少し運がよいはずの男のハーフウェイ・ポイント
-a-
キッカケは多分、他愛もないことだった。……そんなふうに覚えている。
動物実験、マウスを頚椎脱臼させたこと。
競技場、サブトラックで告白されたこと。
クラスメイトと遊んだ帰り、君だけが別の路線だったこと。
四年間の一人暮らしのアリバイとしてレシートを全て取っておいて、引越しのときに個人情報を特定できるものは切り刻んでから捨てた。わざわざ。
ナーバスすぎる。君は本当にどうしようもない。
でも、分別のときに懸賞の当選通知が見つかると少し嬉しかった。君のひどくささいで個人的な慰めだ。
馴染みの散髪屋、そんな場所なのに剃刀で首を切られる妄想をして拳を握るのは、いい加減やめたほうがいい。
そんなことしか、思い出せない。
君の壮大な暇つぶし。
みんな君に関心なんて持っていないさ。
君は只々、つまらない。
君は只々、卑屈だ。
ショッキングな ブラッディピクチュアー
そんなもののように 吐き気がしてくる。
グレッチで ぶってくれても構わない。
軟弱な君はきっと それで死んでしまう。
むしろそういう劇的なヤツならどれほどよいだろうか。
そんな日々を過ごしていた、君は。
アルコール度数六〇パーセントのウォッカを買ってきて。
中身の二/三を捨てて、ミネラルウォーターでメスアップ。
そして、それをまた捨てて、コップ一杯程度になった二〇パーセント濃度のアルコール。
一度しか口にしたことのない、元公社が売っている葉っぱをバラバラにほぐして。
アルコールで抽出し、冷蔵庫に仕舞った。
――これでよし。
二〇パーセントくらいなら一息で飲んでしまうことが可能だ。
これがあるから、君は生きていける。
死の保証だ。
スキットルに入り切る量にしておけばよかった。
でも、スキットルの飲み口は小さいから、飲んでいる間に吐いてしまうかも。
君の保証は冷蔵庫に眠っている。
君はなんで、生きているんだ?
○少し運がよいはずの男のハーフウェイ・ポイント
○月☓日
とても深い眠りから覚めたような気がした。
たぶん覚めたのはたった今だ。
なぜなら、頭が、脳が、体の様々の部分の接続が途切れてぼんやりとしていたからだ。加えて、視界もモヤがかかったようにぼやけていた。目ヤニの溜めすぎでまぶたが張り付いたのだろうか。さすがに俺もそこまではズボラでなかっただろう、多分。念のために目頭を指で揉むとゴロゴロとしたものは感じられなかったので一安心。しかし、その行為がなんだかいい具合に作用したようで、視界がひらけて目の前にある何かが見えるようになってきた。
・ようこそ、ハーフウェイ・ポイントへ。
目の前にはそんな文字列を表示する、透過性のある十インチくらいのボードが浮いていた。
もういちど目をこすって、このメッセージが幻視ではないことを確かめる。
もう一度見てみても、それは、消えず、浮いたままだった。とりあえず、目の前のボードは実在している。『それ』に近づき、触れて触って確かめてもボードには支柱らしきものも見当たらなかった。ということは、つまり、ボードは浮遊しているらしい。
スピルバーグのサイエンスフィクションかよ。心のなかで毒づく。なんとなく筋肉が強ばってダルい体をほぐす。こんな非現実的なモノが存在するということは、俺の脳みそはいまだ眠りのなかという可能性が高い。
しかし、だ。夢の最中にしては自身の思考が論理的に保たれているのが疑問だった。例えば、俺が殺人鬼に追われる夢をみているときは、高さにして十五メートルはあろうかという建物の屋上から飛び降りてみたりして、その上、当然のように無傷で着地する。今は、そんなことを実行したら危険だろう、ということが判断できるくらいには、意識がハッキリとしているし、頭も回っている……気がした。
とりあえず、この中途半端な状態の概要を把握しようと辺りを見渡してみる。周囲には雲のような物がフワフワと漂っていた。だが、体感的には無風である。辺りに遮蔽物もないのに空気がとどまっている。この光景は平和すぎて、やっぱり俺の夢という気がしない。
そんなモノの他には少女がいた。
「なぁ、アンタ、ここはドコだ?」
「――――――」
ヒトを発見し、つい口から出た言葉だった。対して、少女は無言だった。しかし、少女の表情はわずかだが不快そうに歪んだように見えた。
