端から端まで数歩分の広さしかない廃墟の中を、彼はくまなく見て回った。それは何かしらの手がかりを探すためだ。失った記憶に関する何かがあれば重畳。それでなくとも食料などの生きる糧、もしくはこの場所に関する事など、何かしら今の大量に浮かぶ疑問や謎を紐解くものがあれば、それは彼にとって大きな手掛かりとなる。
しかし、男の期待とは裏腹に廃墟内には何もなかった。包帯の下、瓶の中、机や椅子を退かし、シーツを剥がしてベッドをずらした。何処を探してもあったのは積もった埃と黴の匂いだけ。この廃墟で得られた物は彼が握るナイフ。それだけだった。
廃墟内に何もない事が分ると男はナイフを腰のベルトに差しながら溜息を吐き、赤い光に満ちた外に出ようと決めた。歪んだドアの取手を掴んで押す。しかしドアは開かず、引き戸なのかと今度は手前に引くが、それでも開かなかった。そして男はドアの下部、角の部分が床に閊えている事に気が付いた。どうやら、上部の蝶番が外れ歪んだ拍子に、ドア自体が斜めに傾いてしまっているようだった。
蝶番の向きを見ればこのドアは押戸であった。それならばと男は右手で取手を回しながら右肩と左手でドアを強く押した。だが、ドアからは軋む音だけが聞こえ、開く気配はなかった。彼は何度か試すが結果は変わらず、埃と共に苛立ちだけが募っていった。右掌にはざりざりとした不快な感触をした錆がこびり付き、彼は舌打ちをした。
そして手の錆を払い落とすと、ドアから少し離れる。それから右脚で思い切りドアを蹴りつけた。大きな音が辺りに響く。衝撃で建物全体が僅かに揺れ、廃墟の上部からは埃が降った。その後も二度、三度と蹴りつけ、そうして四度目。その一撃で残っていた下部の蝶番も外れ、ドアは埃と騒音を盛大に散らしながら向こう側へと倒れた。男はドアの惨状を鼻で笑い、埃を吸わないよう気を付けながら外へと出た。
辺りには彼が目覚めた廃墟と似た造りの建物が点在していた。そのどれもが一目見てわかる程に廃れ、荒れており、もう長い事人の営みが行われていないことが伺える。
目に付くのは至る所に転がっている死体。老若男女を問わず、家畜や見るからに化け物と称されるような生物のものもあった。無残に討ち捨てられ既に多くが骨と化している事から、村が荒らされるような出来事が起きてからかなりの時間が経過している事が見て取れる。化け物から村を守る為か、はたまた化け物と村を守ったのか。どちちらにせよ彼らの苦労が報われる事はなかったようだ。
それらの惨状を目の当たりにしても、男は何も感じなかった。脈拍に寸分の乱れもなく、淡々と死体を認識し、過去の出来事を予想する。不快感や動揺こそなかったが、それとは別に彼の中で疑問は膨らむばかりであった。自分がこの村の住人である可能性。村の惨劇に自分が関与している可能性。記憶の無い彼にとっては、未知の全て、目に映るもの全てが自身に関係しているのではと疑わざるを得ない。
しかし、男は村の過去については興味が無かった。過ぎたるは猶及ばざるが如し。自身の心に従って全てを気にしていてはキリがないのだ。何より村が栄えていたのは過去の事。今ここに残されているのは残骸だけだ。この残骸を生み出したのが自分だったとしても、全てはとうに過ぎ去っている。変えられない過去を悔やむ程、彼は情に溢れてはいなかった。
そして、そんな村の惨状すらも些細な事に思える程、異様というほかない程に世界は赤かった。枯れて歪んだ木も、砕け崩れた廃墟の壁も、乾き草臥れた大地も。何もかもが赤い。まるで鮮血越しに世界を見ているかのようだった。
男は世界を赤く染めている原因にすぐ気が付いた。それはあまりにも大きく、堂々と、傲岸不遜なまでに空に浮かんでいるのだから。
星。
その巨大な星は煌々と空に浮かび、他の星々の輝きすら呑み込んでいる。星から発せられる赤い光によって世界から赤と黒以外の色彩が失われ、空は暗黒に満たされていた。井戸の底から見上げた空の如く、漆黒の中にはただ一つ、赤い星だけがある。
禍々しく、悍ましい。まるで不吉の象徴であり、どうしようもなく呪われたもの。世界の終焉を謳っているかのようなその星は、しかし、男の記憶を覆う霧を晴らす光明となった。
「アルズグ——」
男は頭に浮かんだ言葉を呟いた。それは己の名。秘匿された筈の記憶のごく一部。何故星を見て思い出したのかは判らない。たったの一単語、それが名前であるという確証はどこにもない筈だが、彼は確信していた。それに伴って他の記憶が戻ったわけでもなく、自然と身体に馴染む言葉でもないが、誰が何と言おうと、これは確かに自分の名だと。
しかし、アルズグは己の名を思い出しても喜び一つ見せる事はなかった。失われた記憶は干上がった大地のようなものだ。そこにグラス一杯の水を注いだところで、僅かに湿った部分が出来上がるだけであり、現状は何も変わらない。それに、最早この世界で名前というものは大した意味を持たないだろうと彼は考えていた。
だが、ほんの僅かだとしても記憶が戻った事は紛れもない事実。アルズグは他にも思い出せないかと微かな期待を込めて星を眺めていた。体感にして数分。そして、得られたものは黒と赤で彩られた世界の静寂だけだった。
「都合良くはいかないな——」
