少し運がよいはずの男4
三月二十二日 マサト
……アラームタイマーが聞こえる。
その不快な音の発信源である携帯電話を手で探り当て、フラップを開き、いずれかのボタンを押すと、スヌーズ機能で音は一時停止した。
目覚まし用に設定したアラームの完全解除をしようと、待ち受け画面を確認すると、十数件のメールを受信していることが示されていた。
「あの人か……」
昨日から頻繁に届けられる望まないメッセージ。
僕は自らのことを陰気な人間ではないと思っている。しかし、こう早朝から相当数の欲しくもないメールが届けられているのを見ると、憂鬱な気分にもなる。兄貴は一家みんなが幸運であると考えているようだが、そのことにおそらく僕は当てはまっていない。加えて母も至って平均的な運の持ち主のように思う。なので、僕に言わせれば、うちには特殊なレベルで幸運な兄と父がいるというのが正確な表現なのだ。しかし、その比率が二対二では、家系が関係するとも、しないとも断定出来なかった。
電子メールは受け手が受信していることを相手に確認させないから助かる。ケータイの光は無視して居間で朝食を摂ることにした。
陸上競技場にほぼ毎日のように行くことが出来るのは、長期休暇の良いことの一つだと思う。三年生も完全に部から姿を消し、新三年生がいない短距離ブロックでは、新二年生の僕が皆のリーダーとして頑張らなくては、と考えている。よく分からない変な人にメール攻勢をかけられるは、兄貴は適当に生きているはで、他にも悩みは絶えないのだけれど。
食事を終えて、居間でスパイクシューズ底面のピンの緩みがないかを確認していると、「マー君、元気ない?」と母が思案顔で聞いてきた。
僕は何かを思いつめたような表情でもしてしまっていたのだろうか?
「少しね、でも大丈夫。――兄貴はどうするのかなと思ってはいたけれどね」
はにかんで、母の心配になりそうな方は隠し、本心の片割れを伝えた。
「ター君はなんだかんだで、どうにかしてしまう子だから、マー君が気にすることないと思うよ」
母は優しげな笑顔でなんでもないように答えた。
「だけどさ……」
兄貴への考え方は人それぞれなのだろう。
何故か、僕は兄の運というものに漠然とした不安を抱えている。運の使用期限が来てしまうという心配ではなく、強運であること、それ自体が何かもっと違うことを引き起こすキッカケになってしまうのではないか、そんなことを考えている。
だが、僕の漠然とした不安を母に言っても仕方がないことに気がつく。
兄貴だって、弟に細々と過剰に心配されたくもないだろう。母への言葉を飲み込んで、陸上競技場に出かける準備を進める。
「今日は部活よね? 頑張ってらっしゃい」
「ありがとう。行ってきます」
笑顔で送り出してくれた母から、すこしばかり逃げ出すような気分で家を出た。
○月☓日
「よくできた弟さんよね」
先制パンチを打たれ、曖昧に「あぁ」としか答えることが出来なかった。冗談でも少し前に疑いの言葉を向けたことが恥ずかしい。
「マサト君とタカハル君は、生まれてくる順番を間違えたのかしら?」
…………うるさいなあ。あと、一応は兄のタカハル君を先にもってこい。
「穿った考え方をすることしか出来ない誰かさんには、あの少年が狡猾な男に見えていたと、そういうことかしら?」
「そうかもしんないッスねー」
開き直るしかない。とりあえず今は遠い目をしておく。
それと、マサトのことを少年って言うなんて……エミさん、アナタ、本当に何歳ですか?
