【aphorism Ⅹ】
賽は投げられた。
――――ガイウス・ユリウス・カエサル
龍の空域は見た事もない自然の原風景が広がっていた。獣もいるらしいが龍を警戒して小動物しかいないらしい。大型の獣は同盟領や帝国領に逃げたのだという。
ヴィンの提案通りにエンツァー・シャーリという龍に会って私の事を他の一族に知らせてもらった。エンツァー・シャーリは碧がかった白い鱗を持ち薄い緑の鬣の綺麗な龍だった。瞳は紫色で感応も落ち着いた雰囲気を持ったものだった。
礼を言ってシャーリの元を離れるとシュラは龍の空域でよく居つくところへ私を連れて行ってくれた。
森林地帯ではあるが開けた場所がありそこには巨大な湖があった。汚れなき透き通った水は湖底まで見通すほどだった。
『シュラはここへよく来る。そうしてじっと、ただじっと水面を眺めるのだ』
『面白い……から?』
『水面は風によってさざめく。風亡き水面は明鏡の如く湖面に映る全てを現す。止水は澄み切ってはいるが変化を齎さない。それは時忘れと変わらぬ。変化なき時間など無に等しい。それは存在がないという事と何が違うのだ? 存在しているからこそ時が流れる――――揺れる水面は存在する意味をシュラに問いかけているのだ。何故生を受けたかを。果たして水面を揺らすのがシュラであるのか、それとも揺れる水面をただ眺めて流されているのか、誰のさざめきを水面は映すのかを考えさせてくれるのだ』
『龍は考える生き物である、ってことね』
『だが答えはない。故に死するその瞬間まで考え生きるのだ』
シュラは隣に座る私を見た。
『帝国で何を学んだ? 糧になるような事はあったか?』
私は瞼を閉じて回想する。長いようで短かった帝国の滞在の日々を。中でもルシキンとアーニャの関係が多くを占める。家族の在り方というものが私の中で沈殿している。それにルシキンの事で開かれた帝政議会でのアーニャや一目見た皇帝バダツォフの言葉が人の世の移ろういびつさを痛感させてくれる。腑抜けた議員には皇帝の言葉は鋭く身を引き裂いたに違いないしアーニャの意見には腸を煮え繰り返される思いもしただろう。
――――それは何故か。
皇帝もアーニャも役割というものが分かっている。バタツォフは帝国の体現者として皇帝という役割を全うしなければならない。ではければ帝国は支柱を失ってしまい滅びにつながる。それは帝国に住む国民の安全を失わせる事にほかならない。
アーニャは皇帝の血を受け継がせる子を成しその子を守る為、引いては帝国を守る為に護国大臣にまでなったのだ。見えざる敵、もしかしたらいつか訪れる脅威に備える為に常に気を張っていなければならない役目をよく分かっているが故にずるずると特権に甘んじている議員共とは対立をせざるを得ない。議員は議員で自らの地位を維持する為に躍起になり腰が重くなっている。帝国の為の帝国民の代表であった彼らはいつのまにか帝国の成功者としての側面に取り憑かれ内部から腐り始めている。
同じ帝国に生きていながら皇帝やアーニャと議員たちには温度差がある。人はそれぞれ違うといえども国に忠を尽くす思いは同じであるはずがこうもずれが生じている。
――――それこそが歪さだ。
人間の歪みだ。歳を経て腰が重くなった者は今という状況にしがみ付く。自分さえよければ、他者などどうでもよくなるのだ。何故自分が苦労して庶民を助けてやらねばならんのだと、代表者はいつのまにか圧制者に身を落としている。国民から富を吸い上げ身内のみで分配しさらに税を課す。
