まどろみの思い出1
ギルバートが見上げた同じ空の下、ユーリエへと向かう馬車の揺れの中、アリシアは緊張が解けてかうとうとと船を漕ぎ始めていた。
素性も知らない若い男と密室も同然の馬車内にいて危機感がないと言われればそうだが、別段鍛えているわけでもなく人並みの体力しかないごく普通の少女であるアリシアは、朝から連れ出されて半日、顧客の豹変にショックを受け憤慨し、人生史上最も走りあまつさえ未知の馬車に押し入るという大博打を打たざるを得ない窮地と緊張の連続だった。
当然、襲ってくる極度の疲労に抗えるはずもなく瞼は自然と下がっていった。
何度も意識を保とうとしたもののついにまどろむ意識の中に、どこまでも抜けるような雲一つない空が広がった。
地上ダーレクの街の空とは違う、どこか高原特有の青。
その果てない蒼穹を映す大きな湖。
(ああ、懐かしいな……)
歯止めなく、意識はどんどん現実から記憶の湖に沈んでいく。
遠くから響く波紋のように懐かしい声が聞こえてくる。
「――よおーし皆しっかり笑えよ~? この可笑しな日にぃ~……祝福を!」
湖のほとりの古城では写真撮影会が行われていた。
草木の生い茂る広い庭では、一家と使用人達が思い思いの仮装をしている。
手品師の恰好をした若い古城主が音頭を取れば、その他の面々が笑顔でポーズを決め、心得た写真屋が黒布の中でレンズを覗き込みシャッターを切った。
後は軽食片手に各自自由におしゃべりに興じる。
それはアリシアにとって毎年恒例の光景だった。
ワイワイと賑やかに雑談が始まる中、古城主の一人娘アリシアはぴくりとしてふっと顔を上げ、古城脇の茂みへと目をやった。
彼女の服装は上下着も杖も山高帽も革靴も、貴族の身嗜みとして文句のつけようのない品で固められた伯爵様と言った感じだ。
赤いりんごのように真っ赤な髪を後ろで一つに縛り、まだ十歳を過ぎたばかりの彼女はその形の良い耳をじっと欹てる。
「やっぱり聞こえた」
気のせいかと思うほどのほんの微かな異変だった。
けれど耳に届いた悲鳴は確かなもので、アリシアは手にしていた料理の皿を慌ててテーブルに置いた。
両手の指で足りる屋敷の皆の姿は庭の中に全員ある。
ならば悲鳴の持ち主は別にいる。
それを理解した瞬間、アリシアは全身の毛が逆立つような焦燥を感じた。
ここらは昼間でも狼が出る。
地元民なら出歩く際は用心深く撃退用の武器を持つし、ほとんど森に入るのは猟師達なので例え遭遇しても対処は心得ている。悲鳴よりもいつものように高く乾いた武器の音の方が聞こえてくるだろう。
――けれど滅多にいない余所者だったなら?
そう考えるやアリシアは少年貴族姿のまま一人庭を駆け出し森に飛び込んだ。
この時、彼女は知らなかったが、入れ違いのように屋敷には一台の馬車が横付けされた。
叫び声は奥に進むにつれ確実に大きくなった。
(早く、早く早く早く早くっ間に合えっ!)
ザザザッと跳ぶように森を駆け、突っ切った茂みの向こうに見つけた。
狼と、それの太い前脚に組み敷かれている人物を。
今にも喉笛を噛み千切られんとする少年は、変声期特有の掠れ声で喚いていた。
誰が見ても猶予などないその光景の中、しかしアリシアは一瞬動きを止めそうになった。
(に、肉団子が動いてる!?)
アリシアの目を奪ったのは、少年の標準よりもかなり肉付きのいい体格だった。
何しろアリシアが見た事のないくらいコロコロとして丸い。
(なるほどこれじゃ狼がロックオンするのも頷けるわ!)
アリシアは失礼にもそんな事を思ったが、一直線に突進し、
「とりゃああああッ」
高い跳躍に全体重を乗せ、更には空中で加速さえして狼へと飛び蹴りをお見舞いした。
足型の青痣間違いなしのドゴォッと鳴った攻撃音。
狼は見事に吹っ飛ばされ、アリシアは反動を利用してくるりと回り子ザルのように身軽に地面に着地した。
尋常でない不意討ちに恐れをなした負け狼はキャインキャイィーンと尻尾を巻いて逃げていった。
「君! 大丈夫!?」
柔らかな木漏れ日が降り注ぐ森の中、アリシアは急いで少年を覗き込んだ。
陽に透ける新緑のような鮮やかな緑瞳に案じる色を乗せて。
(歳はあたしの少し上かな?)
綺麗な銀髪を土と葉っぱでぼさぼさにした太っちょの少年は、呆然自失の体でアリシアの顔を見つめている。
狼にやられたのかぷにぷにの頬やぷよぷよの両腕には、痛々しい引っ掻き傷が幾つもあって血が滲んでいた。
意識はあるように見えるのに反応がなくて心配は大きくなる。
「ねえっホントに大丈夫?」
肩を揺するとようやくハッと我に返った少年は、逆光になっていて眩しかったのか両目を細めて頷いた。
(うわー、肩なのに練ったパン生地みたいな弾力だった……!)
人間に感じたのには初めての感触に内心ちょっと感動すらして安堵するアリシアが手を差し出すと、彼は素直にその小さな手を取った。
山高帽子はキックの直前で脱げてしまった。露見しているアリシアの燃えるように真っ赤な髪は頭の天辺から木漏れ日を浴びて輝きを散らしている。
「すごく、きれいだ……」
何とか苦労して引っ張り起こしてやれば、惚けたように彼女を凝視していた少年が無意識なのか微かな呟きを漏らした。
「ん? 何か言った?」
「えっううん、何でもないよっ」
アリシアは不思議に思って同じようにじっと見つめ返し、少年は赤トマトになってしどろもどろに首を振る。
「そう? って早く手当てしないとだよね」
慌てたアリシアが取り出した綺麗なハンカチを少年の腕に巻き付けていると、
「ありが、とう」
彼は痛みに顔をしかめながらもゆっくりとお礼の言葉を口にした。
ハンカチが血に汚れるのを見て申し訳なさそうにもしていた。
(野生の狼だし変な病気にかかったりしないように消毒するためにも早く家に連れて行かないと。でもここって結構家から離れた場所だし、とろとろ歩いてたんじゃ時間がかかるかも。……重そうだし)
少し思案し「よし」とアリシアは何かの覚悟を決めて一人頷いた。