俺の望むまま、異常なほどのご都合主義で物事が運ぶ。俺がみる夢というものの定義だ。つまり、問いに対して色白美少女がニッコリと笑顔で返答してくれないこの謎空間は夢ではない可能が高い。
けれど、振り返ってみれば不躾な質問であったと思う。やはり、初対面の子に『アンタ』はないだろうと反省をする。しかし、視界全てが開けているような空間には見覚えも聞き覚えもなかった。そのため、俺は状況の把握をしたくて少々焦っていたのだろう。
ひとまず、言葉づかいには気をつけてみることにした。
「すみません、ここはドコか教えてくださると、ワタクシ恐悦至極でございます」
頭もそれっぽくクソ丁寧に下げてみる。おそらくこれが、うやうやしく、というやつだ。そして、こんな仕草は初めてだった。
そんな俺の仕草にも返事はなかった。実際、こんな言葉づかいの十八歳がいたならどうかしている。けれど、仕方がなかった。なにせ高校を卒業するだけでやっとのことの頭脳、またしても、アンタなんて呼称を使ってしまわなかっただけで上等だったのだと思考をプラスに変換。
「――――――」
頭を上げて少女の方を見たまま少々間をおいてみたのだが、依然として、彼女は無言であった。精一杯の誠意を見せたにも関わらず無言で返されると、なんだか切ないものがある。
「うーむ、よく分からん。何があった? 何だここは? ――いや、今のは独り言だ。気にしないでくれ」
俺の独り言風の質問にも、やはり、反応がなかった。
そっちがそう来るならばと、俺は彼女をじっくりと観察する。
髪は艶がかったセミロング。痛みによる縮れなどは見当たらない。丁寧な手入れが行き届いているのだろうなと思う。
着ているのは、ふわっとした白のロング丈ワンピース。彼女の中性的で整った顔からは少し外した、可憐な女性のような印象を受ける装いだ。だが、何度か対比させてみると、これはこれでアリという気分にさせるのは、目の前の彼女に絶対的な魅力があるからだろう。
続いて、少々病的な細さの脚。そしてその先の素足は……。
――視線の先。彼女の足は何にも接地していないように見えた。
――なら、俺の足はどうなっている?
そのまま恐る恐る自分の足元、確認。
同じく、当然、宙に浮いていた。足とその下部にある雲っぽい物との距離は確実に存在していて、
「落ち――」
高い、ヤバい、怖い。
手足をばたつかせて、何かにつかまろうと試みるも、手のひらは空気を掻くだけだった。
……でも、そういえば俺はさっきから無意識のままに立位を保つことが出来ていたはずだ。
「落ち、ないね……」
というか、さっきからずっと大丈夫だったのだ。うん、全く問題ないな。今、起きることを受け止めよう。それに自由落下とか、重力加速度とかニュートン的な原理はあまり覚えていない。切り替えの早いことが、俺の良いところ。学校の先生も、「諦めが早い」と評して、小中高と常によく褒めてくれた特徴だ。
いったん自分の置かれた状況について、得られた情報の整理をしてみよう。
透明な面の上に立っている、もしくは浮いているように見えるセミロングヘア美少女。その少女から少し離れ浮かぶロールプレイングゲームのウインドウのような表示をする透過性のあるボード、そして周囲や眼下には雲のような白くてフワフワしたものが漂っている。すると……。
――あ、もしかして、ここは天国とか、死後の世界的なものだろうか?。
そんな発想をを口にしてみることにした。
「もしかして、俺は死んでいますか?」
少女は応えない。しかし、彼女の傍らのボードが音を発して動き始めた。
テロピコテロピコ。八ビット時代の家庭用ゲーム機が鳴らすような音が透明なボードから聞こえ、
・はい○/いいえ。
という、ドット打ちの文字列が表示された。
俺は彼女に問いかけたつもりなのだが、その彼女ではなく、ボードの方が反応をし、音と共に表示を切り替えた。あのボードは少女の思考を示すものなのか、それとも、ボード自体に独立した意思が宿るものなのだろうか。
つーか、さっきから最初の挨拶といい、ボードの形といい、更にはメッセージの表示音なんかも、某、竜の冒険っぽいなー。
まあでも、誰の意思とかそういうことは抜きにして、質問をすることで情報は得られるということは分かった。
