第十五話 生徒会総選挙数日前Ⅳ
「わかりました。もう、いいです。あなたとこれ以上話し合うつもりはないです。あなたの話していることが一部正しい内容を含んでいることも認めます。その代わりに生徒会上層部へと自分の意見を届けるための上申書みたいなものがありましたら、それを出して下さい。今ここで書きますから……」
僕が強い口調でそれを言うと、受付嬢はあからさまに不満そうな顔を見せた。ここまでの話の流れで、きちんと対応できていたはずなのに、突然、自分が予期していない方向に事が進んでしまったことを後悔するよう表情だった。
「えー……、それは、会長への言づけではなく、生徒会執行部への直接の不満書を提出なさるという意味ですか? えーと、それは何と申しますか、大変大それた行為になると思いますが、お覚悟の方は大丈夫でしょうか?」
「ええ、僕は正気ですよ。どうせ、言づけなぞ、頼んだところで、僕が帰ってしまった後に、あなたにグチャッと揉み潰されてしまえばそれまでだし、きちんと会長に伝わっていないじゃないかと、後日、僕がここに踏み込んで来たとしても、この席にあなた以外の人間が座っていて、『何を言ってるんですか? そんなことをうけたまわった覚えはありません』などと、すっとぼけられてしまったら、この一件もまた闇に葬られ、僕の泣き寝入りで終わってしまいますからね。ここはもう、直接行動に出たいと思います」
「ですが、もう少しよく考えてみて下さい。あなたが生徒会への不満書などをお出しになりますと、ことによると、あなたにその書類を手渡した私までが非難の対象になりかねないのですよ。あなたは、あなた自身でも認められているように、目下、生徒会にとっての最重要人物です。もちろん、悪い意味でね。そういう意味では、これ以上、あなたの評価が下がることはないと思うのですが、上申書となりますと、どんなに偏屈で内容に乏しい意見でも、一応は審議会にかけなくてはならなくなりますから、ただでさえ、お忙しい幹部の方々に相当な迷惑がかかりますし、あなたの乱心を止められなかった私にまで火の粉が降りかかるのです。これを提出してしまいますと、あなたは学校生活において、いよいよ抜き差しならない、後戻りの出来ない厳しい道に入ることになりますが、それでもよろしいんですか? 前に光は見えなくとも、全く希望は無くても地道に生きていける今の生活の方がよろしいんじゃありませんか?」
「ここまで僕を追い詰めたのはあなたたちじゃないですか! いいから、早く書類を出して下さいよ。こんなときのために、僕はいつでも実印を持ち歩くようにしてるんですよ!」
「わかりました……。それでは……」
受付嬢は達観したのか、それとも僕を説得することをあきらめたのか、一度眼を閉じてしばらく瞑想した後、思わせぶりに机の脇にある引き出しの中から、一枚の薄茶色の書類を取り出して、僕の眼前に置いた。その用紙の一番上には、大見出しで『生徒会意志決定不満書』と記してあった。そのすぐ下には、血のように真っ赤な金赤で、『この書類を提出するということは、あなたの人生において、最も大きな分岐点になりかねません。今のご自分の考えは、客観的に見て、本当に正しいですか? 誰か近しい人に何度も相談してから、この書類にご記入下さい。一時の気まぐれでこれを提出してしまいますと、人生で最も大きな後悔という情念に、昼夜悩まされることになるでしょう』と書かれていた。
僕はそれを一読した後で、全く迷わずに記名欄にパヌッチと太い文字で書き込み、力強く押印した。記名欄の下には大きな括弧があり、『ここへ、生徒会がこれまで行ってきた議事や行為に対しての、あなたの不満事項を簡潔にお書き下さい。※この項目は生徒会執行部が目を通しますので、できるだけ丁寧な言葉を用いて、無礼が無いように、わかりやすく書いて下さい』と説明文が添えられていた。
