戦争と平和の【連立方程式】4
大佐は一番近くの村の、ある一軒家に足を運んだ。恐らく自宅と思われる。大きな家ではない。屋内まで侵入したらさすがにバレそうだ。外の、他の住宅の陰で出てくるのを待った。
数分後、大佐は出てきたが、特に手荷物のようなものは持っていなかった。制服のポケットかどこかに隠し持っているのかもしれない。
その時には、僕の中の大佐は既に上司ではなかっただろう。それは、ストーリア人に対する意識と近い感情だったから。
持ち場を離れる。すなわち、戦う意思がない。
すなわち、アルト様のために、他国にアルト様の存在を示す力添えをしないということ。
すなわち、アルト様の子ではないということ。
それ以外に何があるんだろう。
アルト教において、唯一無二はアルト様であり、人間とは違う完全な存在。ゆえにそれを模した偶像もなく、教本上に記された名前でしか僕らはそれを奉れないが、だからこそ、その信心は何よりも強く確かなものだ。実像がなければ奉ることもできないような他国とは違うんだ。僕たちは他の奴らとは違うんだ!
素直に背中を追いかけていては、いずれ気づかれる。当時の僕は、新人という肩書きから抜けたばかりの、手練れの手前の、中途半端な軍人だった。一方で大佐は、その階級とおり、熟練者だった。分が悪い。その人影が薄闇の中で、見えるか見えないかの距離を保ちつつ、この手に持っている銃の引き金をいつ引いてやろうかと、その頃合いを待っていた。
ふいに、視界の中の、指先ほどの大きさで捉えていた大佐の影が一時停止した。そして、腰をかがめるような動きのあと、再度足が進んだ。
何か落ちていたものでも拾ったのかと思ったが、よく見ると影がひとつ増えていた。もしかして、いつも話していた娘か?
娘は親戚に預けたと言っていたが、なるほど、娘を口実に僕たちから離れて、例の研究とやらで何かしでかそうという魂胆か。
そうはさせない。
時刻は二十一時。
もう少し、もう少しと、僕は頃合いを見計らった。あの男の歩幅、木の枝の位置、茂みと足の音。耳を澄ませながら、真新しい銃を構えながら、対象を見据えながら、僕は――――
撃った。
撃った!
当たった!
倒れた!
やったぞ!
僕はあの男に勝ったんだ!
胸が高鳴るという思いは、まさにこの時のような気持ちだったんだろう。僕は気分が高揚していた。いましがた放ったばかりの銃声は、しばらく耳から離れなかった。さあ次は娘のほうだと、歩を進めた。残るは子供一人なんだ。楽勝だと。
二、三歩進んだところで、自分のではない足音が聞こえた気がした。
まだ誰かいるのかと、僕はもう一度木陰に隠れた。
娘の前に姿を現したのは――――誰だ?
分からない。今の銃声で、近くに配置されていた他の隊の誰かが来たのか? いま僕がここにいることを知られてはまずい。立ち去らなければ、と思ったが、あの男が、あの家から持ち出したであろう研究に関する何か、それを回収しなければ。
わざわざこの事態のさなかで取りに行くほどだ。よほど利用価値が期待されるものなんだろう。
後から現れた人影が、娘を連れて立ち去っていくのを確認し、僕はゆっくり、奴の死体に近づいた。恐れることはない。確実に撃った。当たった。死んでいる。これはただの物体だ。怖いものか。
それでも耳を澄ませ、呼吸の音がないことを確認した。そして、ズボンや上着の内ポケットなどを探った。案外すぐに見つかった。非常時用の小物入れから、明らかに支給品ではない、液体の入ったガラス小瓶を見つけた。真っ先に思った。
これはなんだ、と。
今すぐ男の家に戻れば、資料なりなんなりあるだろうが、今そんな時間はない。戻らなければ。大佐も僕もいないとなると、ポーコにしわ寄せが来る。不平不満を述べるのに関しては、彼女は熟練だ。
僕は何食わぬ顔で持ち場へ戻った。幸い、ポーコやレクサス将軍には何も言われなかったので、なんとかやり過ごせたらしい。
しかしその後、一時的に招集が掛かったとき、大佐がいないということで、伝令役の人間が捜索した。翌日の昼頃になって、ようやく大佐の殉職が周知された。
大佐は、持ち場を離れて死んでいた。理由は分からないが、大佐ともあろう人が、ひどい死に様だと、みな口々に言った。
新開発された銃器を主に使っていた別の部隊いわく、威力は申し分ないが、火薬の音はかなり響くので、何度も放てるものではない、と。僕が使用したときは、周りに誰もいなかったので気づかなかったが、言われてみれば確かに、余韻で音が耳に残ってるのではなく、実際に反響が残っていたのかもしれない。あの場は静かだったし、問題はなかったが、実用の際に何か不都合があったのだろう。他人の伝令が聞こえないとか、多分そういうのだ。
それは数日続いたが、決着は着かなかった。新しい兵器を持ち出したこちらが優勢に思われたものの、先にあげた不具合のせいで、連携がうまくとれず、五分五分だったのだ。結局、こちらが仕掛けた戦いを、こちらから撤収する形で、それは終わった。
それが、第二次国境線戦争と呼ばれる紛争のことだった。




