的鏡
弓道を題材として書いていますが、弓道を知らない人でも楽しめるように書いたつもりです。学校の文化祭用に書き上げたもので、とある先輩(T先輩としておきましょうか)の指導と協力の元書いた短編です。
道場の神棚に供えられた榊の枝は、水が変えられたばかりのようで、まだ青々としていた。
春休みの弓道場には、暑さと寒さが同居している。陽のあたる場所では汗ばむ陽気で、日陰になっている場所では肌寒い。
会で安定させた矢を、的へ向かって離す。的へと一直線に飛んだ矢は、的の端、木製の枠に弾かれる。小気味いい音を立てて矢を弾いた的を睨みつけるが、それで矢が外れたという事実が変わる訳でもない。
「……クソっ」
多少は気が晴れるかと思った。射場から退場し、俺は分かりやすく悪態をついてはみたものの、むしろ虚しさが強まっただけであり、曇天模様の気分は晴れ間すら見せない。
弓道場の隅で正座し、弓を引く時に右手につける革の手袋──弓懸を外す。
「荒れてんなぁ、おい」
頭のすぐ真上で、野太い声が聞こえた。俺はやや乱暴に弓懸を外し終えると、声の主へと目を配らせる。
「何だよ、悠真」
「いや、別に? 我等が弓道部のエースともあろう男が、最近は不調だなぁと思っただけだが?」
俺より十センチばかり背の低い悠真は、愉しそうに笑っていた。他人の不幸は蜜の味、を地で行く奴なのだ。
「うるせぇよ、今にまた中たるようになるから待ってろ」
へいへい、と生返事を残して、悠真が併設された部室へと歩いて行く。元々、部室へと向かう前にちょっかいを掛けたくなっただけなのだろう。
戸を開け、室内に入ろうとした悠真が、思い出したようにこちらを振り向いた。
「頑張るのを悪いとは言わんが、程々にしろよ」
俺の内心を見透かすような悠真に対して、うるせえよ、と返す。
悠真はそのどこか弱さを滲ませた俺の言葉を、再び見透かすような口ぶりで、へいへい、と去なすようにして戸の先へと消えていった。
その後を追う気にもなれず、俺は遠目に射場を眺める。
後輩の女子達が弓を引いているのが見える。彼女達は随分と楽しそうに弓を引いていた。的には殆ど中たっていない。しかし、自分達の引きの欠点を議論しあっている姿は、ただ純粋に弓道を楽しんでいた。中たり外れ関係無く、純粋に弓道を楽しめる。──その事に、つい羨望の眼差しを向けてしまった。
的は己の心を映す鏡である。
そんな言葉を師匠から聞いたのは、俺が弓道を始めて間もない頃だった。
弓道では二十八メートル先の的へと中てる必要がある。直径三十六センチのその的は、射抜く者の精神によって簡単にその矢を外させる。
そのため、矢が的のどの辺りに飛んでいるのか、という事はその者の心の有り様が如何なるかを知る事のできる良い指標だ──と、師匠に教わった事を覚えている。
当時、師匠の的中率は九割八分だった。それは、百本射った矢のうち、九十八本が的に中たるという、驚異的な数字だ。まだ的に中たった事もなかった俺には、師匠は天上人のように見えていた。その師匠からを聞いた言葉に、俺はひどく感銘を受け、より一層弓道にのめり込んだ記憶がある。
まさかその言葉を、弓道を始めてから六年目の高三の春に、しかも後輩から言われるなんて思っても見なかった。
「先輩、的は自分の心を映す鏡なんですよ?」
快晴の弓道場。爽やかな風の一つでも吹き込んでくれればいいのだが、生憎全く風が無いため、蒸し暑さを感じさせる。
この時、俺はどんな表情をしていただろうか。きっと、驚愕に満ちた滑稽な顔をしていたに違いない。それくらい、驚いたのだ。
何故その言葉を、目の前の後輩が知っているのか、と。
「祖父から聞いたんです。──的は己の心を映す鏡である。 嬉しい事も、悲しい事も、悩んでいる事も、一度的の前に立てば全て分かってしまう、って」
その言葉を、一言一句違わず聞いた事があった。だからこそ、確信を持って俺は彼女へ尋ねた。
「そのお祖父さんの名字って、もしかして石原か?」