『私はあなた方の強権によって、日夜苦しめられている者です。たった数回の些細な失態によって、他の生徒と明らかに違う扱いを受けることを、これ以上我慢するつもりはありません。大勢の意見のみならず、羽虫のような、小さな意見までも取り込んで行事をつかさどることは難しいことかもしれませんが、あなた方はそれができると見込まれたからこそ、生徒会の重職に就いているのではないですか? 一刻も早い、偏見による差別の解消を求めて上申します。審議を願います』
僕はそこまで一気に書いてしまうと、ふぅと息を吐いてからペンを置いた。
「本当にこの内容で提出してしまって、よろしいんですか? 自分には失うものは無いと、本当に言い切れるのは死人だけなんですよ?」
「ええ、それで結構です。淑女を気取ったあなたの丁寧な態度を駆使して、執行部に渡しておいて下さい」
僕が冷たい声でそう告げて席を立とうとしたとき、部屋の奥の扉が静かに開いた。僕は必然的に視線をそちらに向けた。
「ずいぶん長く話してるみたいだけど、大丈夫か?」
そう言いながら入ってきたのは、僕と同じホームルームのタッサンだった。彼が生徒会委員であることは知っていたが、今日、この場にいるとは思っていなかった。彼は受け付けに座っている僕の姿を確認すると、すぐに真剣な顔になり、こちらに歩み寄ってきた。
「なに? いったい、こいつは何しに来たの?」
真後ろからそう尋ねられて、受付嬢は少しの狼狽を見せ、間を置いて、考えてから返答した。
「ええ…、こちらのお客様がパヌッチさんとおっしゃいまして……、たしかご存知ですよね? すでに一時間ほど、お話を伺っているのですが、生徒会の理念や機構について、何か、もやもやとした霧のような、つかみどころのない不満があるということでして、ずいぶん頭が熱くなっていらっしゃるようなので、私も彼が生徒会に対して、何らかの威圧的な行動に出る前に説得して差し上げたいと思ったのですが、なかなか聞き入れていただけないのです。こちらの再三の呼びかけにも応じずに、ついには不満書を提出したいなどと言いだしてしまいまして……、いえ、それが、実はもうお書きになった後なのですが……」
タッサンはそれを聞くと、これは重大事だとすぐに悟ったようで、受付カウンターを飛び越えて、僕の側に来ると、まず、カウンターの上に乗っていた上申書を手に取り、それをグシャグシャに折り畳んで、自分のポケットに乱暴に突っ込んだ。次に、僕のコートをつかみ、無理矢理立たせようとした。
「何をするんだ! 制止するのはやめてくれ! もうとっくに覚悟はできているんだ!」
顔面を真っ赤にしながら、そう叫んで抵抗する僕の身体を、引きずるようにして、タッサンはそのまま出口の方へと向かった。
「うるさい! 黙れ! おまえは初犯じゃないんだぞ! これを提出したら、どんなことになるか、わかってるのか!」
怒鳴り声でそう言うと、タッサンは僕の身体を部屋の外の通路にまで投げ飛ばして、ドアが閉められた。中から受付嬢の、「お気が向きましたら、またどうぞ、おいでくださいませ~」という声が響いてきた。タッサンは廊下の隅で、茫然自失でうずくまる僕の肩をとって立ち上がらせ、そのまま肩を組みながら、二人で階段を昇った。ガヤガヤとした声が響いてきて、上から幾人かの生徒会委員が降りてきて、いったい何事かと、僕らに心配そうな声をかけた。今のただならぬ騒音を聞き付けたらしい。
「大丈夫だ! 年に数回くらい、こういう路頭に迷った人間が来るんだよ。おまえらもこういう悲惨な光景にそろそろ慣れないとダメだぞ」
