第三十二話 厳罰棟所長の訪問 その14
トレバサシと彼の書いた本についての僕からの説明はこのくらいにしておく。さて、グリーンからの熱のこもった質問を受けて、マリャベリさんは冷静な態度を保ちながらも、少しそわそわしながら話し始めた。
「ええと…、ヤドカリ論をなぜ頑なに信望するのかということでしたけど、私にとって、この本の著者であるトレバサシ様は恩人ですからね。これからは長い話になりますが、私をここまで引き立ててくれた本人でもあります。どうやら、その辺のことから話した方が良さそうですね。先ほども申し上げましたように、私という人間は基本的に孤独な人間でして、学生生活においてはこれといった恩師も恩人もいないのですが、これはどんな人間であれ信用しないという性格上仕方のないことだと思います。当時、と言いましても、私がこの学校を卒業する時分のことですが、私は結局占い師にはなれませんで、その上、他の就職口も見つかりませんで、さすがに途方に暮れておりました。同級生たちは占い師にはなれないまでも、親や仲の良い教師のツテを頼って次々と将来の自分の働き口を見つけておりました。無能な人間ほど追い詰められたときにツテを見付け出す術には優れているものです。切羽詰まったときに思考が楽な方に楽な方に働くからですね。おかしいものですよね。占い師になるためにこの学校に入学したはずの学生が、結局、占い師にはなれずに、それより下級の職業で妥協したにも関わらず、自分の道がそうやって決まると喜々としているんですものね。そういう未来が待ち受けていることを、彼らはどうして学生時代に占ってみなかったのでしょう。それが私には不思議でなりません。
しかし、それでも進路が決まった人はまだいいわけです。先ほどから何度も申し上げておりますが、私にはそういうツテがありませんでしたので、誰も私の境遇を省みてはくれませんでした。『進路はどうするの?』と声をかけてくれる人すらいませんでした。学校中の生徒が自分をせせら笑っているようにさえ感じたものでした。その頃には、私はすっかり世の中のすべてを呪っていました。他人の笑顔を妬ましく思いました。明日にでも、暗雲の彼方から悪徳に満ちた紺色の光が地上に降り注ぎ、生物すべての脳みそを狂わせ、人類は疑念と怨恨に蝕まれ、自分たちの朧げな関係の中に不義を見出し、互いに拳銃や砲弾で撃ち合ったりして、やがては水爆や中性子爆弾をぶつけあって滅んでしまえばいいとまで考えておりました。人間など浅はかなものです。どんなに偉ぶった大学教授も一枚皮を剥げば、地下街をダンボール片手にさまよい歩く、浮浪者まがいの人間と同様のくだらない犯罪をあっさりとやってのけるものです。立派な職にある人間が、痴漢や万引きで捕まったなどとよく報道されますよね。皆さんはさぞかし驚かれるでしょうが、私には当然のことのように思われます。どれだけ多くの有名人が国営放送のアナウンサーやスタッフを失望の海に叩き込んだことでしょう。どれだけ多くのスーツ姿の役人の不祥事における謝罪会見をこの目で見てきたことでしょう。そういう腐った社会を見ているうちに、私は見るものすべてが嫌になっていました。聞こえてくる音のすべてを恨んでいました。感情は毎日のように高ぶっていて、道の上に転がっている空き缶を蹴り潰すような日々でした。
ちょうどそんな時、私はヤドカリ論と出会ったのです。こんな馴れ合いの世の中に、出来合いの友情を、挫折も知らない若者が手を取り合っておもちゃのように弄ぶ世の中に、札束を人より多く持っていることだけが社交界での名刺代わりになる安っぽい世の中に、トレバサシ様のように、世論やマスコミをすべて敵にまわして孤独に戦える人がいると知って勇気づけられたものです。その頃、トレバサシ様も反社会的な団体を率いて、警察や善人どもの率いたつまらない団体を相手に奮闘中でした。世間の人々から蔑まれても、決して妥協することなく、自分だけの聖戦を孤独に戦っておられたのです。彼は声だかに叫びました。目に見えるものはすべて敵だと、子供の無邪気な笑顔にも、華やかなドレスを着飾った女優のしなやかな演技にも決して真実は含まれていないと、そして、それこそ自分の望む状況であると。この私にも、誰が正しいのか、卑しい言葉を使って彼を叩いている偽善に満ちたマスコミの報道が正しいのか、それとも、孤独にありながらも、彼が本当に正しいことを心から言っているのかどうかは当時はわかりませんでしたが、私には関係ありませんでした。人間がことの善悪を判定しようと、いじましく脳を動かすときほど、主観が入り混じってくだらない思い違いをするからです。そういう時ほど、真実ではなく、より色の濃い側、声の大きい側の主張に耳を傾けてしまうものです。マスコミは執拗に彼のことを叩きました。私生活の汚さや金遣いの荒さ、などを執拗に紙面に書きたてました。どんな嫌らしい女とどこのホテルで会っていただの、マフィアとの裏取引で多額の現金を手にしただの、トレバサシ様の不名誉になるようなことを連日のように濁流のごとく書きたてました。