「ご名答です。石原は母方の旧姓にあたります。先輩の事は、ときどき祖父から聞いていましたよ」
まさかこんな身近に、師匠の関係者がいるとは思わなかった。しかも、師匠の孫とは。
案外世界は狭いものだ、と苦笑が漏れる。
「それで? 何でいきなりこんな事を言い始めたんだ?」
「先輩、悩み事でもあるのかな、と思いまして。今日私より中たってませんでしたし」
最後に添付された発言で額に青筋が立ったのが、自分でも分かった。
弓を持つ左手に力が入る。弓懸に覆われた右手で取ろうとしていた矢を取り損ねた。静かな弓道場に金属音が響く。
この小生意気な後輩に一言言ってやろうと息を吸い込む。しかし──
「もしかして、まだ射型直ってないんですか?」
せっかく吸い込んだ息が、嘆息となって口から漏れ出る。ただでさえ蒸し暑い空気が、重さを持って体に纏わりついてくるように感じた。
射型とは文字通り、弓を引く上での型の事だ。美しさや気品なども問われるものであり、射法八節という教えが基本とされている。
骨格や筋力などの問題から、弓の引き方に個人差が出てくる弓道において、自分に合った弓の引き方を見つける事は重要だ。重要なだけに、一度引きが崩れるとなかなか直らない。
「……直ってない」
わざわざ言う必要もないだろう、と後輩を睨む。直っているのなら、的に中たらない訳はないのだから。
「じゃあ、一緒に朝練しませんか?」
彼女の瞳の中に、訝しげな表情を浮かべた自分が見えた。
正直な所、この後輩──白石からそんな提案をされるのは意外だった。彼女は楽しく弓が引ければいいのだろう、とそう思っていたからだ。
かといって、それが断る理由になるはずも無かった。
◆◆◆
俺は弓を引いていた。
正面に掲げた弓をまず矢の真ん中程まで引く。そこからゆっくりと的に向かって、矢の水平を保ちながら左右均等に引いてくる。
引いてきながらも的へと狙いを定め、矢の長さいっぱいまで引き分けてくると、弓道用語で『会』と呼ばれる時間が始まる。
強く張った弓の力を逃さぬよう、左右のバランスを取りながら心を落ち着かせる刻。
会に入った瞬間、周りの雑音がいきなり遠くなる。鳥の鳴き声も、朝早くから練習しているブラスバンドの演奏も、俺の意識から外れていった。
まるで、世界に俺と俺の弓矢、的しか存在しないような感覚。
視界は的しか映していなく、的の中心──的心へと中たるイメージだけを作り続ける。
弓を引く上での左右のバランス、狙いの位置などを確認していると自分の鼓動の音すらも遠のいて行く。澄み切った集中の中、それは突然やってきた。
的と俺だけだった世界に、何か異物が混じったかのような違和感が生じる。
途端に、心臓の鼓動が五月蝿く鳴り響き始めた。激しい鼓動が、俺の集中を掻き乱し、早く矢を離せと急かしてくる。打ち鳴らされる生命のビートが、視界すら歪ませ、俺に矢を離す事を強要した。
とても鋭いとは言えない弦音と共に、矢が的へと飛んでいく。途中まで真っ直ぐ飛んでいった矢は、最後に射手の動揺を表して、ブレた。
鈍い音がした。矢が的ではなく、的を設置するための土に刺さる音だ。矢は、的からほんの数ミリ、横にずれて刺さっていた。土に刺さるあの音は、的が俺を嘲笑う音に聞こえなくもない。一度射場に入る時、弓道は四本の矢を一セットとして射れるが、そのうちの一本も中たらなかった。
深い溜息をついた俺は、緩慢に射場から退場する。
……中たらない。最近はあの違和感のせいで満足のいく弓が引けない。違和感のせいで中たらないと分かっていても、その違和感が何を原因としているものか皆目検討もつかない。
「はぁ……」
つまり、八方塞がりだ。
弓道ほど、精神的にキツいスポーツは無い。かつて師匠に言われた事が、どうしようもない現実として立ちはだかってくる。
……取り敢えず、矢を取りに行くがてら外の空気でも吸ってみようか。多少は苛つきも治まるかもしれない。
俺が靴を取りに行こうとした時、背後から聞き慣れた音が聞こえた。独特な、心地良いその音は、矢が的に中たった音。
