第二十一話 厳罰塔所長の訪問Ⅲ
「ムングじゃないか!」
「ちょっと、ムング! あなた元気だったの?」
この間の悪いタイミングで広間に入って来たのはムングという、このクラスの一員だった。あだ名で『地中海の穴熊』と呼ばれる生徒で、もう、3週間も学校を無断で休んでいたので、みんなで心配していたところだったのだ。ラルセも安心したようにムングの方に一度手を振りながらも、ほくそ笑みながら、ちらちらっと演壇にいるエンフォード二世の方に視線を向けた。彼は今まさに講師を紹介しようというタイミングで、予想外の生徒の登場によって、完全に腰を折られた形になり、ほとんどの生徒の視線が自分から外れてしまった気まずい雰囲気の中で、ことの成り行きを見守りながら呆然と立ち尽くしていた。ここから立て直せるだけの人望と技量が果たして生徒会のナンバー2にはあるのだろうか?
「みんな、心配かけてごめんね。俺が休んでいた件については、本当に誰も悪くないんだ。うじうじと悩んでいた俺一人の責任なんだ。みんなは気にしないで、楽しく、これまでどおりの学校生活を送ってくれ」
ムングはそう言ってから、会場の隅の方の席に腰を降ろした。彼はいつも通り、警察と同じ紋様のついた立派な制帽を被っており、胸には拳銃をしまうホルダーのついた防弾チョッキを着込んでいた。これが彼のいつものスタイルなのだ。彼が入学当初からなぜそのような格好で登校して来るのかについては、誰もが興味を抱いているのだが、本人に対して真剣に質問をしたことがある人間はごく少数に留まると思われる。ただ、わかりきっているのは、彼は決して保守的でも軍国主義者でもなく、無難な思想を持った一般の市民である。それなのに、なぜ上半身だけ警官のような格好をして来るのかについては、彼なりの複雑な思考があるのだろう。ここで、僕が言っておきたいのは、人間は誰しも他人に容易には話せない、複雑な嗜好や趣味や、あるいは思想を持っているということで、それは幼い頃の複雑な体験が元でそうなったのか、あるいは誰か有名人に影響を受けてそうなったのかはわからないが、とにかく、人間として生まれて十数年も生き続けていれば、何かしら特異な嗜好を身につけてしまっても仕方のないところなのである。
例えば、僕の故郷にほど近い町で、ゆうに70を越えたおばあさんがいつも話題を集めていたのだが、それは、彼女が買い物に出かけるときに、必ず短い真っ赤なスカートとピンク色のタイツを履いているということで、これも今回のムングの一件と非常によく似た事例で、その町に住んでいる誰も彼も、そのおばあさんに、なぜ少女のようなスタイルで出かけるのかについては質問出来なかったのである。一言尋ねてしまえば、結果がどうであれ、それですっきりするのに、不安感に襲われてそれができない。どうしても、始末に負えない回答が戻ってくるのではと考えてしまう。人間の心とはそれほど不可解なものである。この世は、高名な心理学の学者にも説明できないことで溢れている。
先ほども述べたが、人間は誰しも、一つくらいは特異な嗜好を持っていて、ほとんどの人は、それが他人の目に映らないところに匿っておける程度の偏りなのだろうが、ムングの場合は、あのように他人に自分の異形の姿を見せて、堂々と生活することを選んだと、ただそれだけのことである。彼も自分が他人から興味の視線で見られていることは、当然承知しているだろうが、彼がそのことを少しでも気にしているのか、あるいは全く気にも留めないほど、自分の中で、警官に対する、ある種の熱意と興味が進行してしまっているのかはわからなかった。とにかく、彼は大きな体格に関わらず、非常に大人しい人間で、何か事件に巻き込まれても、大声で騒ぐとか、他人を非難するとかいうことができない人間であった。授業中に時々ボソッと先生の言葉に相槌を打つか、あるいは意味もなく反論することがあったが、それらはほとんどが一般の生徒ならわかりきっていることであった。つまり、彼は自分の知性を見せびらかすために呟くのではなく、抑え切れない衝動、おそらくは血統に含まれた特性なのかもしれないが、そういう他人に不快感を与えかねない特徴を持っていた。
しかし、彼が授業中の大事なタイミングで、そのような独り言を呟いても、誰も陰口を叩いたり、非難するようなことはしなかった。うちのホームルームにそんな卑屈な生徒はいないのだ。タッサンなど、できる生徒は、「ムング、その通りだな」と合いの手を打ってやったりもした。彼の言葉が、教室内に嫌な空気を作り出さないように気を使っていたのだ。