それならば、と思い、問うことを続ける。
「そんな感じでは答えてくれるわけね?」
・はい○/いいえ。
電子音と表示される返答。
彼女もしくはボードはいわゆるノンプレイヤーキャラクターのような捉え方でいいのだろうか? それならマジ、RPGの始まりの街っぽいなー。
だが、俺の知るゲームとは違う、気になる点が一つあった。その点は追々訊くことにして……。
まずは、細々としたことよりも状況の把握が先決だろう。そのことについて質問を重ねることにする。
「俺は何故……。おっと……」
先程、俺が発した言葉に対する反応から鑑みるに、肯定、否定で答えられないものには反応を示さないようだと考えられる。これから質問をする場合は問い方に注意しよう。
さっきのボードの表記から、俺が死んでいるということが分かっていた。次は……。
「俺は殺された?」
・はい○/いいえ。
ふむ。この場所が死後の世界という状況なのは確かなようだ。
俺は自殺をしないだろうから、死ぬ理由は、自然死、病死、事故死、他殺、くらいだよな。その中で一番エキサイティングなものから訊いてみたら早速ヒットですか。
ん? 事故死は自然死に含まれる? でも、自分でわざと事故ったら……おっと、そういう微細なことは、今考えることではないだろう。
しかし……ほうほう、俺、殺されましたか……。
これは面白くなってきた。
そして突然、死んだ瞬間の感覚がフラッシュバック。体の細胞が興奮するような感じの後に、ブツリと意識が途切れたのだ。そんな感じで俺は死んだ。だからきっと、誰かに何かでぶん殴られて死んだとかではないと思う。
死の記憶につられて、ちょっと吐きそうになった。しかし、今の体には消化管内の内容物が完全になくなっているようで、胃液すら吐き出しそうもなかった。どうやらこの肉体の存在も曖昧なものみたいだ。
気をとりなおして、次の質問を考える。
たった今、少し前を思い出すことが出来たのだ、それに至る大まかな記憶も順を追って辿っていけば、詳しく思い出すことが出来るかもしれないと思えた。
えーと、その前、その前、その前……。
あー何も思い出せないなー。
だいたい、順を追うって、どの時点が基準なんだ。羊水の中をスタート地点にしてたどれってか? どこぞの奇跡の大天才でもあるまいし、思い出せるわけがない。仮に生きていても無理だ。
「でもまあ、時間はあるみたいだし、思い出してみるよ。何か飲み物とかない? コーラがいいな。缶が青いヤツね」
地面がないことにもすっかり慣れ、足の裏が接地していた場所を狙って腰を下ろし、少女に要求をしてみる。
少女、ボード、ともに沈黙したままだ。
あー、もういいや。最初は付き合ってやろうかと思ったけど、イエス、ノーの二択なんて不自由すぎて、めんどくせぇ。
「一つ尋ねたい。アンタ喋れるんじゃないか? アンタっていうのは、当然だけど、そちらのお嬢様のことですよ。俺が最初にアンタって言ったとき、不快感が表情に出ていたぜ。もし、アンタがノンプレイヤーキャラクター様なのだとしたら、そんな反応を見せるのはオカシイって。うん、悪かったよ、出来るだけ言葉遣いは直すから、アン……じゃなかった。お嬢さんも機嫌を直しておくれやす」
何度もアンタ、アンタと挑発的に問い掛け、しばらく待つ。
もしかして、外したか……? 少女から、返答がない。
体温が上がり額を汗が流れた気がした。主に恥ずかしさが原因となって。
こころなしか皮膚がじっとりとしたような気がしたところだった。少女は首をすくめたあと、腕をだらりと下げ、ため息をついた。
「つまらない人ね。いえ、これから楽しませてくれるのかしら」
あーよかったー。これで喋ってくれなかったら、人形に話しかけているイタい子でしかないもんな。そんなことを思い、少し息を吐く。
けど、やっぱり喋りやがった。喋れやがった。人をもてあそびやがって……。性格がねじ曲がってやがるとしか思えない。ま、俺も性格に関しては、人のことはいえないと思うのだが。でも、こっちは死んでいるらしいから、そんな状況の人を捕まえて、おちょくるのはやめて欲しいものだ。
――いや、死んでいるという状況。もしかすると、それは向こうも同じなのだろうか?
いったい、この場所は何なんだ?