人間はなんと歪んだ生き物だろうか。異邦人であった私は帝国民の苦しみを想像するしかないがこのまま帝国が名ばかりの代表者に委ねるのならば皇帝も皇后も妃たちもただのお飾りとなり帝国民はじりじりと衰退させられていくか、現状に反旗を翻され叛乱が起こるだろう。それはテルル大陸の国家群で見てきた人の歴史が証明している。
――――人は違う。それぞれがそれぞれの思いを持って生きている。良い人もいれば悪人もいる。
私にとってはアーニャは良い人だ。ムイアーンゼ卿も良い人だった。だから彼らと対立する議員は気に障る存在だ。けれどそれを力づくで排除するのはまた違うのだ。そうなれば結局強き者が勝者であり人もまた獣に過ぎないのだという事だ。獣が国を作りあらゆるものを組織化して統治する。全く笑い話にもなりはしない。どうすればいい結果を導けるか、それは私が関知する事じゃないし、元より答えなどないのだ。ただ言えるのは自らを守るのは自らであり声を上げず、力を持たず、動きもしない者は弱者であろうと滅びるべくして滅びるのだという事。例え指先しか動かせない者であっても今より良くしたいという意思さえあるのなら立派なのだ。滅びには値しない。しかし意志を放棄し他者に委ねておきながら事が起こってから文句を言い募るものなど滅びても文句は言えないのだ。
私はナガルサガク大陸、テルル大陸、そしてこの后土大陸で人間というモノをそう学んだ。
私の独白をシュラは目を瞑って聞いてくれていた。果たしてシュラにとって、龍にとって私の話は未だ人間の領域を出ない物なのか、あるいは龍の尺度にほんの少しでも触れているのか。
話終えて反応を窺うがシュラは押し黙ったままだった。感想が欲しいわけではなかったけれど沈黙で返されるのは少しむっとする。何か一言相槌でもいいから言葉を返して欲しいと思っていると、
『人の世は難儀なものだな。ツェーニャ。シュラはつくづくそう思う。それでもツェーニャは人の現身にて生きている。このまま人の世に戻る事を選ぶ事はできるが――――今はどう思っている?』
私の独白を聞いた後で返されたのは龍の一族と生きるか人として生きるのかの選択。彼なりの恩情なのかもしれない。
けれど私はもう人の輪より弾き出た存在だ。輪の中に元通り戻る事などできはしないしその気はない。
『私の意志は龍の一族であることを肯定しているのよシュラ。何より私は貴方の家隷なの。心も体も貴方に捧げられた。だから貴方と生きる事に何の不都合もありはしないわ』
『そうか。ならばシュラが言うべきことは一つだ。生きる意味を己自身に問い続けながら生きよ。それがツェーニャに与えられた命題だ』
『貴方にとって私を助けた事が命題であるように?』
『然り』
『なら考え続けるわ。私という存在が終わるまで』
そうして再び沈黙がこの場を覆った。けれで今度はなんだか黙っていても温かいような、居心地のいい静けさを纏っている。言葉を交わしただけで心の持ちようがここまで変わるとなると私もなかなかに現金だと内心思う。
シュラに認められている、それは私を思っているという事だ。ここにいていいのだと免罪符をくれるのだ。
ふと思う。いつか。そういつか。龍の花嫁になる日が来るのかと。人の現身であろうといつかそうなる日が来るだろうかと。そうなれたらきっと私は――嬉しい。嬉しいと思うだろう。それはたぶん良い事なのだ。
『……焦る必要はない。龍の時間は人より長い』
私の心を読んだシュラが優しい声音で言った。思わず心を読まれて私の体温は上がり頬が紅潮していくのが分かった。
「見たのね。心を」
『面白いなツェーニャの心は。見ていて飽きぬが、思い詰める必要はないとシュラは考える。だから焦る必要はないのだ』
「ということはまだ私は人間の物差しってわけか。ちぇ」
口に出して拗ねてみる。全く龍というのは大きいと痛感させられる。