タッサンはそう言って駆け付けてきた後輩達を叱り付け、彼らを追い返すと、再び僕の肩を支え持ったまま階段を昇り、四階にある喫茶室まで連れ込んだ。生徒会本部ビルの中にあるが、ここは一般の生徒にも開放されており、店内には保守層以外の生徒の顔もちらほら見受けられた。
「大物ぶって仲裁しようというのか? 君には悪いが、僕は何と言われても改心するつもりはないぞ。もう、誰に怒りをぶつけていいかわからないけど、とりあえず、文句をつけるなら、ここと決めて来たんだ。どんなに立派な文言で説教されようとも、引き返すつもりはない」
一番窓際の椅子に腰掛けてから僕はそう告げた。窓の外にはすっかり紅葉したイチョウの木々が見えたが、その美しい色合いも、落葉という必然の現実によって、すぐに淋しい景色に移り変わってしまうのかと思うと、余計に寂寥たる気持ちになった。
「まあ、落ち着け。今日は占い師審査の発表日だし、おまえの身にどんなひどい出来事が起こったのか、だいたいの想像はつくが、たった一回悪い結果が出たくらいで短気を起こすな」
タッサンはそう返事をしてから、奥のレジに向かって、紅茶を二つ注文した。清楚な雰囲気のウエイトレスが足早にそれを運んでくると、タッサンは小声で、「これから俺らが話すことは、聞かなかったことにしておいてくれ。他言されると困るんでね」と、真剣な顔で告げた。
「了解いたしました。ここのスタッフは皆、思想的には中立であるようにと申し渡されており、お客様のプライベートな情報は口外しないように教育されておりますから、大丈夫です。どんな熱い議論もお止めしませんので、安心してご歓談下さい」
ウエイトレスは、かしこまった態度でそう答えてお辞儀をしてから引き下がっていった。
「なんで、僕は生徒会から睨まれるようになったのか、その理由を知りたいだけなんだよ。それをすんなりと答えてくれたら、すぐにでも帰るさ」
タッサンは僕の言葉を聞くと、微笑みながらゆっくりうなずいた。
生徒会の委員と言っても、その忠誠度は人によって様々であり、ブエナや、先ほどの受付嬢のように、すっかり洗脳されて、組織にベッタリと張り付いている人間もいれば、今、眼前にいるタッサンのように、幹部や組織の中枢から、少し間を置いている人間もいる。
まあ、生徒会の幹部からすれば、タッサンのような、多少リベラルに寄った人間もいてくれた方が、組織の裾野を伸ばすときに何かと便利ではあるらしい。一般の生徒に近い人間の存在が、生徒会が年中執り行っている、一般の生徒にはわからないような小難しくて珍妙な議事や、それによる決定事項への認知を高めていると言えるのかもしれない。つまり、彼は思想に凝り固まった生徒会中枢の人間と、あまり政治的な知識のない一般の人間を結ぶ役目を担っているのだ。僕のような批判精神旺盛な人間が日常生活を送る上で、タッサンのような、思想的にどちらにでも取れるような人間と、どう接するかは非常に難しいところで、授業中や休み時間の雑談などでは、彼のグループに加わって、先生方のちょっとした失態や昨日のテレビ番組の話題などで、一緒に笑うこともあるが、お互いに相手がどういう思想の人間であるかは、重々承知しているので、第三者から小難しい話を振られると、意見が下手に割れないように、不意に何か他のものを見つけたような、ごく自然な態度で気づかれぬようにその輪から離れたり、咄嗟に何か新しい話題を思いついたように振る舞って、再び、他愛のない話へと舵を切ってしまうこともある。お互いを捻じ曲がった信条の持ち主と認識しつつ、それでも互いの派閥を軽視はしにくい厄介な関係だが、今日のような切迫した状況にならない限りは、自分の心中を簡単には明かさない、初冬に湖に張った薄い氷の上を、細心の注意を払いながら、割れないように慎重に歩くような人間関係だった。