「楽しませるとか、そんなことは俺にはわからないよ。でも、殺される理由がすぐに思いつかない男の殺された理由探しってのは、なかなかに面白そうだと思わないか?」
「まぁまぁだとは思う」
少女は軽く笑いながらも鋭く断じた。
口を開いたと思えば、なかなかにひどい事を言ってくれますね。体は細っこいくせに言葉の攻撃力はなかなかに高いらしい。ここでムキになって応じるのも面白いと思うのだが、なるべくなら良好な関係を築きたいので、本筋の話をしよう。
「さいですか。とりあえず、記憶が曖昧なんだが、何か方法とかあったりしないか?」
「私の、このステータスボードには日にちを指定すれば、貴方の視点を視る――言うなれば、脳に対象とした人間の主観をインストールするようなものかしらね。それが出来る能力も備わっているのだけど、どう? やってみる?」
あのロープレ風メッセージボードはステータスボードっていうのか。というか、ステータスボードすげーよ。ハイテク、もとい、オーバーテクすぎる。
あと、『能力『も』』という言い回しが引っかかる。なにか他の用途があるということなのだろうか。では他にはどんなことが出来るのやら。今までのやり取りで、文字表示機能が搭載されていることは把握できているのだが。
それはおいおい教えてもらうとして……。
「その力とやら、脳に影響は? あと、俺の名前はタカハルです。以後、お見知りおきを」
質問と同時に、俺は『貴方』という名前じゃないよ、と頭を下げつつ自己紹介。
彼女はフッと息を吐きながら笑った。貴方、死んでいるのに脳の影響とかそんなことを気にするの? と言われた気がした。
「私はエミ。長い間は覚えてもらわなくて結構よ」
人がテキトーに取っ付けた、『以後、お見知りおきを』なんて言葉にもいちいち反応やがって、ムカつくヤツだ。エミって名前が聞いて呆れる。そんな名前なら少しは笑みを見せてみろってんだ。
でも、悔しいかな、顔は間違いなく好みだった。自分の死因究明の他に、一つ目標が出来た。
コイツをいい笑顔にしてみせる。
それで、それを見て、変な顔だって笑ってやる。
「んじゃ、宜しくお願い致します。んで、エミは映写に付き合ってくれます?」
・はい○/いいえ。
2D創世記全盛期のコンピューターゲーム的チープな音と共にメッセージが表示された。
俺のお気に入りの曲で、自らの置かれている状況のカオスさをサーカスに例えた曲がある。好きな理由はギターリフがカッコ良かったからで、歌詞についてはよく分からない。サーカスといえば、トラが火の輪をくぐり、ゾウが三輪車をこぐ。まぁ! なんという非現実空間なのでしょうか。少なくとも、俺の生きていた環境ではそんなことは起こっていなかった。アライグマが立つくらいのことはあったけれど。違う国の曲だし、俺の人生にそんなことは起こらないと思っていた。
だけどなかなかにわくわくできる状況じゃないか。
んで、結局、脳に影響はあるのかよ……。
三月二十日 タカハル
「卒業か……」
式典会場、その実、三年間通った高等学校の校舎に併設された体育館の外で呟いた。創立から長くも短くもない期間を経た校舎は、建て替えが必要なまでにはひどくない、けれども絶妙に老朽化をしていた。
わずかばかり彩られただけのくたびれた外観が俺たちの卒業を祝っていた。しかし、安っぽい銀色テープ一色の装飾にはやる気が感じられず、風で飛んできたビニール片が引っかかっているのと大差ないものにしか感じられない。それを見て自分が在校生という立場のころ、休日なのにめんどくさいなあ、という気持ちを抱きながら卒業式の準備していたことをを思い出した。現在の下級生たちの気持ちを鑑みれば、『卒業式用の装飾? 部活もしてないし、関わりもない上級生のためにそんなことやってられっか!』と、投げ出すことをせず、わずかでも装飾がしてある、というだけで上等なのだろう。わざわざこのために前日に登校している後輩たちに、感謝。
「ってもなー……卒業だよなー。どうしよ?」
当然、校舎も体育館もコンクリートの渡り廊下も俺のなさけない問い掛けに応えてはくれない。そんな脳内お花畑な問い掛けをしたのには、少々の理由があった。
何故か、少し運がよい、という不確か極まりない特徴を持っていた俺は、そんな偶然に甘えて人生をナメきっていた。そしてナメきった挙句、勉強に力を入れるわけでもなく、就職活動に力を入れるわけでもなく、この良き日を迎えるハメになっていた。