――――――――と。
オオオオオオオオオオオオ。
――――身を劈く悪寒が。
オオオオオオオオオオオオ。
――――肉体を突き刺す嫌悪が。
オオオオオオオオオオオオ。
――――神経を逆撫でする悪意が。
オオオオオオオオオオオオ。
――――その全てに魂が真っ向から叛逆する。
これは世界の悲鳴だ。私たちはそれを体感しているのに過ぎない。世界そのものを飲み込まんとしているそれは言うまでもなかった。
直後に強烈な感応が私の心を染め上げた。
エンツァー・シャーリの強力無比な感応だった。
『人間の生存圏に蟲の大群が現れた。奴らは地の中を掘り進み地上へと侵攻を始めたようだ。龍の目を掻い潜る為に地下に潜っていたと見える。――――全ての龍の一族よ。己が魂の叫びに従え。それが我らの取る行動である』
魂の叫び。それは。
それは蟲を北の彼方へと追いやる事だ。この地は蟲に染め上げられる為の大地ではない。北の彼方の蟲の生息圏で大人しくしていればいい。
『シュラは行く。この衝動は止められぬ。これが龍の本能であるゆえに。ツェーニャはどうする?』
答えなど決まっていた。
『連れて行って。私の魂が叫ぶのよ。奴らを追い返せって。これもきっと止められない衝動なのでしょうね』
『命を懸ける事になる。分かっているな?』
『当然ね。あなたとならあの世だって一緒に行ったげるわ』
『では最後に問おう。共に行くとツェーニャは言う。シュラの背に乗せる事になろうが、蟲共の出方次第では背に乗る事は厳しい事になる。そうなればツェーニャには今一度シュラに喰われてもらうぞ。それでも良いか?』
『それはそのシュラの胃の中にいろってこと?』
『胃ではないな。火吹きの際の別の器官に落とす事になる。出る時は噴気孔から出してやる。しかしだ』
――そうか。シュラの言いたいことが分かった。今一度シュラに喰われるという事は。私の龍化が劇的に進むという事だ。今でこそ人間の容姿で居られるが次は人間でも龍でもない中途半端な姿になってしまうという事だ。龍の細胞に浸食された人間の細胞は生物の差を見せつけらえるように塗りつぶされていくのだろう。それに私が耐えられるか、とシュラは問うているのだ。私の答えをシュラは待っている。私の答え。それはもうとっくの昔に決まっている。
『どうなっても構わないわ。既に私の魂は龍の一族と同じ場所にある。姿が人から離れても私は私よ』
『ならばシュラに言うべきことは何もない。さあ乗れ。ここは命溢れる大地だ。蟲共に塗りつぶされるわけにはいかぬ。行くぞ』
シュラの背に乗り銀の鬣に掴まる。いざという時は喰われる覚悟はある。
空へ舞いあがる中、人としての魂が私に呟く。
――――平和なんてある日突然終わるものなのよ、と。
◆
同盟領西区域西部上空。
シュラの背から俯瞰する地上の光景は私の目には異様に見えた。森林や草原ならば空から見れば緑系統の色が広がっているのは想像に難くないし砂漠や荒野なら茶系統の色だろう。しかし地上は黒いものが蠢いている。風で草木が揺れるのとは訳が違う。もぞもぞと、ひしめいて、翅虫特有の羽音を響かせながら。
――――おぞましい。
アレをここにのさばらせておくわけにはいかない。アレは――災害だ。大地を腐敗させ、そこに住む生き物を喰いつくし、後には蟲の死骸と糞のみが堆積するだけの地上がある。
だから取り返さないといけない。
だから押し返さなければならない。
だから燃やし尽くさなければならない。
それができるのは、いや……やるのは蟲と対峙し続けてきた龍の一族だ。浮遊大地を掛けての生存競争に勝ち続けてきたのは龍の一族だ。蟲との戦いで莫大な犠牲という名の通貨を払い続けてきたのは他でもない龍の一族だ。
