第二十八話 厳罰棟所長の訪問Ⅹ
講演者はそこまで一気に話してしまってから、一度口の動きを止めた。休憩も入れず熱く話しているうちに、顔がすっかり紅潮してしまって暑くなってきたらしく、一つ呼吸をおいて、右手をうちわのようにしてパタパタと一度扇いでから、机の上に置かれていたコップを持ち上げて、水を一気に飲み干した。ここまで早口でまくし立てるのには、聴衆に自分の講演内容について飽きられてしまうのを防ぐ狙いがあるのだろうかと勘ぐりながら僕はその様子を見ていた。
彼女自身、自分の話している内容がそれほど大衆受けするものではなく、聞いているほどに聴衆を呆れさせる内容を含んでいることを知っているのかもしれない。講演者が休憩を挟んだことで、うまく間が空いたので、僕は一度周りを見渡してみた。長いつまらない話が続いても、ムングやアリアなどの危険分子も荒れた様子はなく、今のところ真剣な表情をしていて、おとなしく話を聞いていた。始まる前には無駄話をしていた生徒たちも、今は観念したのか、それとも何も無駄話をするネタが無くなったのか、無気味なほど静かにしていた。京介はさすがに長話に飽きたらしく、ラルセの肩を一度コンコンと叩いて、「チョコレート一個取って」と声をかけていた。ラルセはその要望を受けて、僕の手の中にある袋に無言で右手を突っ込んで、袋の中をまさぐっていた。会場の後ろには、例の生徒会の役員が二人並んで立っていたが、この二人も何も会話することもなく、それどころか微動だにすることもなく、講演者の話に聴き入っていた。二人が講演者の話についてどう思っているのか、生徒会の人間ならあのような偏屈な話も受け入れられるのか、それとも彼らでもやっぱり面白くないと思っているのかは表情からは読み取ることが出来なかったが、少なくとも、楽しそうにはしていなかった。僕が自分のことを見ていることを感じ取ると、クレモネさんはにこやかに笑みを浮かべて一度頭を下げてくれた。
講演者のマリャベリさんは、そのナイフのように鋭い視線で一度客席を見渡して、生徒たちがおとなしくしていて、しかも寝ないで話を聞いているのを確認すると、しめしめ、今のところは自分の思い通りの展開になっているぞと思ったのかどうかは定かではないが、一度ニヤッと口元を歪ませてから、再び話を始めた。
「えー、話はどこからでしたかね。そうそう、私が学生の時分から何者も信じない人間不信の塊だったというところでしたね。それは、その通りなんです。世の中には、政治家を信じない人なんてたくさんいらっしゃいまして、ありふれていますけど、中には、それを自慢話にして、酒のつまみにするだけでは飽き足らず、周囲に対して強気に話して出ることで商売にしてらっしゃる方までいますけどね。私から見れば、政治に盲目的に騙されてどんな政策にでも同調してしまうような単純な人も、それを全く信じないで世の中を見限って、すねてばかりいる人も、どっちもどっちというような気もしますね。私のはまるで違いますのでね、政治や経済への無関心というのではなくて、人間の限界を骨身にしみて知っていると言いますか、人間がやることの限界がわかっているんですね。政治の限界、金儲けの限界、信仰の限界ってやつですね。それが理解できているんです。ええ、人々を欺こうとする汚い人間も、それを嫌う人も好いている人も、私には皆同じように見えます。最近の国際情勢なんて、様々な思惑が絡んで複雑だなんて言われていますけど、私に言わせればまるで人形劇ですからね。とにかく、何も信じません。ええ、信じていませんとも。無信教なんて人もいますけど、神なんていうのもいい加減なものですよね。その国によって、創造主が違うなんて笑ってしまいますよね。ドストエフスキーの小説に宗教が国家の位置までのぼる、なんていう言葉が出てきますけど、ああいうのも、私に言わせるとよく出来たお芝居で、神様も人間の作ったもので、そこまでの力はないんですよってことですね。