「別に、全校生徒の中で、おまえらだけが生徒会のお偉方から特別に恨まれているってことはないのさ。ただ、過去の遺恨があるから、おまえが起こした、目も当てられない事件の数々を知っている一部の人間には、必要以上に警戒されてしまっているのは事実だろうな」
「怖いことを淡々と言わないでくれよ。その一部の人間の偏見に満ちた思想教育が、生徒会の下位にいる者たちまで巻き込んでいて、僕の正当な意見に、この学校の一般の生徒が惑わされないように、僕と、特定の思想を持たない中立的な層の生徒を分断しようとしているんだ。反論は許さないぞ。さっき、受付嬢からもこれを肯定する意見を聞いたんだ」
「おまえの妄想癖については、資料を見て、以前から知ってたが、それは余りにも被害妄想を右脳にまで拡げすぎだ。生徒会の人間とうまく折り合いをつけられるかどうかは、あくまでもおまえの側の問題なんだぞ。生徒会が公的な機関として、一般の生徒に対して、社会の模範となれるような思想教育を施すのは当然のことだ。それを保守的だ閉鎖的だと勝手に解釈して逆らうのはそっちの自由だが、その結果として起こり得るペナルティーやハンデについては、自分たちで責任を取るべきだ。つまり、生徒会がおまえらを見張ったり、他の生徒と分断しようとしているのは、取りも直さず、おまえらが身勝手に起こした過去の事件の直接の結果であって、執拗な差別を受けたくなければ、おまえたちが自分の行動を反省して心を入れ替えることが必要だな」
「だから、そのセリフは、さっき受付でも聞いたよ。それで、過去のどの事件が問題なんだよ? 大きく取り沙汰されたのは新入生歓迎会での一件だろうけど、あれなら、きちんと処分を受けたはずだぞ」
「まあ、言うなれば、周囲の人間を全く意に介さないようなおまえの普段からのふてぶてしい態度や、生徒会を必要以上に敵視する姿勢が一番の問題なんだが、最近、生徒会内部の密議で一番問題になったのは、今年の夏の幽霊ホテルの一件だな」
幽霊ホテルというキーワードを聞かされて、僕の頭にぼんやりと思い出されたのは、森の奥地に在って、外壁に大量の蔦の絡まって、元の色がわからなくなってしまった廃墟のようなホテルの姿であり、うだるような暑さの中、その館の中で繰り広げられた、とても効果的とは言い難い除霊イベントの数々であり、最後は、『人間たちに見捨てられ、幽霊たちに好かれて住み込まれてしまった以上は、もはやどうしようもない』という悲惨な結論にたどり着くしかなかった自分と仲間の疲労感たっぷりの暗い表情だった。
「幽霊ホテル……? ああ、あの一件か……。言っておくけど、あれはホテルの支配人が直々に出向いてきて、ロドリゲスに依頼した事件だからな。元々は観光客向けに造られた私立のホテルだから、支配人も生徒会には縁もゆかりもない人だし、仲間を呼んで最終的には四人で解決した事件だけど、クラス単位で取り組んだわけじゃなくて、あくまでも個人の業務の範疇だから、生徒会への報告義務はないはずだぞ?」
「いちいち屁理屈をこねるんじゃないよ。おまえ、あの時、いくら受け取った? なんて率直に尋ねても、素直に答えてくれるような性格じゃないから、こちらで勝手に調べさせてもらったが、たしか、報酬は百万だろ? 一般人から依頼を受ける場合は、生徒規約上は五十万以上は高額報酬にあたるから、生徒会への報告義務があるんだ。おまえたち四人は、あの事件すら無かったことにして、報酬は素知らぬ顔で懐に入れたらしいが……」
これはあくまでもクラスメイトとの雑談であるから、まさか、あの一件のことを突かれるとは夢にも思ってもいなかった。瞬間的に頭が真っ白になるくらい焦ったが、この件については弱みはこっちにあり、これ以上攻め込まれるとまずいので、僕はすぐに彼の目の前で右手を大きく振って見せて、彼の言葉を遮った。