自分の弓では、最近なかなかお目にかかる事のできないその音に、思わず振り返った。
──見惚れた。そうとしか言いようがなかった。
後ろでまとめ上げた黒髪が風に揺れ、彼女の整った顔の周りで踊る。彼女の瞳は強い意志を秘めて、ただひたすらに的だけを見ていた。
凛と伸びた背筋に、全くブレる事のない引き分け。的への狙いがつくと微動だにせず、そして真っ直ぐに矢を離す。快音が弓道場に響き渡る。ここまで綺麗な音が鳴るという事は、矢が真っ直ぐ的に中たった証拠だ。角度がつき、斜めに中たった矢では、綺麗に澄んだ音は鳴らないからだ。彼女の引いた矢は、四本中、四本全て的に中たっていた。弓道用語で、皆中と呼ばれる事だ。
彼女の引きが特異な訳ではない。只々、弓道の基本に忠実な引きだ。しかし、基本に忠実な故に、人を惹きつける魅力があった。
白石が弓を引き始めたのは俺と同じ、中学一年生からだと言っていた。俺と彼女はたった一年間しか、弓道をしている期間が変わらない。
俺は彼女のように、人を惹きつけるような弓が引けているのだろうか。
「先輩、見てたんですか。私の引き、何か変な所ありました?」
射場から出てきた白石は、無邪気にそう問いかけてきた。俺の心臓が、激しく鼓動を刻み始める。いつも通り、真っ直ぐに視線を合わせてくる彼女を見ていられなくなり、目を逸らす。
「変じゃなかった。綺麗だったよ」
良かった、と笑う彼女を盗み見る。彼女にとっては、あの引きは普通であり、何一つ特別な事では無いのだろう。
胸の奥に苦く、重い感情が広がっていった。それが焦燥なのか、それとも嫉妬なのかは分からなかった。
「……だっ!? ちょっ、待った!」
「待ちません。我慢して下さい」
火照った右肘に氷嚢が当てられる。ひんやりとした感覚が気持ちいい。関節が軋む音を別にすれば、の話だが。
しかし、関節技一歩手前の状態でアイシングするのもいかがなものか。
俺は、白石にアイシングされていた。彼女は手慣れた手つきで氷嚢を固定していく。
「はい、終わりましたよ。しっかり固定しましたし、多分動かしても大丈夫ですけど、なるべく安静にしてて下さいね」
「悪いな。助かった」
白石は手際良く、処置に使った道具を直していく。極められかけた肘関節を労りながら、俺は彼女の横顔を伺う。
「肘の筋肉に熱が籠もってます。練習のし過ぎです」
「……申し訳ない」
話しながらも、白石は迅速に片付けを終える。時々、邪魔そうに彼女は髪を掻き上げる。そうしているうちにも、その指の先から豊かな彼女の黒髪が零れ落ちていく。
練習ではいつも後ろで結んでいたから、髪を解いているだけでも印象が大分違う。
「なんで今日は髪解いてるんだ?」
「今日は、もう練習終わりましたからね。結んでるのは弓引く邪魔になるからですし。それがどうかしました?」
いつもと違う彼女の姿は、俺の目にとても新鮮に映った。束縛から解き放たれた髪は風になびいて、その煌めきを存分に魅せつけている。
「いや、ただ気になっただけ」
そこまで言って、俺は口を閉ざす。
二人だけの場内が、やけに静かなものなのだと今になって気になり始めた。
「先輩、無理し過ぎなんですよ」
「無理、してるつもりなんて無いんだけどな」
「してますって。一日に何本射れば気が済むんですか」
「……千本くらい?」
俺としては結構真面目に答えたつもりだったのだが、彼女からは呆れた視線が返された。馬鹿じゃないんですか。そう言いたげな視線に、俺の目が泳ぐ。
「冗談も大概にして下さいね。本気かと思って心配になりますから」
「心配してくれんのか。優しい事で」
達観しているような彼女に、軽い皮肉を飛ばす。しかし、ただの悪戯心からの一言は、何気ない顔をした白石からの、思いがけない反撃をもって打ち返された。
「私、先輩の事好きですから。心配くらいしますよ」
え。
一瞬、彼女の言葉が理解できなくなる。 血流が頭へと昇っていき、俺の顔が熱を帯びていく。
好き? 誰が、誰を? もしかして、白石が、俺を──?