『シュラ。アレは駄目ね。ここにいてはいけないものよ。だから燃やそう。燃やし尽くして追い返す』
それが私の心に自然に浮かんだ気持ちだった。
『無論だ。浮遊大地は多くの生き物を育むが蟲共はそれを認めない。奴らは奴らだけで完結している。共食いで腹を満たし雌雄構わず交配を繰り返し無尽蔵に増えていく。そこには他のものが入り込む余地はない。他種族を必要としない。それでできている奴らと我らでは相容れぬ。――――故に!』
シュラの口から火の粉が舞う。
『燃やし尽くし消し炭にしてくれようぞ!』
天から灼熱の猛火が降り注ぐ。
シュラの噴気孔を避けて鬣にしがみ付く。焦げたような臭いを纏った気体が噴出する。
シュラを含む多くの龍から吐き出された火炎は地上を真っ赤に染め上げた。蠢く黒は揺らめく黄、橙、赤と色を変え大火災となる。それでも地下を通って地上へ湧き出る蟲は燃えながら前進していく。火を纏いながら動くそれは周りへ延焼を起こしながらも着実に進みゆく。先頭が燃え尽きても後から後から湧いてくる蟲が前進を続ける。炎の進軍とでも言おうか、ここまでの圧倒的生息数を誇る蟲ならでの数的有利が作り出す押し潰しこそが蟲の神髄。数千億の蟲が殲滅されてもさらに数千兆の蟲が北の空域からやってくるだろう。
数こそが脅威。翅を持った甲殻虫共が燃えたまま空へ舞いあがる。甲高い翅音が耳障りだ。
『高度を上げる。掴まっていろ』
シュラはさらに高く飛び上がる。他の龍の同様の行動を取った。蟲共が到達できる高度よりさらに上から火を吐く。燃え滓となり落ちていく蟲の数が多すぎてまるで黒い霧だ。
――――しかし多すぎる。
私が普段の蟲と龍の争いを知らなさすぎるからかもしれないが、それでも多いと感じるのだ。
「……これ、いつもこれくらいの蟲が襲ってきてるの?」
声には恐怖が混じっていただろう。龍も決して少なくない生息数を誇るがそれでも蟲の数には負けるだろう。体躯の差もあろうがしかし蟲は常軌を逸して多かった。
『――――いや。蟲共とて全滅は避ける。だがこれは異様な数だ。蟲共め、捨て身で大地を奪いに来たようだ』
「もしかしてここと同じくらいの数が他の所でも現れてるってことかしら?」
『可能性は高いであろうな。地下はおそらく繋がっているのだろう。ここの穴は我ら龍に防がれたとみて別の穴を目指したのかもしれぬ』
「行こうシュラ。蟲はこの大地にいてはいけない」
『ああ行こう。だがここは何頭かの龍の一族には残っていてもらう。僅かな隙も奴らは見逃さぬ。龍がいなくなったと見るやすぐさま湧き出てこようぞ』
シュラと龍たちの感応に私が入り込める隙はなくシュラは目的地を帝国領中央地へと向けた。他の龍も共に翼を翻した。
地上は蟲が列を為し満遍なく広がっていく。
どれだけの数が送り込まれているのか想像もつかない。龍による殲滅が追いつけばいいけれど。私の心は不安がこびり付いていた。
◆
帝国領の領空に入る頃には遠くから響く艦砲射撃音が耳に届いていた。帝国は飛翔浮艦を一早く出撃させていたらしい。アーニャかヴォロロゴフか、どちらかが帝国艦隊に命を下したのだろう。護国省の動きは迅速だったらしい。
今頃人類京周辺にも配備されているのだろう。しかし激しい艦砲射撃にも関わらず蟲の縦深進撃は止まらない。後続が間断なく増加される。艦隊の砲弾も無限ではないし既に押されつつある状況では分が悪いのは帝国の方だ。
『――――考えたな。人間』
不意にシュラから感応が届く。シュラの見ている方へ視線を動かすと蟲の進軍の先に何か箱のようなものが高く積み上げられている。妨害壁のつもりだろうか。広範囲に設置してあるが。