「だから、待ってくれよ。確かにあのとき受け取った金額は全部で百万だけど、ホテル内にひしめいている大量の亡霊を残らず排除してくれという、支配人の無理な依頼を、丸一日かけて四人で協力して遂行したんだ。もちろん、報酬も四人で山分けしたから、懐に入れたのは、一人当たり二十五万ほどなんだ。だから、規約上は報告する義務はないはずだ」
タッサンは僕のそんなグズグズとした言い訳を聞くと、まるで小学校の教師が、聞き分けのない子供を相手にしているかのような、つまらなそうな顔をして大きくため息をついた。
「それは結果論だろ。生徒規約を細部までちゃんと読んでくれよ。依頼を受けたときに提示された報酬額が問題なんだ。その事件自体の報告が一切なかったから、生徒会本部でも最初は本当にそんな事件があったのかさえ、わからなかったが、大きな金が動くと、本人たちが、いくらしらばっくれても、自然と不穏な匂いがたつものなんだ。とある生徒から、自分の身近に、不正に金銭を得た生徒がいると密告があってな。生徒会でも、直近の密偵グループに頼んで、数週間に渡っておまえらの後をつけて購入品などの情報を集め、四人の羽振りが以前と比べて飛躍的に良くなったことを確認して、ようやくおまえらが不当に大金を得たことを知ったんだ。まあ、現在も調査は継続してるから覚悟しておけよ。いずれ証拠が揃い次第、返金命令が出るからな」
「僕もあの一件で金銭を得たのは事実だから、百歩譲って、三人の罪状は認めるとしても、ラルセだけは違うんだ。彼女はあの事件で腰を痛めてしまったんだよ。ホテルの入口で、出会い頭に会った幽霊に驚いて後方に倒れた際に、背中を地面に強く打ちつけてね……。その治療費で二十五万のほとんどが消えたらしいから、それについては免除してやってくれよ」
「彼女だって、仲間意識よりも金に目が眩んで、自分から望んであそこへ行ったんだろう? そんなことを酌量する必要はないと思うが、それはこれからの審議で決まることだ。おまえらの勝手な行動への詰問もそれから開始されるだろうよ」
ちょうどその時、新たに店内に侵入してきた一人の生徒が僕らのテーブルの横を通り過ぎていったため、タッサンは一度会話を止め、さりげなくグラスを持ち上げて、刺さっているストローを口へ運んだ。その後、さっきの生徒が僕らの声が届かない位置まで移動したのを油断なく確認してから、彼は再び話を始めた。
「しかし、ひどい事件だったらしいな……。霊媒士の京介を頼みにして散々暴れまくった後で、ホテルのメインホールにあるシャンデリアの上で白骨化した遺体を見つけたんだって? おまえはそれだって、警察にも通報しないで、自分で勝手に全容を解明したことにして、学校まで帰って来たんだろう? まあ、あのホテル自体が事件直後に潰れてしまって、支配人も雲隠れしたから、幽霊ホテルの内情が実際にはどんな状態だったのか、今では知れないし、これから再調査をしたところで、もう事件の全容はわからないだろうけどな……」
「そうか……、あのホテルでの一件が生徒会にばれてたのか……。それで夏以降、僕に対する弾圧が強化されたんだな……。でも、誰にも大金を得た話をしなかったのは、大金を独り占めしようと思ったわけじゃなくて、他の生徒に妬まれるのが嫌だっただけなんだけどな……。あの頃は商売道具を買い替える必要があったりして、出費がかさんでお金が必要な時期だったしね……。この学校は何もしなくても、ただ、学内にいるだけでお金がどんどん出ていくシステムになってるだろ……? 金持ち連中はどんなに浪費しても、何食わぬ顔してるけど、ジリジリと資産を削られている僕にはかなり厳しい世界だよ」