とにかく、聖書だか法典だか知りませんが、神格化してしまったもの勝ちみたいなところがありますけれども、信じない自由というのもありますのでね。とにかく、私は神社や教会にも行ったことはありませんで、神に祈ったことなんてありませんから、とにかく頼れるのは自分だけという信念で生きてきましたね。他人に自分の信仰を委ねるなんて私にはまっぴらごめんですのでね。そして、学生の頃から神も信じないとなりますと、成人して数年も経つ頃には、私の世俗嫌いはどんどんと加速していきまして、とにかく何も信じません。かごの中のハムスターも信じません。着飾った女性が男に見せつけるカチューシャやリボンも信じません。飲食店にこれみよがしに出来た行列も信じません。マスクを付けた人の風邪を信じません。デパートの大安売りも信じません。目の前で起きている車の渋滞も信じません。ボタンを縫い付けてくれるクリーニング店の店長の技量も信じません。そういう人間不信の極みの状態で生きてきたわけですね。
そうそう、ここで言っておきますが、私は宇宙も信じませんからね。火星に宇宙人ですって? 月の裏側に地球侵略の秘密基地がある? もちろん、それも信じません。高性能天体望遠鏡による新星の発見も信じません。夜空に浮かぶ北極星も信じません。そもそも、優秀な科学者が何人集まっても、それがいつ出来たのかがわかっていないものなんて、どうやって信じろと言うのでしょう? 私だったら、ブラックホールがなぜ生まれたかなんて知りたくもないですわ。もし、明日地球がそれに飲み込まれたって私はおかしくないと思ってますよ。我々の存在のなんてあやふやなことでしょう! 地球も太陽も銀河系も、明日もう一度ビッグバンビッグバン(彼女はなぜか二回発声した)が起きて、消滅してしまうかもと思っておりますね。宇宙といえども、同じ性質や体系を何十億年も維持できるとは思えませんものね。何かの拍子に宇宙ごと爆発して、丸ごと消えてしまってもおかしくないですわ。今の話、ちゃんと聞いていましたか? 私は明日この星が消滅するかもと言っているのですよ? 心が動じなくては嘘ですよ。皆さんは怖くありませんか? なんて聞きながら、私はちっとも怖くありませんよってことを言いたいんですよね。何しろ、自分の恐怖心さえ信じておりませんのでね。そう、明日、自分の存在が完全に消滅したとしても、私は平気です。この世さえ信じておりませんですのでね。
よく人から聞かれるのですが、私が信じているものと言えば……、そうですね……、歯医者! あれは信じていますね。あの治療中の恐怖と痛みは本物ですものね。あの先の尖ったドリルでガガガガってね、歯茎を貫通するような痛みが脳の神経まで響きますよね。いっそ殺してくれと言いたくなる痛みです。まあ、この辺は自業自得なんですけれども。それから最近何かと話題になっている『ヤドカリ論』。あれは面白いですね。信じてみてもいいかもしれません」
ヤドカリ論の話が出たところで、会場のあちこちから失笑が漏れた。それもそのはずで、神も宇宙も信じないと言い張った女性が、一介の人間が書いた本を信じるというのだから、その矛盾した理屈を笑われても仕方ないところだろう。最初はひそやかだった会場の笑い声は、人から人へと伝わっていくうちに次第に大きくなった。ゲラゲラとした笑い声が隅々まではっきりと届くようになった。講演者もそこで一度話を中断した。このままのペースで話を続けるよりも、一度ここで皆の反応をうかがい、反論があればそれを聞いておくのも悪くないと思ったのかもしれない。そのタイミングでアリアが大きく手を挙げて、質問を催促した。講演者もすぐにそれに反応した。
この作品は長大なので少しずつ区切って投稿していきます。気軽に感想をいただければ幸せです。この作品はアラブ系千葉文庫(http://www9.plala.or.jp/applepig/)にも掲載しています。全部で十数個の短編作品を掲載しています。できれば、そちらの方にも遊びに来てください。