「何かしら? 砲撃も上手くあそこへ蟲を誘導しているようだし」
『臭うな。おそらくは爆薬の類だろう。あの量だ。一旦は進軍を止められるかもしれないが――――』
シュラは蟲が這い出てくる穴へ首を向けた。蟲という蟲が湧きだしている。
『止まるのは一瞬だろう。再び侵攻するのも時間の問題だな』
そう語る間にも蟲は箱を乗り越えていく。広範囲に設置された箱が見えなくなるほど蟲が通っていく。そこへ一斉に砲弾が撃ち込まれた。
それは一瞬の出来事だった。地上より爆風と熱波が強烈に襲ってくる。先ほどの龍の火吹きを越える焼尽の様相を見せていた。爆炎と火煙が広がり龍といえども近寄るのは困難なほどの威力だった。
『蟲は進行方向を変えるようだ』
超高高度へ避難したシュラは蟲の穴を眺めながら呟く。
「待って。艦隊も移動を始めたわ」
爆破の範囲から逃れようとする蟲の群れの上を悠々と航行する艦隊からばらばらと何かが落とされていく。それは着弾と共に箱の爆薬には劣るもののそれでも驚異的な爆発を見せた。あれは焼夷弾での爆撃だ。
『……蟲共にとっては空襲だな。効果的ではあるが数が追い付くとは思えぬな』
『蟲の方が上回る?』
『間違いなく。この爆撃を間断なく行えるのならば話は変わるだろうが爆薬も焼夷弾も人間にとっては備蓄してあるものを消費するしかない。製造も行うだろうが製造と消費が間に合わなくなった時が人間の敗北となる』
シュラの声は冷めている。事実だったからだ。あれほどの爆破、爆撃、空襲を見せた帝国艦隊が徐々に撤退し始めている。蟲はまだまだ湧いてくる。
人間の敗北とはすなわち絶滅に他ならない。
『この災害級の脅威であっても人間は手を取り合わない。自らの野心を、思惑を、欲望を優先させている。滅びた後の算段をするのは人間くらいだ。命を大事にする生き物ならば逃走する同胞の邪魔立てはせん。しかし人間は違う。逃走も敵対も利益に敵わぬと判断すればこの有様だ。帝国も同盟もテルルの国々もこの期に及んで協力をしようとしない。何故か? それは既に事が終わった際の皮算用をしているからに他ならない』
淡々と語るシュラの言葉は耳が痛い。人間の敵は人間という事を体現している状況に私が何をいえようか。無論人間の味方をするつもりなど一切ないけれど。元人間としては忸怩たる思いもある。人間とはこれほど愚かな生き物であったか、と。
しかし、だ。
『――――でも。人間では敵わなくても龍ならば敵う。そうでしょ? シュラ』
『無論だ』
驕りも傲慢もない。誇りと信念のみを言葉にしただけの返事。未だかつてこんな頼もしいと感じた事はない。
一個の生き物としてシュラと私の間には圧倒的な隔たりがある。純粋な龍種と元人間の半龍未満の女では格が違う。人間の女はある意味特殊だが多くの生物の雌は強い雄を求める。私はこの世でたった一人しかいない種の生物だ。人間でもなく龍にもなれない半端者だ。それでもシュラに惹かれてしまうのは一個の雌として彼に惹かれているせいだろうか。こんな命が掛かる状況でそんな事を思うなんて――――どうかしてる。どうかしているけれど、だからこそ。シュラと共に生きたいと心の底から思うのだ。
シュラは龍たちに感応を飛ばした。
『人間の悪足掻きはここまでらしい。行こう龍の一族よ。この大地は蟲どもの楽園ではない!』
一斉に龍たちが降下する。狙いは蟲の穴だ。
未だ爆撃の威力が残る中、這い出てくる蟲は構うことなく飛び出していく。火が移り燃えても構いやしない。
地上に残るのは蟲の死骸と糞だけという異様な光景。
帝国が武力に物を言わせても終わりがない。
龍たちの火炎は穴を正確に捉えて燃やし尽くす。