短い時間の出来事を視ただけだが、マサトの思いを知れてよかったと思える。アイツは俺のことなんて、ふざけた兄だ、くらいにしか考えていないと思い込んでいたフシがある。だから冗談だったとしても、あんな疑惑の言葉を吐いてしまったのだろう。それがなんだ、俺のワケのわからない口調を真面目に考えていたり、身を案じていたりしてくれている。なのに俺はヤツをどこかで、勉強のできる隣人くらいにしか感じていなかったのではないか? それは、少し寂しいことだったと、死んでから気がついた訳だ。なかなか滑稽な兄であったと言わざるを得ない。
エミには確かに、弟が怪しいと言った。しかし、それは、俺がたまに、本当にたまにしてしまう意味のない会話であり、実際に俺が疑っていたのは、別の人物だった。
こちらから何かを言う気配がないことを察したエミが口を開く。
「そういえば、マサト君はマサト君で問題を抱えているようだったけれど?」
その『問題』については、俺が生きていた時の兄弟的経験から推測できる。
「メール魔のような存在がいるようだったな。ヤツは賢くて、顔もいい。つきまとうような存在だって、いるかもしれないな」
アイツはモテるのだ。少しだけ、悔しいことに。少しだけ。いやそれ以上か、まあまあ、なかなかに、モテる。
「確かに、貴方とは、違って、人気がありそうな子よね」
違って、を強調して言われたような気がするが、気にしない。
「ケッ、よく母が、マー君、も、カッコイイって言っていたよ。と、いうことで次は母にインタビューいってみようか」
どうも今は旗色が悪い。ひとまず逃げの一手だ。
三月二十二日 サチ
マー君が部活に出かけるのも見送ったし、私も準備しなければね。
その前に。
「ター君ー。起きてるのー?」
しばらくして、「起きてるよ」と言いながらター君が居間に降りてきた。あくびをしながら、しきりに目をこすっていて、まだ眠そうだった。
「私はパートに行くけれど、お昼はどうする?」
「冷蔵庫のものを使っていいなら、勝手に作るよ」
「今日は買い物に行く予定だったし、いまあるものなら好きに使っていいから。そういえば豚バラを余らしているから使ってくれると助かるな」
「おっけ、了解した。そろそろ時間じゃないの?」
左手をヒラヒラとさせながらも敬礼のようなポーズを作っている。だらしないフリが好きね。そんなフリをしなくてもター君には個性があり、マー君とは別の魅力を持っているのは知っている。
「そうね。行かなくちゃ」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
ター君が笑顔でそう言った。やはり、我が子の笑顔はいつ見てもいいものだ。
家を出て、車に乗る。
ター君はきっと酢豚を作って食べるだろうと思う。昨日スーパーマーケットで買っておいた材料は、豚バラ肉の薄切り、たけのこ、ピーマン、パプリカ、にんじん、たまねぎ、酢豚に都合のいいものばかりだし、それがあの子の得意料理であり好物だ。あの子も男の子にしては料理が出来るけれど、そのレパートリーはそこまで広くない。たけのことパプリカを同時に使って、尚且つ、ター君が食べたくなる物といったら酢豚しかないよね。
あの子が作る、醤油、酒、みりん、砂糖などで下味を付けた豚バラ薄切り肉を片栗粉でまとめて、焼き揚げた酢豚は特別に美味しいことを思い出す。ター君が言うには『タレのケチャップとオイスターソースの比率がポイント』なのだそうだ。
あの子の行先は少し心配なのだけれど、それだってター君は強運でなんとかしちゃいそう。
お父さんの運がいいという特徴の他にも、暗記が苦にならないとか、そういういいところ全てを受け継いでくれればよかったのだけれど、彼からは運のよさだけを受け継いで、怠け者なところとかは私に似てしまって、少し申し訳ないと思うときがある。でも、弟のマー君は運がいいわけではないけれど、すごく真面目な子だから、兄弟でバランスが取れているのかしらね。
永遠になんて望まない、二人が大人になるときまでは、兄弟で支えあっていって欲しいと思う。私がそんなことを言ったなら、多分あの子達は、特にター君は嫌がるようなことを言うだろう。けれど、多分だけど、兄弟で上手くやってくれるはず。二人とも、他人への優しさは共通しているみたいだから。
