戦争と平和の【連立方程式】6
二つ以上の文字があり、二つ以上の式がある方程式(変数の特定値についてだけ両辺が等しくなる等式)のこと。
「大佐! 待ってください大佐!」
「ヴォルツ、私は待っても敵は待たないぞ」
そう言って、彼は訓練場で一番に飛び出していた。
僕は彼のそういう、無鉄砲とも恐れ知らずとも言える度胸に感心していたのだ。
「大佐、今日も早いですね。娘さんですか?」
「ああ。母親も兄弟もいない家に、ずっと一人で帰りを待たせるのが可哀想でな。悪いな」
「いえ! 事務用品の申請書類は明日までですし、大丈夫ですよ」
「ありがとう。じゃ、お先に」
「お疲れ様です!」
終業時間になると、一番に帰宅の身支度をする。やりかけの仕事は明日出勤したら一番にすると言って。一人っ子の娘が、家で自分の帰りを待っているからと言って。だから早く帰るのだと、みんなそう思っていた。
「薬物研究? 大佐が?」
そう言いふらしたのは、同僚のポーコ。薄赤毛に金色の目は、暗がりでも光っているように感じて、僕は正直苦手だ。
「らしいわよ。管理課の奴らが話してるの聞いたんだけど、今まで申請したことないもので、しかも開発課が使ってる材料と同じなんですって」
「じゃあ何の薬を作ってるんだ?」
「そんなの知らないわよ」
「なんだそりゃ」
「でも、研究のためにわざわざ部下より早く帰ってるのかと思うと、怪しくない?」
「早く帰ってるのは娘さんのためだろ」
「あの人以外にも子供持ってる人はいるじゃない。その人たちは早帰りしてないわよ」
「事情は人それぞれだろ」
いかにも女らしい、噂話や与太話がよほど好物なんだろうが、僕には生憎の趣味だ。よそでやってくれと、その場は別れた。
が、確かに妙だとは思っていた。
仕事は出来る人だ。それが、火薬類とは全く関係のない薬草や、医療用でもないらしい針や脱脂綿を申請していた。恐らく管理課も聞いたであろうことを、僕も大佐に聞いた。
これはなんだ、と。
大佐は言った。現場で使えそうな、ちょっとした作戦を思いついたので、実験してみたい。うまくいけばちゃんと報告する、と。
実験。
それがポーコの言う薬物研究のことなのか、どうなのか。その時点では誰も知るよしがなかっただろう。しかしながら、別の課が申請しているものを、大佐の申請だけ通さないというのも不平等なので、申請は通ったらしい。事後報告でも、その正体を聞かせてくれるという大佐の言葉を、みんなは信じた。
例の噂は、大佐より下位の、主にポーコの周りで流行った。実はすごいものを作っているんじゃないか、とか。小耳に挟んだ開発課が、手柄を横取りされたりでもしたら面目が潰れると憤っているらしい、とか。そもそも本当に作戦用なのか、とか。
実は大佐はアルト様の子ではないのでは、とか。