ここだけじゃない。帝国の別の場所や同盟領でも多くの龍が蟲の作った穴を燃やしている。地下の穴は空洞を利用した物だろうが龍の炎は地下空間を超高温度へ上げて中で蠢く蟲を熱死させている。
「まだまだいるのよね?」
『まだ序の口にすぎん。翅虫たちが徒党を組んでやってくるのが本番だ。シュラも死を覚悟せねばならん。覚えているか? 同盟領で蟲の卵を植え付けられた天鯨を』
「……覚えてる。蟲に寄生されて死んでたんだ。あれが翅虫の仕業だっていうの?」
『そうだ。皮膚に卵を産み付け寄生し養分を吸い上げて殺し尽くす。奴らは奴らだけで完結していると言ったな? あれは弱肉強食として殺したのではない。ただそこに天鯨がいたから殺したに過ぎないのだ』
「それはつまり、邪魔だったから、殺した、と?』
『ツェーニャに分かりやすく言うのならば、あれはそう、しいて言えば蟲共の娯楽だろうな』
『…………娯楽』
『殺せるから殺した。ただそれだけの事。それを悪とは言わぬが我らの敵ではある』
『そう聞くと本当に蟲は蟲だけで完結してるのね。他の種を必要としない」
『その通りだ。奴らは奴らだけで世界を構築できる種族だ。重ねて言うが悪ではないのだ。悪ではないが、既に時代は変わったのだ。今生きているものを摂理に反して族滅させるなど認められぬ。少なくとも我ら龍の一族はな。故に多大な犠牲を払ってでも対抗するのだ。生きる為にな』
――――生きる為に。
そう。出来る事はやらなくてはならない。出し惜しみなどしていられない。
――――そこへ。
『――――エンツァー・シャーリである。翅虫共が帝国領帝都、同盟領同盟主都付近に出現した。人類種の要の都市を落とすつもりらしい。おそらくどちらかに女王蟲がいるはずだ。全ての龍は近い方へ向かいこれを殲滅する。女王蟲が消滅すれば侵攻は止まる。昔も今もそれだけが蟲の規律だ。守りは厚いだろうが死力を尽くすのだ。我らは我らの世界を護る為に動いているのだから』
強力な感応がシャーリから届いた。蟲の本隊とでもいうべき翅虫が帝都と同盟主都へ現れた。そして私たちは帝都の方が近い。
「人類京、か」
『感傷か?』
「いいえ。こんなに早く人類京へ戻る事になるとは思わなかったから。それも今度は人としてではなく龍の一族として。次は私もアーニャの敵というわけね」
『憎く思う必要はない。相容れぬとあっても共存が不可能という事はないだろう』
「そう、ね」
『だが人間が生存競争を仕掛けてくるのならば族滅もある。それは忘れてはならない』
シュラの言葉は私の心に沁みるように入ってくる。私だって生存競争を放棄するつもりはない。けれど共存を諦める気だってない。まずはこの理不尽な蟲の侵攻を終わらせる。エンツァー・シャーリは女王蟲を殲滅すれば侵攻は止まると言った。人間にできなくとも龍の一族ならばできる。
「ねえシュラ。私はどちらかが滅びるまで争うのを否定はしないわ。生存競争を放棄するほど生きる事を辞める気はないもの。でももちろん共存を諦めるつもりもないわ。けれどそれって私やアーニャ達人間や当然龍の一族が存在する世界があってこそだと思うのよ。だったらそんな世界を塗りつぶす蟲は生存競争を仕掛けてきてる訳よね。それは私に対する挑戦だと受け取るわ。だからエンツァー・シャーリが言った女王蟲を殲滅する。龍の一族ならそれができる。そうよね?」
『当然だ。ツェーニャの思いは我らの思いと同じだ』
「ありがとうシュラ」
『では行こうか。帝都へ』
「ええ」
何千という龍が帝都へ、同盟主都へ向かっている。その中に私とシュラがいるという事実。この瞬間は間違いなく存在している。今を生きる為に私たちはできる事をするのみだ。