道中、一つ信号に引っかかったにも関わらず、五分足らずで職場に着いた。車で行く必要もないかな? いつも思うけれど、惰性で続けてしまっている。
そうだ、ター君が免許を取ったなら、この車を譲ってしまおう。そうすればいい。
ま。とにかく今日も程々にがんばろうかなー。
○月☓日
「ター君ーと呼ばれているのね。弟さんの時から予想はできたけれど」
エミの口は今にも何かを吹き出しそうに見える。何か食べ物を口に含んでいるなら、小粋なジョークでも言って、ぶちまけさせてやろうと思うが、何も食べていないし、そもそも小粋なヤツを思いつかないので言わないことにした。そういえば、ここで食事は必要なのだろうか? 腹が減る様子もなければ、時間の経過も曖昧だった。時は過ぎているのか、止まっているのか。ここの一秒は少し前まで俺がいた世界の一秒と等しいのか。
それはともかく……。
「悪いのかよ」
ター君という呼称をイジられるのはちょっとばかりムカつく。母さんはそれでいいんだよ。
だが、そんなエミから受けたからかいよりも、母さんがいろいろと考えていたことが意外で驚いた。普段からのんびりとした人だから、そんな想像をしてもいなかった。さっきから自分の間抜けさを思い知らされて情けなくなってくる。
「そういうのって、貴方は嫌がりそうだと思った。貴方に限らず、世の中の男子は、という意味も含むのだけどね」
エミは意外そうに聞いてきた。
「気に入ってはいないよ。まあ、いろいろとあんだよ」
そのままの気持ちを言ってしまうなら、母親が家族の中で一番好きだから好きにさせている、というところだろうか。しかし、そんなことは恥ずかしいで言えない。俺にくっついている頭の中がマザコンぎみであるのは重々承知のことだ。でも、その度合いが過度でなければ、家族への愛は美しいものだろう? ……多分。
「この人を視るのもずいぶん早く打ち切ったわね」
「ああ。そういえば容疑者なんて一人しかいないんだわな」
俺は一度言葉を切った。そもそも、だ。俺はアイツをあんまり見たくも、視たくも、ないんだ。
自分が殺される理由が分かってしまうかもしれない。そのことは少なからず心にダメージを与えることだろう。
「親父だ。親父を視る。俺が死んだ日のアイツの行動だ。たぶんそれで全て分かるだろ。犯人はアイツなんだろうからさ」
憂鬱だ。
四月四日 セイジ
居間を見渡す。起きているのはサチだけだ。二人の息子は見当たらなかった。
「御早う」
「おはようーお父さん」
彼女は何時も明るい人である。疲労の抜けない時の朝には少々疲れることもあるが、その疲労感すらも悪くはないと思っていた。
食卓には朝食が揃いつつあった。卓に付く前に冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、飲む。味噌汁の匂いを感じながら、窓越しに外を眺める。
「今日はいい天気だね。こんな日に君は一日怠けていたいと思うのかな?」
「そうねぇ……のんびりと散歩とかはしたいかも」
彼女はうっとりとしたような顔をして応えた。
「それにはお供したいものだね」
本心だった。基本的に無駄なことは好まないが、無為に過ごす時間も彼女となら悪くないと思える。だがその願望を叶えるのは難しいだろう。
「でも、仕事に行かなければダメよね。ご飯、並べるわ」
彼女もそうはいかないことは承知なのだ。そうもいかない。いつまでも空想に浸ってはいられない。
マサトをそろそろ起こしてきたほうがいいだろう。
食卓にスムーズに四人が揃わなくなくなったのはいつからだろうか。タカハルが中学校に入学したころは家族皆で囲んでいたはずなのだが。その習慣が途切れた瞬間については、マサトの部屋の前に行くまでの時間では思い出すことはできなかった。
「マサト、起きているか?」部屋の前で問うと、部屋の中から、「少し経ったら行きます」と返ってきた。
起きてはいたのか。余計な心配をしたな、と思う。そして隣の部屋の扉に目をやる。
――タカハルは放っておいてよいだろう。