誰かに聞いた話では俺はこの校舎と三年もの間を一緒に過ごしたらしい。なのに返事の一つもくれない。建物のヒビ割れを眺めていると、背後からそんな校舎よりは愛着のある声が届いた。
「ここに居たんだ。今日でここともお別れだな。柄にもなく、泣いてみたり?」
「まさか、しねーよ」
「だよな」
「ああ」
声を掛けてきたのはリュウだった。コイツとは保育園からの付き合いだが、ここで一端、お別れ、ということになる。確か、バスケットボールの推薦で大学に進学が決まっていた。そのことは羨ましい気がしないでもなかった。
そして、少し、おモテになる。コイツの放つシュートがバスケットのゴールに向かう放物線は大変美しいからおモテになるのも、理解は出来る。出来るが……羨ましい気がしないでもなかった。
「結局、俺は何にも所属することは出来ずに卒業ですよ……どうしよ?」
精一杯に暗澹たる表情を作って言ってみた。実際のところ、さして不安ではないのだけれど。勿論、少しは不安になっておくのがフツウだということは分かっている。けれど、そういう気持ちにはならないのだから仕方がなかった。だから本心を隠したままで、友人に嘘をついたのだ。
「ウチを卒業してそんなことになっているのは、タカハルくらいだろ……」
「筆記の二次試験と面接がどうにもならねーんだから仕方がないだろうが」
「お前は選択問題とか、運の要素が絡むと強いけど、それに頼りすぎなんだよ。大嫌いなアオタケを見返すためと思って、少しは努力をしろっての」
俺が努力をしないって? そんなことはない。俺だって化学なら少しは得意だ。ないと思いたい。英語の長文読解も割と解けるほうだ。だが、俺が小学校レベルの漢字の書き取りすら怪しく、覚えている年号はイイクニツクロウくらしかないということを目の前のコイツはよく知っていた。
非常に異常に、ウマが合わなかった担任教諭の名前を出して、俺に発破をかけたつもりかもしれない。だが、俺は切り替えが早いのだ。職員室のアオタケ‘sデスクに百円で買ってきたウイッグと、『ヅラ、バレてますよ』という書き置きを残したことで、十分に復讐は済んでいた。そもそも、授業中に数式の間違いを指摘することは、善良な生徒として間違ったことだったのだろうか? そのことでキレられたのは多分、一生の疑問だ。
クソみたいに効率の悪いアオタケの授業を思い出し、アイツへの三年間に積もった怨念が蘇ってくるのと(あれ? 切り替え、早くないじゃん)、いろいろと努力が足りないというウイークポイントを突かれ、俺は口を尖らせ、視線を逸らして黙る。
呆れたような様子でリュウが言う。
「だけど、やっぱり、アレ、当たっているんだろ?」
「一緒に買いに行ったアレ? あぁ、当たったよ」
「おいくらだよ?」
「九十万くらい? たしかそのくらいだったはず」
少し前、卒業記念としてリュウと一緒に数字を選ぶ宝くじを買っていた。それの賞金が九十万円ナリ。なにせ俺は少し運がいいのだ。そう、少しさ、俺の親父に比べたら微々たるものだ。
リュウは飽き飽きだという顔をして、「お前には天罰が下るよ」なんてことを言いやがる。
「天罰なんて、ヒラリとよけてやるよ」
腰をくねらせ、ヒラリの動作付きで言ってやった。どうだ、まいったか。
この動作、誰か見ていなかっただろうか? 見られていたなら、少々恥ずかしい。周りでクスクス笑っているヤツがいないか見回す。居ないみたいだ。一安心。
「お前はそのくらい出来てしまいそうだから嫌になるな」
キョロキョロと視線を動かしている俺に、ヤツは声を出して笑いながら言った。園児のころからの親友へ贈る、高校生活最後のセリフがそれとは……俺は悲しいよ。本心を言わせてもらうなら、天罰回避なんて神をも恐れぬ所業は年末ジャンボ一等当選者にお任せしたい。俺はただ少し運がいいだけなのだから。
大体、天罰ってなんだ。そんなものがあるのなら、とりあえず、アオタケのヅラを最高に笑えるタイミングで吹き飛ばしてくれよ。それこそが神のするべきことだ。髪だけに……。
「金もできたし、ちょっとの間、家に籠るわ。じゃあ、またいつか、な」
リュウにひらひらと手を振り、家に帰った。
別れというものに、初めて、本当に、演技ではなく、悲しいという感情を覚えたのは、ヤツには口が裂けても言えない。それを口にするのはいろいろと恥ずかしことだと思うから。