シュラの飛行は飛翔浮艦を遥かに超える。龍の飛行速度に私はしがみつくので精いっぱいだ。けれど日が陰る前に辿り着く必要がある。闇夜に乗じて蟲は全てを喰らいつくすだろうから。
◆
徐々に太陽が昇りつつある中、龍たちは人類京へ飛来した。私の視界には人類京の防衛機構から迎撃誘導弾が打ち上げられている光景が広がり、帝国艦隊の帝都防衛隊から翅虫の大群へ焼夷弾が撃ち込まれている。
――――空が燃えている。
私にはそう思えた。火煙が漂い爆発が翅虫を地上へと墜落させているが飛翔浮艦も何隻か撃墜されていた。
帝都へ侵攻している蟲の迎撃も大事ではあるが、現れている穴の方を止めなければ無限にも思える蟲は止まらない。アーニャの指示は迅速だったかもしれないが根元を断つように命令しなかったのが唯一の過ちだろう。見事な手際な迎撃でも相手が悪かった。
「シュラ。ここに女王蟲はいる?」
『何とも言えぬな。だが気配はある。未だ穴の中に立て籠もっているようだな』
「兵隊虫が人類京を制覇するまで安全圏にいるつもりってわけね」
『そうとも言える。女王を囲う護衛虫がまだ出てきていないのを見るに蟲の本隊を温存しているようだな』
「でも穴の中にいるのなら燃やし尽くして根絶やしになっても文句は言えないわよね」
穴の中で籠城を決め込むなら熱死に追い込むまでだ。
――――と。
オオオオオオオオオオオオ。
――――あの時感じた悪寒が。
『――――そうでもないようだ。出てくるぞ。女王が』
酷く冷たいシュラの声。
全身に広がる怖気が警鐘を鳴らす。
爆炎の惨禍の中。
龍の体躯には劣るものの人間より巨躯の体から青紫に透き通る四対の翅が浮遊を成している。全体的に青黒い外殻に覆われている鷲のような印象を受ける。強靭そうな節足が六足あり頭部から長い触角が伸びている。頭部を覆う外殻の割れ間から四つの紅い複眼が発光するように覗いている。背中からは翅とは別に八対の触手が生えている。先端は鋭く尖っており捕食する際に使用されるものと思われる。
一目で分かった。あれが女王だ。その周りの護衛虫も女王よりは体躯が小さいものの女王と同種族であるように見える姿をしている。蟲の本隊だと確信する。
「――――ッ!」
息を飲む。あれは駄目だ。人間には敵わない。そして私はあれが怖い。心の底から怖い。
『恐れるか? ツェーニャ』
「ええ怖いわ。あれは駄目よ。自分たちの秩序しか認めないってのがよく分かるわ」
それでも退くという選択はあり得ない。
『では立ち向かうのだな?』
「当然よ」
『そうか。では今一度シュラに喰われてもらうぞ』
「――――ッ!」
やはり来たか。覚悟はできている。私はどうなっても私のままだ。
『ツェーニャ。このまま背に乗せたまま女王と護衛虫を相手にすることは難しい』
『ええ。でしょうね』
『だが一族の末席に名を連ねるツェーニャを置き去りにもできぬ。何しろ立ち向かうと決めた同族だ。であるならば今一度シュラと同化してもらうしかない。覚悟はいいな?』
一度喰われた際に感応器官が混じり今の私になったのだ。再びシュラに喰われればさらに同化が進行し人間からはますます遠ざかる訳だ。分かっていた事ではあったのだ。けれど心の何処かでそうはならないようにと思っていたのも事実だ。だが、もうどうしようもない。どうしようもないほど私の魂が叫ぶのだ。
蟲に背を向ける事はできない。龍の誇りか、人間としての意地か、それともグリツェンニーア・シュラヴィッテ・ファミユヴェデナ・ツィフィとしての矜持だろうか。
どれでもいい。何でも構わない。私が私として蟲の挑戦を戦わずして敗北を認める事ができない事実がここにあるだけだ。だから行くんだ。故に私が答える言葉は決まっている。