ここで、ムングが学校を休むことになったいきさつを説明しようと思う。とは言っても、取るに足らない事件であって、このことだけが彼を引きこもらせた原因ではないと思われるが、とにかくうちのクラスでは度々話題にのぼる話なので、知っておいて損はないと思う。
僕らが二学生になった直後の5月頃、学内では、大勢のリベラル派の台頭と相まって、生徒会の行動を見張るための新たな組織を結成しようという動きがあった。ロドリゲスやラルセもこの動きにはかなり関心を持っていた。彼らも生徒会の支持者になるには抵抗があるとは言え、個人での政治的活動にはいささか限界があると感じていたからである。組織の他のメンバーと折り合いがつけば、そのグループに参加したいと考えていたようだった。もちろん、生徒会の不正を暴こうと言うのであるから、この組織自体が完璧な倫理と道徳によって運営されなければならないことは言うまでもない。いい加減な組織だったら、生徒会どころか、一般の生徒にも相手にされないだろう。
この運動の中心にいたのは、リチャードソンという学生だった。彼はリベラル派の中枢にいながら、法や道徳を尊守する理念を持っていて、暴力によってではなく、話し合いによって生徒会から学校の運営権を奪還しようと目論んでいた。彼は他のリベラル派の同志と議論を重ね、組織を少しずつ大きくしていった。
たった数ヶ月の期間で、その規模は数十人に及ぶようになり、生徒会も無視できないほどの勢力になっていた。当然、運動の中心メンバーたちは、生徒会の密偵に見張られる毎日となっていたが、多くの同志はそんなことは気にしていなかった。組織のリーダーであるリチャードソンは真面目で温厚な人間であったから、彼のどこを突いても黒い埃は出て来ないと思われていたのである。春も終わりに近づく頃には、リチャードソンがいずれ現在の会長と並ぶほどの名声を手にして、次の生徒会長選挙に立候補するのではないかという噂まで流れていた。
ところが、ある日、生徒会発行の機関誌にとんでもない記事が躍った。このリチャードソンが、学校の敷地内で小さい女の子数人とおままごとをしている記事だったのだ。生徒会の追跡調査でわかったことは、その行為が一度だけ成されたわけではなく、長い間繰り返されてきた彼の趣味だったのだ。リチャードソンは味方や他の陣営からの厳しい非難に耐え兼ねて学校を辞めることになった。
ラルセはその記事を読んで激昂し、「メンバーに加わっていなくてよかったわ」と吐き捨てるように言った。自分の信頼を完全に裏切ったのであるから、もっときつい行動に出てもおかしくなかったのに、それだけの言葉で抑えた彼女は偉かった。ロドリゲスや他のリベラル派閥のメンバーも、あまりのことにショックを隠し切れず、この件についてのコメントを差し控えてしまった。生徒会の威勢は大波に乗り、逆にリチャードソンについていた派閥の勢力は失墜し、この事件が起きてからは校内でのリベラル派の活動は大幅に制限されることになってしまったのだ。もちろん、リベラル派の間で、この事件のことを口に出すことはタブーだった。
そんなある日、ホームルームのさなか、京介がクラスで持ち上がっていたある政治的な問題について意見を求められ、気の緩みから「それは、まるでリチャードソンみたいだな」と何気なく口に出してしまったのだ。その途端、教室内は静まり返った。ロドリゲスも珍しく怒りを表情に出し、彼を冷たい目で睨みつけたのだった。ラルセが慌てて、「じょ、冗談でしょ?」と取り直しを入れ、その直後に京介も自分のコメントについて不適切だったと謝罪した。そこでこの一件が終わっていれば何でもなかったのだが、そうはいかなかった。ムングがそのタイミングで突然立ち上がったのだ。彼は冷静な顔のままで教室の全員に呼び掛けた。
「なんで、今のコメントが悪かったの? 言葉を引っ込める必要がどこにあったの? リチャードソンの事件のことについて語りたかったんでしょ? なんで、京介は謝ったの? このままじゃ納得がいかないよ。誰か説明してよ!」
彼は機関銃のような口調になって議長に詰め寄った。彼はすでに怒っていたが、怒り出したことに特に意味はなかった。それは、ある種の気持ちの高ぶりであり、きっかけが本当に京介の言葉であるのかも疑わしいが、それが顔に出ないだけなのである。普通の人間の場合は、興奮すると顔を徐々に赤くするので、感情の変化が読み取れるのだが、彼にはそれがなく、冷静な口調で淡々と同じことを繰り返すので、みんなはすっかり怖れをなしてしまうのだった。まるで自分の意見が、どんな時にでも、どんな重大な場所においてでも、最も重要なものとして取り扱われると勘違いしているかのようだった。
「俺が悪かったんだ。そのことは、もう、いいんだよ!」
