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九州大学文藝部・2021年度・追い出し号

休息を。

作者: 椎茸

 休みたい、休みたかった。それはもう本当に、切実な欲求として自分の中に留まり続けている。重たい荷物をもって毎日行き帰りするのにも、ひとに不機嫌を悟らせないように笑うのにも、うちに帰ってからも努力し続けなければならないのにももう疲れた。いっそのこと自我を放り出して、全て諦めてしまえばいい…時々そう思うこともあったが、実行するにはあまりに困難すぎた。心に体がついていかず、いつもの日常を守るために淡々と雑務をこなしてしまう。けれどときおり、さっきのような休みたいという衝動が渦巻いて離れなくなるのだ。しかし、そんなことは大したことでは…ない。機能を果たすこの状況には満足しているのだから。


 いつものように頭をからっぽにして帰宅路を歩いていたら、突如として声をかけられた。すきとおるような、優しい女性の声だった。全体から見るにあたたかな性格をもっているようだった。そのイメージ通りに、彼女は自分に語りかけた。最近よく眠れていますか、食事はとれていますか、そして、幸せですか…。

 わかっていた、これが悪徳な勧誘の手口だということは。しかし頭がからっぽの自分はそれをはねのける勇気などなく、ただロボットのように適切らしい答えを返していた。ああ大丈夫ですよ、問題ありません、幸せですとも…。

 優しそうな彼女はそれを聞くと、こちらを安心させるようなほほえみを浮かべた。手を温かく包み込まれ、そしてその中には梱包された錠剤がすべりこんできた。彼女は何やら言い残すと、この場を後にしてしまう。見送った後、事態のあまりの非日常さに笑い出したくなるのを必死にこらえた。それでも体は日常を維持しようと勝手に動き始める。しかし先ほどまで空っぽだった頭はもう無くなっていた。彼女の言葉を反芻する。これを飲めば病気になれますよ、という言葉が妙に気になって、何度もポケットの中の錠剤に触れた。


 結論から言うと、自分はそれを飲んだ。手渡してくれた錠剤3つのうちまずは1つだけを。もしかすると全部を一度に摂取しなければならないのかもしれないが、そこまで強く日常が変わることを許容する勇気はまだ無かった。

 効果ははたして、本当に病気になれたのだった。気分が悪く、頭が痛いという感覚を久しく忘れていたが、なんとか耐えられた。念のため病院に行くと、ちょうど今流行っている病気であるらしい。これはどういうしくみなのだろうか。病んでいるときは考える気力も起こらなかったが、ほどなくしてつらい時期が去ると穏やかな気分でそのことについて考えた。ほどよい効用を持った薬だ、とも思った。そして同時に、自分が切望していた休みを今、味わえていることに気づいたのだった。


 それから先は、なかなか薬を使わなかった。実は今でも使っていない。逆説的だが、いつでも体を停止できるという余裕がある種の楽観を生み出している。もったいない、という強欲もなかったわけではない。いつも帰宅路で彼女を期待する楽しみも増えた。そして願わくは、この薬をもっと広めてほしいとも思うのだ。…遠い未来には、健康な人間もきちんと病める環境を。




 なーんていうのは、ファンタジーの世界だからこそ許されるのです。良い子のみんなは決してこんなお誘いに乗ってはいけませんよ。

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