「初々しいカップルかよ、お前ら」
俺の理解が追いついた頃に、背後から声がかけられる。振り返ると、甘い物を食い過ぎたような声音の悠真がいた。
話を聞かれてたのか。顔に昇っていた熱が引いていく。ヤバい、という思考が脳内を埋め尽くす。
「恋愛に現を抜かすな、とは言わないけど、せめて場所を選べよ」
てっきり揶揄されるのかと思っていただけに、拍子抜けした。悠真は毒気を抜かれたような、疲れ果てたサラリーマンみたいな表情をしている。
「え? ……あ」
俺より半秒遅れて状況を理解した彼女が、顔を赤く染め上げた。
彼女は林檎みたいな顔のまま悠真に、そういう意味じゃないです、だの、大体先輩の事なんて、だの中々に酷い発言をしている。
流石に傷つくぞこの野郎。
「いや、まあ良いよ。ごゆっくり。……リア充土に還れ」
「安土に埋めますよ、悠真先輩!」
俺の精神を削り取る争いが白石の物騒な発言で締めくくられる。安土──的を設置する土──に埋めたら射抜かれるだろ。そんな俺の考えも置き去りにして、悠真はいつものように部室へと入る。残された俺と彼女の間に微妙な沈黙が広がった。
むず痒くなる沈黙に、先に耐え切れなくなったのは彼女だった。
「……私、帰り支度してきます」
そのまま帰り支度と言う名の逃走をしようとした彼女を見送ろうとして、ふと呼び止めた。
「あ、白石」
彼女は足を止め、俺の方へと振り向く。
「……何です?」
彼女の髪が揺れる。その髪を眺めて、先程言っていなかった言葉が、喉の奥から飛び出した。
「よく似合ってるよ、その髪も」
彼女の頬にすっと朱がさし、珍しく目が逸らされる。しばし返答に迷っていた白石は、消え入りそうな声を漏らした。
「ありがとう、ございます」
ぎこちない彼女の礼と、照れくさそうな笑顔は、俺の胸に甘く焦がれる疼きを残していった。
朝練を続けて暫く。彼女から、今日は参加できないとの連絡が入った。
久しぶりに俺一人で弓を引く。相変わらず中たらないが、今日は特に調子が悪かった。的が矢を避けているのではないか、という程に、僅かばかりその脇をすり抜けてしまう。
どれだけ集中力を高めて弓を引いても、どれだけ狙いの修正を重ねても、矢は的にかすりもしなかった。
五十本も引いた頃には、日がかなり高く昇っていた。一本の矢を引いているうちに汗が滴り落ちる。
まだ春なのに、かなりの暑さだ。たまに、目に汗が入る。ただでさえ痛いのに、それが弓を引いている時だったら迂闊に拭う事もできないので最悪だ。中たらないストレスのせいか、微かな腹痛も感じる。
八十一本目の矢を引いてくる。もはや身体に染み付いている軌道を描いて引き分け、会へと入る。
依然として、鼓動が耳に響く。鼓動の一つ一つが、お前じゃ中たらないと語りかけてするようだった。矢を離す。矢は的の前で失速し、地面に刺さった。
何で、中たらない……っ!