京介は吠えるようにそう言って、彼を座らせようとした。事態の思わぬ推移に、彼も相当に慌てていた。しかし、ムングはすっかり興奮してしまっていて、こうなってしまうと、誰の言うことも聞かなかった。彼は後ろからどんなに呼びかけられ、責められても、議場の最前列から動かなかった。ここまで事がもつれてしまうと、事態は簡単に片付きそうもなかった。静かだった室内が荒れはじめた。時間を気にしだして、早く議題を進めたい一派と、ムングの意見に同調する一派が激しく言い争いだした。ムングの疑問が自分の耳におかしく聴こえたとしても、それは一つの列記とした疑問なのであるから、きちんと取り上げるべきだという意見もあった。
そのうちに、さっきの京介の発言を蒸し返せという声まで起こって、議論はさらに紛糾した。そんなことをしたら、さらに多くの生徒を巻き込んだ騒乱になってしまうだろう。ここまで来てしまっては、肯定も否定もただの雑音になってしまっていた。狂乱して悶え苦しみながら一人で頭を抱える生徒もいた。みんなの喚く声にすっかり脅えてしまって、耳を塞いでうつぶせになる生徒もいた。
後方で数人の生徒が立ち上がり、ムングを抑えつけようとした。事実、ここを乗り切るには、それ以外の解決策は無いように思われた。しかし、ムングは身体に触られると途端に野生生物のように興奮して、「俺に触るな! おまえら、何様のつもりだ! 今回のことをなかったことにする気か? そんなこと、許されないだろうが!」と叫んだ。女生徒のうち数名が立ち上がって、先生を呼びに行くと言って廊下に飛び出した。一人の女生徒がヒステリーを起こして立ち上がり、「今日のことは、卒業しても忘れないからね!」と口走り、みんなを脅して騒ぎを無理やり止めようとしたが、その言葉すら騒音に掻き消されて、誰の耳にも入らなかった。もはや、正しいも悪いもなかった。全員がルール違反を犯しており、全てが場違いであった。
そんなとき、誰かが「あーあ、ムングのせいで、ホームルームが台なしだよ」と力なく呟いた。その声を聞いて、ムングは我に返り、場の混乱や、みんなの虚ろな顔を見回してから、自分のしたことの重大さを悟って肩を落とした。そして、会議を混乱させた責任を取って、荷物をまとめて静かに退場したのだった。
その翌日からムングは不登校となった。彼が登校しない理由はわかりきっていたのだが、みんなも意固地になっていたので、しばらくは、彼を呼びに行く生徒はいなかった。先生も生徒同士のいがみ合いに介入するつもりはないらしく、生徒が一人欠けても、特に何の手立ても取らず、これまで通りに授業を進めた。ここで教師が間に入ってこのことを解決しても、決して生徒自身の成長には繋がらないだろうし、このことをバネにして、さらに大きな成果を掴んで欲しいと願ったのかもしれないが、これは一種の賭けだった。これまで一つだったうちのクラスに初めて大きな傷が出来た瞬間だった。
以上が、ムングが数週間の間、登校できないでいた、大まかな理由である。まあ、この年頃の青年というのは、心の奥に一言では言えない、繊細なものを抱えているから、ひとたびそれがもつれてしまうと、立ち直ることは難しいらしい。彼に悪気があって会議で荒れたわけではないことは、みんながわかっていた。問題発言をして、きっかけを作った生徒も悪かったし、発狂した彼を止められなかった生徒たちも悪かった。最初に問題の発言をした京介などは、次の日からは、もう何事もなかったように学校生活を送っていた。ラルセも彼が来なくなったことを余り気にした様子はなく、「青年時代に、一度ああいうことを体験しておいた方がいいのよ。波乱のない学生生活の方がよっぽど毒になるわ。泣いて、泣いてね、戻って来る頃には一回り大きくなれるのよ」とうそぶいていた。他の生徒はこの話題になると、障らぬ神にとか、自己責任だとか、こういう時に使われるお決まりの常套文句をフルに活用して、なるべく、この問題に関わらず、一定の距離を置いているようだった。ロドリゲスはさすがにムングのことを心配していて、『みんなはもう気にしていない』だとか、『元気な君の姿が早く見たい』だとか、こういう事件が起こった際の常套句がいっぱいに詰まった手紙を書いて、何度か彼の部屋に送り付けたりしていたが、反応は無かったので効果のほどはわからなかった。
この作品は長大なので少しずつ区切って投稿していきます。気軽に感想をいただければ幸せです。この作品はアラブ系千葉文庫(http://www9.plala.or.jp/applepig/)にも掲載しています。全部で十数個の作品を掲載しています。できれば、そちらの方にも遊びに来てください。