「ようやく、目が覚めたか」
アルズグが自嘲気味に呟いたその時、何者にも向けていない筈の言葉に返答——否、呼びかけがあった。彼の背後から聞こえたそれは嗄れた男性の声だ。
アルズグは勢い良く振り返る。その右手には咄嗟に抜き放たれたナイフが握られていた。その無駄のない一連の動作は、まさにベテランの傭兵や殺し屋のそれであった。彼は無意識で行われたその行動に内心僅かに困惑したが、気にするべきはそこではないと声の主を睨みつける。
視線の先に居るのは杖を突いた一人の老爺だ。アルズグがドアを壊した廃墟、その玄関付近に老爺は佇んでいる。その皴塗れの顔には優し気な微笑が湛えられており、明確な敵意はないようだった。
しかし、アルズグは警戒を解かなかった。彼が廃墟から出て来た時、辺りに人がいる様子はなかった。ドアを壊した際の音を聞きつけ別の家から来た線もあるが、足音や気配を立てずにここまで来るとは考え難く、何よりこの廃村で老爺が一人生活をしているとは思えなかった。だが、ナイフを向けられても一切の動揺や警戒を見せないのは些か不自然だとアルズグは考える。少なくとも、この老爺は只者ではないと。
「お前さん、こっちへ来なさい。少し話そう」
アルズグが何者かを問おうと口を開きかけた時、それより先に老爺が言葉を紡いだ。彼は水分の抜けきった牛蒡のような手でゆっくりと手招きをする。
アルズグは少しだけ顔を顰め、今度は老爺にその理由を尋ねようとした。しかし、またしてもアルズグが口を開く前に老爺は言葉を発する。
「そう警戒しなくてもいい。こんな老い耄れではお前さんには到底敵わんよ」
老爺はそう言って笑い、さあさあと手招きを続ける。アルズグは彼の態度に若干毒気を抜かれ、構えていたナイフを下した。それでも完全に警戒は解かず、ナイフを手に持ったままゆっくりと老爺へと近づく。その様子に老爺は満足げに頷くと、挙げていた手を降ろし杖へ置いた。
老爺と腕一本分の距離まで近づいたアルズグは、口を開かず老爺が話し出すのを大人しく待った。何かを尋ねようとすれば、また言葉を被せてくると思ったからだ。そんなアルズグの思いを知ってか知らずか、老爺は静かに笑った。
「さて、お前さんは、あの星を見て何を思う?」
老爺は視線だけを星へ移し、アルズグへ問い掛けた。それに釣られ、アルズグも星を見る。
鮮血のように、呪いのように、天に佇みこちらを睥睨する赤い星。
「何を思う、か」
アルズグはそう呟き、視線を老爺へと戻した。
「少なくとも、良いものではないのだろうな」
そう答えたアルズグだったが、記憶のない彼には本当の事など解かりもしない。ただ、警戒色である赤だから、不吉な感じがするからという、ありきたりな人間としての感性に従っただけである。
誰に聞いても十中八九そう答えるであろう質問と回答。しかし、老爺はまるでその答えを聞きたかったと言わんばかりに静かに頷いた。
「その通りだ。かつてあの星は白く輝く美しい星だった。それが今となっては、世界を呪い、災いを振りまく凶星となってしまった」
「それは何故だ?」
「決して誰かの為ではない。そして、自分の為でもない。全てを失った何者かが、悪意に満ちた想いを星に願ったのだ。世界に呪いあれ、とな」
老爺が紡いだ言葉にアルズグは面食らった。あの星は願いを叶える。最早馬鹿にされているのではと思いたくなる程に胡乱な話だ。到底信じる事など出来ず、アルズグは僅かに苛立ちを募らせて老爺へ問う。
「あの星は願いを叶えると? 本気で言っているのか?」
「本当だとも。御伽噺、気狂いの妄言、老人の戯言……好きに受け取って貰って構わない。だが、全ては真実だ。多くの者が星を目指し、醜く争い、命を散らしている」
アルズグの威圧的な態度にも反応を示さず、老爺は冷静に答えた。信じようが信じまいが好きにすれば良いと言ってはいるが、彼の口調や態度から察するに嘘を話しているわけではないようだ。
顎に手を当て、アルズグは思考を巡らした。願いを叶える星。それが本当ならば確かに興味はある。自身に関する記憶の無い今、野望も欲も無いに等しいが、願いが叶うと言われれば興味が湧くのは人の性なのだろう。強いて願うのならば記憶の再生になるだろうが、彼はそこまでして記憶を取り戻す事に興味はなかった。自分の出自など、あってもなくても生きるのに困らないからだ。
「面白い話だが、俺には関係のない事だ。命を懸けてまで叶えたい願いなどない」
アルズグはそう一蹴したが、それを聞いた老爺は静かに首を横に振った。そして微かに震える右手を持ち上げ、例の星を指さした。それに釣られ、アルズグは再び星を見る。
「いいや、お前さんはあの星の元へ向かわねばならん。そこへ辿り着けば、全てが解る」
「それはどういう事だ? 一体に何を知って——」
アルズグが振り返ると、そこに老爺の姿はなかった。最初から何もいなかったかのように、老爺は忽然と姿を消してしまっている。彼は幽霊だったのか、はたまた幻覚の類なのかは今となっては知る由もない。
ただ残されたのはこの世界に関する僅かな情報と、意味深に告げられた目的地だけだった。
アルズグは大きな溜息を吐きナイフを仕舞うと、老爺の指さした方向へ歩き始めた。