気がつけば俺は舌打ちをしていた。射場の中であり、神聖な場所であるのにも関わらずだ。何をやってるんだ、と気分が重くなる。
焦るな、焦るなと考えても、春休みが終わってすぐにある大会を意識してしまう。高校生活最後の大会なので尚更だ。彼女の引きを見てから、さらに焦りが強まったような気もする。
射場から出ようとして、俺の身体に貼り付く感触を感じる。袴の下に着ている肌着が、汗でかなり濡れていた。
そう言えば、朝から何も飲んでいない。
人間というのは不思議なものだ。今まで気にしていなかったものなのに、一度意識してしまうと気になって仕方が無くなる。
部室へと水筒を取りに行こうとした時、視界がぼやけた。同時に、足元から軽く、高い音が鳴る。見てみると、左手に持っていたはずの弓が床に落ちていた。
何故床に落ちているのか。そう思ってすぐ、鈍い衝撃を伴って意識が遠のいて行く。
沈んでいく意識の中で、俺を呼ぶ声がしたような気がした。心配そうな、悲痛な声だった。
「……先輩は馬鹿なんですか?」
聞き慣れた声に、耳を傾ける。
動かそうとした自らの四肢はその意に反して全く動かせそうになくて、俺はただ朦朧とした意識の中で彼女の枝垂れた横髪を見ていた。
何故、彼女がここにいるのか。
彼女がこの場にいるはずのないことは、その連絡を直接に受けた自分自身がよく分かっていることで、きっとこれも都合の良い夢のようなものなのだろうと、思考を停止させる。
ただ委ねるように、熱にあてられた頭をその柔らかな感触へと沈ませた。
「中らないんだ……。何度射っても、的はまるで俺を嘲笑うようにこちらを見て、矢を受け付ける素振りさえも見せてくれない……」
弱々しい声で、俺はただ心の丈を口にする。
「いいから……今は休んでて下さい。先輩になにかあったら、私がお祖父ちゃんに怒られます」
夢の中くらいは弱音を吐かせてくれても良いのにな。俺はそう思いつつ、続けて言葉を紡ぐ。
「お祖父さん……師匠か。あぁ、そうだ、嘲笑っているように見えるのは、きっと俺の心だ。俺自身が俺を嘲笑ってるんだ」
「そんな事……」
「的は鏡なんだよな…… 白石」
熱気の籠る射場の中を春風が吹き抜ける。それだけで、靄が晴れたように意識が醒め冴えてくる。夢でも、妄想でもなく、目の前にいる彼女の瞳と確かに視線が重なり合った。
「白石……?」
心臓が跳ね上がる。
春の日差しに形どられるようにその緩やかな卵型の輪郭線が浮かぶ。垂れた黒髪が頰を掠める。そんなこそばゆさも気にならないほどに、俺はただ彼女から目を背けることができなかった。
息を殺すようにして、彼女を見つめる。
柔らかな感触が彼女のその大腿部、膝の上である事に気づいてしまったからだ。
心音が、彼女に気づかれないように、息を、鼓動を、押し殺す。
「先輩……?」
白石を前にしてこんなに緊張しているということが、無性に恥ずかしく感じる。だから、気づくな、と自分に言い聞かせた。
彼女が俺を呼ぶ。ただ、普段通りに呼ぶだけで、死んでしまいそうになった。押し殺しても殺せやしない心臓が、止まりそうになる。
冷静になれ、と思う事で余計にパニックになる思考をなんとか自らのものにする事で、状況が見えてきた。
きっと、俺は朝練の間に倒れたのだろう。疲労か、熱中症か。自らの脇や首筋にあてられている濡れたタオルを思うに、恐らく後者の方だろう。応急処置をしてくれたのが、彼女であることは明白だった。
「ごめん、ありがとう」
俺はまだ怠さの残る身体を床から起こし、胡座をかく。彼女は正座したまま、どういたしまして、と応える。
言葉が途切れると、弓道場は静まり返る。静寂がとてつもなく気まずい雰囲気に感じられた。
何か話した方が良い。だが、俺は彼女にどんな言葉をかけたら良いのだろう。そう思うと、口を開くのが怖くなった。
「正座、キツくないか?」
結局口からでたのは、そんな当たり障りの無い言葉だった。しかし、それは純粋な疑問でもあった。
弓道部であり、よく正座をする機会があるとはいっても、やはり正座はキツい。それが直接床にしているのなら尚更だ。
彼女は珍しく言い淀み、恥ずかしそうに目を伏せた。
「……足が、痺れてまして。立てないんです」
思いがけない可愛らしい理由に、それまでの悩みの事も忘れ、俺は吹き出すように笑ってしまう。彼女は顔を真っ赤にして立ち上がろうとするが、痺れのせいでうまく立てないようだった。
その動作も俺の笑いを誘い、俺は笑った。
「人の頭って意外と重いんですよ!? 先輩が悪いんです!」