しかし、それに健気に反論する、その元気で活発な彼本人のお姿を新聞で拝見して、何と申しますか、私は初めて自分の師を見出したような気がしたものです。人間とは本来寂しがりやです。誰にも可愛がってもらえなくなった飢えたウサギやコアラのようなものです。一緒に行動を楽しむ仲間なしでは一日たりとも生きていけないのかもしれません。生活の中に実りある会話や励ましの言葉がなければ、否応なく自己嫌悪におちいり、脳の質量が低下していきますからね。そうなれば、道徳も悪徳も次第に見分けがつかなくなっていきます。人間たちの言葉ではなく、テレビのアニメや漫画の中のキャラクターだけが本当のことを言っていると思い違いするものです。見た目の可愛らしさと真実の美しさの違いが見分けられなくなります。誰の心の浅瀬にも浮かんで眠っているような単純な思想をすぐに真に受けるようになります。浮き輪を付けて岩場で囲まれた小さな浜辺で無邪気に泳ぐ幼児が、大海すべてを手に入れたと錯覚するようなものです。それはうちの学校の孤独に生活する生徒の成績の悪さや就職率の悪さを見ても明らかなのです。孤独は知らず知らずのうちに身を滅ぼします。性格を極端に偏屈にします。孤独に生まれついた人間は世間の人々が当たり前のように持ち合わせている勇気や優しささえも、やがては失ってしまうだろうという一般のよそよそしい専門家たちの口をついて出る呪詛の言葉も、その頃の私には真実のように思われました。これから社会に出れば余計にその傾向は強まります。仲間の多い人間ほど、他人からの都合のいい評判を利用して上司に上手く取り行って早く出世をして、やがては良い友や婚約者に恵まれていき、孤独な人間よりも圧倒的に裕福になっていきます。それを羨ましいと単純に思ったわけではありませんが、この目にはっきりと見えてきた未来予想図に、ずいぶん不公平な印象を受けました。私にだって、豪華客船に乗って優雅にカリブ海を旅する未来があってもいいはずです。数百万円もするドレスで着飾って旅行雑誌を彩っている女優たちの役どころが、私に割り振られることがあってもいいはずです。他人にちやほやされ、恥じらいを振りまきながら、知らず知らずのうちに社交界の奥深く、ダイヤモンドで飾られた秘密の茂みの中に『さあどうぞ』と招待される未来があってもいいはずです。遅まきながら、私もトレバサシ様という英雄を見つけて初めてそのことに気がつきました。実際にはずいぶん昔に脳内で完全に否定したはずの天使の言葉が聴こえてくるような気がしました。
『マリャベリよ、あなたはこのままでは駄目です。このまま進んでも灰色の鉄路の上に駅はありません。自動車で荒地を進んでも、ガソリンスタンドもパーキングエリアもありません。そこから懸命に走っていったところで霧の中に給水所もありません。あと数年もすれば、あなたは誰からも温情を与えられずに、この世のあちこちに散りばめられた幸せの蜜の味も知らぬまま、社会の底辺で不幸の汁だけを舐め続けたあげく、孤独のうちに野たれ死にするしかないでしょう。今からでも遅くはありません。あなたも所属する団体を探すのです。自分の尊敬できる師匠を見つけてうやうやしく頭を垂れるのです。自分の地位を偉人の下に置き、ありのままの心で他人を尊敬することは恥ではありません。ライバルとなる人間を出し抜くために、いや、何より輝いて生きるために、自分を輝かしい未来へと導いてくれる仲間を見つけるのです。これはなにも難しいことではありません。要は他人と同じことをせよということです』
脳内で確かに大天使ミカエルの声がしたんです。今から思うと、それも天上からの啓示などではなく、私自身の右脳があまりの窮地に耐えられず、自然と創り出した直感だったのでしょうが、私は初めて自分以外のものから啓示を受けたような気がしました。すっかり追い詰められていた私は、その助言に耳を傾ける気になっていました。一寸先も見えぬ地獄の果てにある暗黒の回廊に、一筋の光がさしてきたような気がしました。居ても立っても居られず、すぐに行動を起こしました。なるべく早くトレバサシ様に気に入られて同じ団体に所属しようと思いました。それ以外のことがまったく思考できなくなるほどに、彼のことを一途に思い込みました。彼から教えを受ける自分の輝く姿を何度となく想像して一人激しく興奮しました。すぐに下町の片隅に店を開いている代筆業の男のところへ飛んで行って、まあ、この男がどうしようもないほどのアホづらで、諜報機関に身元の調査を依頼したり、本人から詳しい説明を受けなくとも無能であることは一目でわかりましたが、他に代わりになるような人間がいなかったので仕方なく、トレバサシ協会への入会の申し込み書を依頼しました。ところが、この頭ボサボサの田舎町の代筆業の男がよっぽど使えない人間で、書類一枚を書くのに、貴重な時間を一週間も使ってしまい、私が出来上がりを受け取ったのは卒業式の後でした。知人の数々は、いまだに就職先の見つからない私に陰口を叩きながら、いや、あるいは、それこそ私の思い過ごしかもしれませんが、あるいは幻覚や幻聴のなせる技だったかもしれませんが、とにかく卒業式で満面の笑みを浮かべて悠々と祝福と賞状を受け取っていきました。皆が満面の笑みで学校で最後の記念撮影をする中で、不安な面持ちで帽子を上空に投げたのは、卒業生の中で私だけだったかもしれません。その頃には、私の焦りはピークにあったのです。せっかくの妙案も、誰かに先を越されるのではないかと冷や冷やしていました。同じことを考えるライバルが多ければ、私がトレバサシ様の下につく意味が無くなります。しかも、やっとのことで代筆者から受け取った書面は誤字だらけだったのです。私は頭の中が真っ白になり、怒りに打ち震えました。普段なら地団駄を踏みながらも、例え間抜けであろうが、他人に頼んだのはこちらだから仕方ないの一言で済ませるところでしたが、学校を出た後でしたので、もう世間に対して何ら遠慮をする必要はありませんでした。いつもの愛想笑いの良い子でいる必要はありませんでした。私はその男の胸ぐらを掴んで怒鳴りつけました。自分の進路さえ失いかねない失態に怒り狂っていました。『このクズ! クズ! クズ! 能なしが!』目の前で唾を撒き散らしながらそう叫んでやりました。男はあまりの衝撃に白目をむいて気絶してしまいました。