「それは仕方ないだろ。この学校だけに限らず、世の中は才能のある者、権力の座に在る者には、何もしなくても自然と金銭が巡ってくる仕組みになっているんだ。財産のある者と無い者が明確に分かれて存在してくれないと、経済社会のピラミッドが形成できないからな。
例えば、法律だって、各組織の中に在る規約だって、上にいる人間が、現役の間も引退した後でも有利になるように上手く作られているんだ。富める者の家系はずっと裕福だし、使われる側の貧しい者は、その子供や孫だってほぼ例外なく底辺の生活を強いられるんだ。おまえのような不幸慣れしたダメな人間から見れば、それは一見不公平に感じられるかもしれないが、実は社会経済を滑らかに動かすために、一番効率の良くなる仕組みなんだ。貧しい者は貧しいままでいてもらう方が、世の中全体から見れば、素晴らしいことなんだ。もちろん、一部には、才能や運を駆使して、想定以上に階段を駆け上がる人間もいるが、そんな人間は全体から見れば極めて小数だし、それだって、上層部の人間の計算の範疇だ。そういう幸運な人間を看板代わりにして、庶民に微かな夢を見せるのは決して悪いことじゃないからな。宝くじの一等やアイドルのオーディションがその一例だ。
だが、時折、努力することも、組織に従ってまっとうに生きることも否定して、ずる賢い知恵を発揮して、法律に抜け道を発見して、悪事を働く人間が出てくる。他の人間は貧しくても我慢して、上役が作ったしきたりに騙された振りをして、生活しているのにな。法に抜け道を作る者。それがおまえらなんだ。おまえらみたいな無法者を取り締まるために厳格な法律が必要なんだ。その上で厳しい刑罰が必要なんだ。世の中の人間が全員、おとなしく社会や組織の仕組みに従ってくれていたら、本当は残酷な刑罰や陰惨な差別なんて存在しないはずなんだ。わかるか? おまえは何かあると、すぐに上空を睨みつけるが、こっちが厳しく取り締まっているわけじゃないぞ。良識と道徳という、社会全体に張り巡らされた透明な網が、それを学習をしないおまえたちには見えないから、親とはぐれた小鳥のように、好き勝手に飛び回っているうちに、その網に捕まってしまい、もがいているだけなんだ」
「夏の一件については、その説明で痛いほどわかったよ。どうやら、こっちが悪かったようだ。でも、僕の気持ちもわかるだろ? 僕は生まれも良くないし、この学校に入らず、普通に生きていたら、どんなに苦労しても、最後は必然的にトウモロコシ畑で働くことになってしまうんだ。貂のマフラーやタフタのコートなんて、他人の物を羨ましく見るだけで、一生身にはつけられないんだぞ。だいぶ色彩が薄くなってしまったけど、実は僕にも夢があるんだ。売れっ子の占い師になって大金持ちになったら、ペテルブルクに小さな別荘を持つという夢がね」
タッサンはそれを聞くと、一度、口をあんぐりと開いて、たいそう驚いた表情を見せたが、そこは生徒会のやり手窓口委員である。すぐに冷静な態度に戻って、お説教を再開した。
「おまえの仲間は、思想はともかく、性格は純朴でいいやつばかりだから、おまえを甘やかすばかりで、現実的な意見を言うことはないと思うが、俺はおまえのことを本当に助けてやりたいと思うから、冷たいことも言わせてもらう。悪いが、それは絶対無理だ。おまえは生まれも悪いし、性格も良くない。それに判断力も悪けりゃ、才能も全くない。これから奇跡のような努力をしたところで、偉い人間になんかなれるわけがない。こんなこと、トランプや水晶がなくたってわかるさ。まあ、考えてみろよ。俺が言うのもなんだが、凡人として生まれてきてしまった以上、無理に上を見て、羽根もついてないのに飛ぼうとしたり、買えもしない海外の別荘を夢見て、かえって悶々と悩み苦しむより、ただ食べ、たまに唄い、そして寝るという生活自体を、つまり、生きていること自体を喜んでみたらどうだ? まあ、これも地を這う蟻の考えだが、農園や工事現場で一日中汗を流して働いて、バターも付いていないパンとコーンスープだけの食事を楽しむ。そんな一生でもいいじゃないか。上にいる貴族たちのことさえ考えなかったら、世の中は案外楽しいもんだぞ」