どうしようもなく可笑しくて、久しぶりにで笑いが止まらなかった。林檎みたいに顔を染めて唸る彼女は、まるで猫のようで。再び俺を非難するようにその唇を尖らせて、声をあげる。
「先輩が、悪いんです!」
「あのさ…… 白石」
「……なんですか? 何か言いたいことあるならどうぞ」
若干語気を強めて、彼女が返す。その訝しむ目つきを、真芯に捉えて、俺は射るように声を放つ。
「俺の、引きを見てくれないか?」
◆◆◆
からりと晴れ、春から夏へと季節が変貌していく頃。俺の高校生活最後の大会が始まった。
ここで負ければ、俺達三年生は引退となる。普段の大会とは比べ物にならない緊張感が、試合会場の弓道場全体に漂っていた。
俺の出番は一番最初だ。運が良いのか悪いのかは分からないが、注目が集まるのは間違いない。
同期である他の三年や、後輩共からの力強いエールを受ける。悠真には何度も背中を叩かれた。悪ノリした皆に背中を叩かれ過ぎて感覚が麻痺してきた頃、白石も応援の言葉をくれた。
「頑張って来てください」
たった一言の中に込められた信頼と期待は、確かに俺の心へと響いた。その視線には、明らかにただの先輩に向ける感情ではない想いが内包されている。
薄々、自分に向けられた好意には気づいていたつもりだったが、こうもはっきりと表されるとやはり照れる。
「任せとけ」
我ながら、自然と口から出てきた言葉に驚いた。意識していないのに口角が上がっていくのを自覚しながら、射場に入る控えへと向かう。彼女は俺の言葉に軽く目を見張っていたが、俺が控えの椅子に座るまで手を振ってくれた。
射場の中は外の比ではない緊張感に満ち満ちていた。つい呑まれそうになるほどの重圧に、俺は大きく深呼吸を繰り返す。
何回深呼吸をしても、身体の強張りは治まそうにない。内心舌打ちしつつも、一度的を見る。その時、応援席にいる彼女の姿が目を入ってきた。
まだ弓を引き始めてもいないのに、必死に祈っている彼女。後で自分が同じ射場に立つ事を分かっているのだろうか。
彼女を見ていると、いつの間にか余計な力が抜けていた。
そこから数度、深呼吸を重ねて気持ちが充分に落ち着くと、俺は構えていた弓を掲げ、引き始める。
弓を引き分けてくる間、彼女に直してもらった所だけを意識する。引き過ぎです、と言われた右手を、左手との力のバランスを考えて引く。なんでそんなに力を入れる必要があるんですか、と言われた肩の力を抜いていく。
引き分けが完了し、会へと移行する。激しかった心臓の鼓動も、彼女といる時の鼓動の早さに比べれば何という事はない。
的に中てるには、自分の心に素直になり、自分の心に負けなければ良いだけだ。 素直に、強い心を持って矢を離せば、矢は的へと吸い込まれるものですよ、と彼女が言った時にはしばいてやろうかとも思ったものだが、確かにそうとしか言いようがない。
鋭く研ぎ澄まされた弦音を連れ立って、的へと一本目の矢が中たった。鳴り渡る快音は、的がそれで良いと俺に言っているように聞こえた。
応援席にいる部員達から掛け声がかかる。その中には、勿論彼女の声もあった。
ニ、三本目の矢を引きながら、これからどうしようかと考える。この大会に勝っても負けても、期間が多少変わるとはいえ、俺は引退だ。そうすれば、彼女との距離も必然的に変わってくる。
彼女との関係をただの先輩後輩で終わらせるのか、それともそれ以上に進むのか。
……俺は、どうしたいんだろう。
二本目、三本目も的へと突き刺さり、応援の声はもはや悲鳴のようだ。
四本目、ラストの矢を引いてくる。皆中のかかった矢というのは、やはり緊張も段違いだ。
目に映る全てがモノクロ写真のように見えてくる。黒彩色の世界で、目の前の的が、嘲笑する声が響き渡った。
俺自身が、自らを嘲笑う声が。
ふと、頭の中に白石の顔が浮かんだ。小生意気に笑う彼女。照れたように微笑む彼女。二人きりの時の、無邪気な笑顔の彼女。
何かが、すっと、胸に落ちた。
気づけば二十八メートル先に佇む的は、ただ物言わずそこにあって、世界は色付きを取り戻していた。
そして、指先の微かな痺れが、矢を離す瞬間が近い事を意味していた。
もし──
皆中することができたら、白石に告白しよう。
そう決意すると同時に、矢を離す。
古来より物事の真の姿を映し出すと言われる鏡。それに例えられた的が立てる音は、まるで俺の決断を祝福するように、どこまでも澄んでいた。
読んでいただきありがとうございます。もしかしたら、続編も書くかもしれません。T先輩や執筆に協力していただいた全ての人に感謝を!