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だが、そのとき天の助けとも言うべき声が、凍りついた私の後ろから投げかけられた。
「あっ、いたいた、お嬢ちゃん。だめだよ、試着のまんま外に出ちゃ」
人垣をかきわけて寄ってきたのは、どこかのブティックの店員らしき男性だった。クリスマス商戦にふさわしく、ぼんぼんつきの三角帽子をかぶっている。
彼は私を見ると、満面の営業スマイルで、親しみ深く話しかけてきた。
「お父さまですね? まだお会計がすんでませんので、お店までご足労いただきたいんですけど」
「へ?」
「お子さんはこのコートがお気に召したようですよ。本当によくお似合いでいらっしゃいます」
私は、白いダッフルコートの襟首にぶらさがったままの値札を、まじまじとみつめた。ついで女の子に視線をうつすと、彼女はひきつり笑いをうかべながら目をそらした。
すった財布を持っているはずなのに、レジも通らず外に出るとは……。
しかし、その事実を店員に説明したとしても、すぐに信じてもらえるかどうか。物見高い観客がどんどん集まってくる中で、長々としゃべり続ける自分の様子が、目に見える気がする。
悪くすれば、そのうち警察を呼ばれたりすることも……。
私はぼんぼん帽子の店員に向き直った。そして、彼をうわまわる愛想のよさを見せながら、このように言うほかなかった。
「いやあ、申し訳ない。すぐにお支払いしますんで」
その後、私は女の子をつれたまま店におもむき──財布をダッフルコートのポケットから取り返して──言われるままに支払いをすませた。
子ども服にしてはいい値段だったが、とりあえず財布は戻ったし、事情聴収されるよりはずっとましだ。
それにしても、今日はこの国でいうところの厄日であるにちがいない。さっさと帰宅して、安全な自室でくつろぐことにしよう。
店を出た私は、足早に歩き出すとショッピング街をあとにした。
にぎやかな音楽が遠のき、それとともに、まつわりついていた熱気も薄れて消えていく。入れ替わりに全身を包み込むのは、しんとした冬の冷気と静けさだ。
ひとひらの雲も見えない夜空は、深く澄みわたる藍色。イルミネーションとはくらべようもない、銀の月の美しさ。散りばめられた星々の光も同様だ。
私は振り向きもせず歩いていたが、やがてどうにも我慢できなくなって足を止めた。
「どうしてついてくるんだ!」
私に追いつこうと白い息をはずませていた女の子は、うれしげな表情になって近づいてきた。
「コートのお礼、言おうと思って」
意外と可愛らしい声だ。
「あーもう、いいから向こうに行きなさい。私も忘れることにする」
「おじさん、やさしいねー」
「………」
おっちゃんから格上げされたようだが、お兄さんと言われたわけでもないし、返事をする義務はない。
「ねーねー、おうちどこ? 何年くらい日本に住んでるの? 日本語、上手だねえ」
「………」
「アメリカ人? フランス人? あ、イタリア人かな?」
「イギリス人だ!」
いかん、しゃべってしまった。
「ついてくるなと言うのに。もう一円だって出せないからな。クリスマスにスリなんて恥ずかしいと思わないのか? さっさとうちに帰って、じっくり反省しなさい!」
きびしい口調で命じると、女の子は大きな瞳をいきなりうるませて、いかにも哀れっぽい様子で私を見上げた。
「うちに帰っても誰もいないもん……」
「なんで。もう夜だぞ」
「夜だって朝だって関係ないの。パパはリストラされて以来、飲み屋さんにいりびたって飲んだくれててさ。ママは新しい彼氏に夢中になってるし。お兄ちゃんやお姉ちゃんは家に寄りつきもしないし、そもそもあたしとは血がつながってないのよ。あたしはママの連れ子なんだもん。スリして捕まったって、誰も怒ってなんかくれやしない。だからあたしは、この寒空の下、ひとりぼっちで虚しくさまようしかなくて……。こんな気の毒な子どもっているかしら。あたしだってそれなりにかわいいと思うのに、かまってくれる人もなく……ちょっとおじさん、どこ行くの?」
「いや、急用が……」
「ねえ、いっしょにおうちに行ってもいいでしょ」
人なつこい瞳を向けて、彼女があどけなく私に言った。
「おじさん、結婚してるの?」
「してないけど」
「じゃあ、ちょうどいいじゃない。独り者どうし、楽しくやりましょうよ」
変なのに引っかかってしまった……。どうやらこれは、秘められた真実を教えてあげる必要がありそうだ。
「いいかい、お嬢ちゃん」
相手のペースにのせられないよう、気を引き締め直すと、私は声をあらためた。
「きみが気の毒な身の上なのは、よくわかった。しかし、きみのような可愛らしい子は、私といるべきではない」
「どうして?」
「なぜなら私は」
彼女の耳元に唇を寄せると、私は威厳と美声を十分に発揮しながらささやいた。
「ヴァンパイアだからさ」
さすがに不安そうな顔になって、女の子が呟き返す。
「……ばんぱいあ」
「そう、吸血鬼。処女の生き血をすする者。お嬢ちゃんの血も、一滴残らず吸い取ってしまうよ……」
しばし沈黙が落ちた。
やがて彼女が、胸の前で小さな両手を組み合わせながら熱い声をあげた。
「ステキ……!」
「は?」
「吸血鬼ってあれね? マンガや映画やラノベなんかでおなじみのやつ。あっ、こないだオンライン小説でも読んだわ」
「オン?」
「ヴァンパイアってどんな家に住んでるのかしら? わあ、興味ある。見てみたいなあ、つれていって」
「さよなら」
「待ってよ、あたし本気よ。ヴァンパイアだからって差別したりしないから大丈夫」
「よいお年を」
「待ってったら」
思いもかけない強さで、女の子の両手が私の腕をひっぱった。
歩きかけていた私は、ひきずるわけにもいかずに足を止めた。小さな顔を見下ろすと、つぶらな瞳が何ともさびしげな色をうかべて、私をみつめ返していた。
「クリスマス・イブなんだよ。たった一人で、ごはん食べろって言うの……?」
振り払う気になれなかったのは、何かとても真摯なものを、その瞳に感じとったせいかもしれない。