「シュラ。私を貴方の血肉として蟲と戦わせてほしい」
『そう答えると思っていた。では行くぞ』
シュラは体を反転させて私を背から落とした。私はただ目を閉じてその時を待つ。落下する間は数秒の間だっただろうか。すぐに、本当にすぐに私の体が生暖かい粘膜に触れた。シュラに飲み込まれたようだ。私はシュラの体内の胃とは異なる器官へ落とされたらしい。火吹きを起こす場所と言っていただろうか。焦げ臭さがある。シュラの中で粘膜に覆われた私はシュラが見ている光景と音、痛みが伝わっていた。
多くの一族たちと護衛虫が空中で戦っていた。
蟲を燃やし、触手に貫かれ、血を流し、消し炭にし、翼を切断され、翅を爪で引き裂き、地上へ落下する一族と蟲。そこへ艦隊から放たれる焼夷弾も混戦する戦いをさらに混沌めいたものにしていた。
――――必死なのだ。龍も蟲も人間も。そして私も。
これが生存競争なのだ。生き残る為に出し惜しみも妥協もない。
不意に蟲たちは高度を上げた。艦隊が届かない高度へと。人間の攻撃に嫌気が差したか、それとも届かない位置を学習したか。けれど龍は追える。逃しはしない。シュラは女王をずっと見ている。護衛虫を一匹、また一匹と引き剥がし――外殻もろとも噛み砕くか、翅を燃やし尽くすか――その瞬間を待っている。無論の他の一族も狙っているのは承知している。
シュラの感覚から人類京の現状を把握する。第一城壁を突破した蟲が侵入を始めている。帝都内にはまだ届いていないが陥落まで僅かという状況。
――――と。
『――――――――いかん! 退けぇッ!』
それは誰の感応だったか。しかし感応が聞こえる前にシュラは遠くへ退避を始めていた。
――見えていた。
帝国艦隊の一隻の主砲から青白く発光する砲撃が放たれていたのを。
本能かあるいは直感か。私にもわかった。あれは――――崩爆だ。生物どころか大地をも殺し尽くす究極破壊兵器。
被爆したものは沈むのだ。それは人間であっても。後遺症は一生残る。生まれた子は立てないと聞く。大地は崩落し大地に生きるものと共に世界を壊すのだ。
アーニャはあれを使ってしまった。人間の最終兵器である崩爆を。これが人間の本気か。人間の答えか。世界を壊してでも蟲を殲滅するという狂気を感じた。
退避に徹した龍達は超音速といえるほどの速さで崩爆の範囲から逃れる。
数秒にしか満たない間、気づけたもの、気づけなかったもの、間に合ったもの、間に合わなかったもので結果は違った。
蟲が、龍が、ほんの数舜前、空にいた生き物が恐るべき熱量によって蒸発した。
強烈な発光がまるで太陽の如く煌めき、超高度にあって爆煙はさらに昇った。
まるで茸だ。茸雲だ。
崩爆の沈下効果の範囲に含まれていたあらゆるものが墜落していく。超高度であった蟲が翅を必死に動かしているのに飛べないのだ。墜落していく。
蟲の軍勢が、龍の大群が、巻き込まれた艦隊が、為す術なく地上に叩きつけられた。あれほど猛威を振るった蟲が止まっている。地上で節足をばたばたと動かすのがやっとのようで、いくばくかもしない内に絶命するのは目に見えていた。
地上には護衛虫と共に巨大な女王蟲も蹲っていた。びくびくと触手が動いているが徐々に動きが悪くなる。死ぬのは時間の問題だ。女王の死は蟲共にすぐさま伝達されるだろう。それは蟲の進軍が終わった事を意味する。
――――ここに。
たった一発の禁忌の兵器によって蟲の侵攻は食い止められた。崩爆の沈下効果に巻き込まれなくとも爆風と熱によって外殻がどろどろに融けた蟲、鱗が燃え尽きた龍、回避に送れた飛翔浮艦数十隻の残骸が地上に残されていた。