「生徒会に怒鳴り込んできた生徒たちを、いつもそういう安っぽいセリフで説得して、丸め込んでいるのかい?」
「まあ、そういうことだ。いつもは俺が出て来た以上、相談料をとるんだが、友達のよしみで、おまえは無料でいいよ。ただ、ここの紅茶代金だけは払っておいてくれ」
タッサンはそれだけ言って立ち上がると、屈辱感にのしかかられて、身体が重くなってしまい、身動きが出来ない僕を置いて、さっさと店から出ていってしまった。
タッサンが出ていってしまうと、途端に喫茶室の他の客の視線が、すべて僕に向けられているように思えてきて、耐え難く感じられるようになってきた。壁には『ここで逃げ出すな 友を論破するまで語れ』と書かれた生徒会のポスターが貼られていたが、ここにお茶を飲みにくるほとんどの客は、何の思想も持たない一般の生徒なので、その多くは、隣のクラスで目についた可愛い女生徒のこと、あるいは、次の技能テストのこと、授業で出された課題のことなどで話し合っており、忽然と人生の岐路に立たされた僕のように、思想論を熱く語っている人間が物珍しく思えるのは当然のことだった。僕はその冷たい視線たちを避けるために席を立つと、飲み終わったならとっとと代金を払って帰ってくれと言いたげな、レジスタッフの方に向かってゆっくりと動き出した。
「ご討論、お疲れ様でした。どうでしたか? お相手に対して、自分の思いをはっきりと主張できましたか?」
ウエイトレスは僕の顔を覗き込んで、そんなことを尋ねてきたので、完全に言い負けたことを上手くごまかそうと、サバサバとした顔で紅茶代金を払ってやり、「いや、今日はそんな深刻な話をしにきたわけじゃないから……。今度、生徒会長や役員を連れて来ることがあったら、その時こそは大勝負で熱い戦いになるから応援よろしく頼むよ」と、自虐的な笑顔でそう答えつつ、自分はいったい何を言ってるんだろうと、一度首を傾げてから、僕は喫茶室を出た。
重々しい足取りで再び階段を下って一階まで戻って来ると、一階のフロアでは紺色の制服を着込んだ、複数の生徒会委員が待ち受けていて、反思想を持った不審者が乱入してきたらしいから、今、動員をかけているところだ、変わった人間は見なかったか、などと真剣な顔で話しかけてきたので、僕はさすがにこれはまずいと思い、顔をあわせないように適度にうつむいたまま、「ずっと四階にいたが、周りには安っぽい考えを持った、俗物っぽい生徒しかいなかった」と答えて、うまく彼らの横をすり抜けた。
そこからは逃げるように小走りで動いた。時々後ろを振り返りながら、校舎の間の小道を辿って数分かけて広場まで戻ってきたのだが、そこまで来て、ようやく、まだ食事を取っていなかったことを思い出した。だが、わざわざ第三校舎まで引き返して食べるのも億劫に感じられたので、今日は正門の外でいつも店を出しているホットドックの移動屋台で食事を済ませることにした。そこの主人は昼間のこの時間しか店を開いていないため、珍しいものが好きな学生たちにもかなり人気があり、少し並んでいるかもしれないが、その待ち時間でさえ、このいらいらした気持ちを沈めるのにちょうどいいかと思えるのだった。
この作品は長大なので少しずつ区切って投稿していきます。気軽に感想をいただければ幸せです。