失うのにかかる時間は一瞬だ。習慣も、地位も、信頼も、命も。
そう、一瞬だ。時を無駄にしてはならない。
食卓につき手早く食事を済ませた。
「では、行ってくる」
「いってらっしゃい」
サチの返事があると思っていたのだが、男性の声が帰ってきたので音源を見るとマサトであった。マサトが食卓についていることに気がつかなかった。そんなことにも気がつかなかったとは、少々疲れているのかもしれない。
特に気になることもないまま、職場の駐車場に車を停め、通用口まで歩く。自動ドアのガラス越しに、エントランスホールに座っている受付の顔が引き締まるのが分かる。その反応に悪い気はしない。私がそういう反応を受ける立場であることが出来るのは、ひとえに私の能力に依るものだ。当然、慢心は禁物であり、勘違いをしてはいけない。私に失敗は許されないのだから。
フロアに入ると、後輩たちが椅子から立ち上がり、頭を下げる。その数を確認する。フロアの約半数は既に出社しているらしい。私が始業より早く来るせいだろうか? おそらくそうなのだろう。現時刻から始業までは三十分以上の余裕があるはずだ。私は皆のその行いを、業務評価の対象にするつもりはない。これまでも成果を挙げる人物のみを取り上げてきたし、その方針を曲げるつもりはない。勿論、成果を挙げられる者であろうとも全体の士気を削ぐほどの怠慢を伴う場合には、その者がいくら成果を挙げようとも、話は変わる。だが、幸いなことに我社に懲戒処分が必要な人材は見当たらなくなっていた。
私に割り当てられた個室に入り、カレンダーを確認する。
四月四日。書き込み欄には『市 入札』と書いてあった。容易いな、と思い、少し息を吐き出す。
私は間違いを選ばない。確信がある。敵は数知れず作ったが、私のやり方は完全なる正攻法であるからして、正式に告発してやれば、外敵のほとんどは粛清可能だった。そうして、どう仕様も無い人間を全て黙らせたなら、この街はいい街になるだろう。
そうに違いないと信じている。
いつものように、今日の仕事に手を付けた。
○月☓日
俺の父親の時間は、俺が死ぬまで何も起こらず、意識せずに終了した。
おかしい。こんなはずはない。
「アイツの四月四日が終わっちゃったぞ」
「つまり、貴方の死んだポイントで貴方のお父様はお仕事中というわけね」
おかしい。何事もなかったかのように過ぎてしまった。
俺を殺すとすれば親父に間違いがないハズだ。
――そうだ。
「俺が死ぬ様子を見ていたかもしれないヤツを視てみよう」
まず、最初にこれをするべきだったんだ。
正直、犯人=親父と決めつけていた。だから、その外堀を埋めていく感じで進行したなら、ミステリー風で楽しいか、なんてことを考えていた。しかし実際のところ、事象はそこまで単純ではないみたいだ。考えてみれば、アイツがそんなあからさまな手法をとるわけがない。
俺の一つ限りの命。それを失い、原因も不明ときている。今更ながらに気がついたのだが、エンターテイメントを意識している場合ではないのかもしれない。奇妙で少しファンシーな空間に加えて、ステータスボードなる謎の力とクールビューティーな少女という状況に少々楽しくなっていた。
少しは真剣になろう。たぶんそうすることが人間としては、正しい。この期に及んでまでも遊び気分でいるのは、俺が義務教育期間の生徒でも怒られること間違いなしの不真面目さだ。
そんなことを考えてみても、ぶっちゃけ、あまり真剣にはなれなかったのだけど。まあ真面目を装っていけば自然と態度も真面目な方に近づくだろう。
「つまりは誰を視るの?」
分かっているくせに。
エミは決定をしない。選択はこちらがすること。俺が決定するのが当然だと、選択を委ねてくる。
「ピエロがいたろ。アイツは俺を見ているハズだ。四日のアイツを視る。よろしく頼むぜ」
ここで、予想外のことが起こったほうがめちゃくちゃ楽しい。そんな期待はしないが、それでも何か予想外のことが、あずかり知らぬところで起こったなら、それを否定はしない。それを考慮に入れて、真相を導きだすんだ。
ああ。やっぱり、そんなことを考えている俺はどこまでも不真面目なのだろう。




